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Elvish  作者: ざっか
外伝一
25/117

とあるエルフの一日を 六


 空気が張り詰めていた。

 一足飛びで斬りかかれる間合いを維持しながらも、しかし二人は動かない。互いに剣を正面に構え、睨み合う時が過ぎていく。

 

 数回切り結んで、ノエルの力量を察したのだろう。ちらりと見えたイヴァレの顔に、余裕は欠片も見えなかった。暗く鋭い二つのまなこが、ノエルをひたりと捉えている。

 

 安堵と共に息を吐いて――セラヴィアはようやく気づいた。

 ノエルの体が赤かった。

 白い太ももには飛沫が飛び、黒い服のところどころが湿っている。背中とわき腹には細い切り傷が見て取れた。

 恐らくは黒ずくめの返り血と、ノエル自身の出血が混じっているのだと思う。

 

 思わず歯軋りをした。ノエルの血。怪我。セラヴィアのために、あるいは所為で。

 怒りのような熱さと、不安のような重さが、腹に軽い痺れを生む。

 その感情を押し殺して――痛んだ両肩の治療に入る。冷静に。氷のように。今なら、それくらい出来るはずだ。

 

 やけに長く感じる沈黙を破ったのは、イヴァレの言葉だった。


「どうやってここを見つけた? 気絶させて連れてきたんだ、魔力なんぞ探れるはずも無い。目覚めたのはついさっきで、町から感じるには遠いはずだが」


 問いには答えず、ノエルは静かに言った。


「セラに、何をした」

「さあて?」


 とびきり邪悪に、イヴァレは笑った。


「お前の最悪を想像すりゃいい。『それ以上』をしてやったさ」

「……殺す」


 掻き消えるような速度で、ノエルは踏み込んだ。

 あからさまな挑発である。彼女にだってそれは分かっているはずだ。

 それでも、ノエルは真正面から斬りかかった。

 

 銀の刃が空気ごと裂くようにして、大上段から振り下ろされる。イヴァレが止めて、腰を落とす。擦りあわされた刃同士が、小さな火花を虚空に散らせた。

 明確な体格差を物ともせず、ノエルの刃がじわりじわりと角度を増す。イヴァレの足元の床にヒビが入った。舌打ち。男が素早く体を捻る。絡んだ刃と共に二人の姿勢が崩れた。

 

 隙を晒したのは、ノエルだった。むき出しの腹。イヴァレの具足がつま先までめり込む。男は笑い、直後に歪む。蹴りなど物ともせず、ノエルが剣を横薙ぎに払った。

 硬い音。イヴァレが大きく後方に跳ぶ。

 

 鎧の胸元に、横一文字の亀裂が入っていた。肉には届いていないが、紙一重であったことは間違いない。

 逡巡の時間を、ノエルは与えなかった。再び地を蹴り、大上段から斬りかかる。見え見えである。しかし速く、そして重い。単純であるからこそ、力がそのまま乗る。

 

 足を止めての、剣戟が始まった。

 耳を震わせる金属音が、隙間無く部屋に響き渡る。

 一見すれば、ノエルの太刀筋は雑であった。とにかく速く、とにかく強く。細かな技はどうでも良いと、暴力を正面に振るい続けるだけだ。

 

 まるで素人のような剣を、しかしイヴァレは必死の表情で防ぎ続ける。稚拙だが、恐ろしく早い。セラヴィアからすればまともに目で追うことすら出来ない。獣のような乱撃は、そのまま獣のごとき脅威であった。

 押されている、どころでは無い。僅かに緩めば、次の瞬間に真っ二つにされるだろうことは、誰よりもイヴァレが感じているだろう。

 

 ――こんなに、強かったんだ。

 ノエルは明らかに頭に血が上りきっている。セラヴィアが無事であることを伝えて、冷静さを取り戻させるべきかとは思う。

 その必要が無いとでも言わんばかりに、彼女の剣は速度を増していく。

 

 セラヴィアは、ノエルと剣で遊んだことは無い。もちろん戦ったことも無い。

 彼女は大抵一人で訓練しているし、たまにする模擬戦の相手は三人しか居ない。

 

 それは即ち母であり、あるいは休みに帰って来る姉であり、そして姉に付き添ってやってくるエリス副団長である。

 全員、見事に怪物だ。ノエルが勝つどころか、一太刀入れている姿すら見たことが無い。たまに可愛そうになるくらいだったのだ。


「くそっ!」


 忌々しげな声が、イヴァレの口から漏れた。距離を離そうと後方に飛ぶが、それ以上の速度でノエルが追撃を続ける。

 あるいは、セラヴィアを人質にでもしようと思ったのかもしれない。

 

 既にそれは遅いと言えた。注意をノエルから逸らすようなことがあれば、次の瞬間に首と胴が離れるだろうから。

 ノエルの動きが僅かに止まり――渾身の力を篭めた剣が、イヴァレに向かって伸びていく。

 男の体が水平に飛ぶ。壁に叩きつけられた。轟音。巨大なヒビ。ずるりと床に崩れ、剣を握った手が緩む。その命を刈り取るために、ノエルは再び地を蹴って。

 

 それは、単なる、苦し紛れだったのだと思う。

 迫り来る死神に向けて、イヴァレは素手の左を突き出した。

 風、である。足止め、あるいは悪あがきか。集中する余裕も無く、勢いは弱弱しい。セラヴィアでも、容易くかき消せる程度の物であった。


「くっ!?」


 ノエルが、止まった。

 本来であれば、ありえないことだった。身体の強化と防御の膜は、近いものがある。片方が優れていれば、必然的に残りも出来るはずであった。

 

 イヴァレは、ぽかんと口を開け――やがて、深い笑みを浮かべた。

 風が止まる。舞った埃があたりに漂う。

 一瞬の静寂を挟んで――胴体程度に圧縮された、風の弾がノエルに向かって撃ちだされた。

 

 ノエルは迎撃する。魔術とはいえ、生み出してしまえば風である。剣で払えば勢いは減る。しかし、無効化するには至らない。

 けん制のためか、やや小さな風の弾を連続して放ちながら、イヴァレは立ち上がった。

 

 再び、胴体程度の風が来た。ノエルは受けず、踏み込むようにして回避しつつ距離を詰める。しかしそれは、向こうの手のひらであったようだ。

 狙い済ましたように、突き出される刃。勢いの乗ったノエルは止まれない。防ぐべく剣を構える。すり抜けた。

 

 湿った音。硬い音。ノエルがくぐもった声をあげて、後方へと大きく引いた。

 肩口のあたりから、どくどくと出血している。

 見る見るうちに血は止まり、傷もあっという間に治るだろう。しかしそれは、不利を打開したことにはならない。


「無泉……はありえんか。となれば……その髪。切り替えが壊れていると考えるのが妥当か?」


 イヴァレの声には、明らかに余裕が生まれていた。

 踏み込もうとしたノエルを、広範囲にばら撒くような風が遮った。体勢を立て直すノエルを尻目に、イヴァレは次の手に出ている。

 

 火球、だ。

 軌跡を残して放たれる。今度は火である。散ったものに触れるだけで、確かな傷になるだろう。


「構えて!」


 叫んで、セラヴィアは跳ね起きた。普通に避ければその隙を狙われる。剣で払えば火に焼かれる。だから走る。

 ノエルとイヴァレ、二人の間に割って入り、全力で防御の障壁を張った。


「くぅ……」


 熱風が肌を焼く。ぎりぎりで防げたが、無傷とはいかない。

 目の前に。

 凄まじい勢いで迫った死の刃を、もう一つの刃が受け止めた。

 ノエルが剣を振るうが、セラヴィアが邪魔で全力は出せない。イヴァレは軽く受けて、再び下がった。

 男の顔から、余裕は消えない。


「付け焼刃だろう?」


 言葉の通り、ではあった。

 二人で戦う訓練なんてしたことは無い。それでもやる。やらなければ死ぬのだ。


「セラ」


 ノエルの声。頭の後ろから聞こえる。震えている。


「逃げて」

「バカ」


 顔も向けずに言い放った。

 ノエルに時間を稼がせて、その隙に町まで走る。恐らく自分は助かる。この様子なら、他の黒ずくめはノエルに始末された後なのだろうし。

 そしてノエルは死ぬ。イヴァレにとって、生かす理由など無いのだから。

 

 あまりにも、下らない選択肢だった。


「構えて。注意して。大丈夫、勝てる」


 セラヴィアは冷静だ。驚くほどに。

 舐めた言葉だと、イヴァレはそう思ったのだろう。

 男は一つ舌打ちして、再び風の弾を放った。

 受け止める。消しきれなかった風に、髪が強く煽られた。イヴァレが踏み込む。ノエルが脇から飛び出て、イヴァレの剣を受け止めた。

 

 鍔迫り合い。ノエルが優勢ではあるが、向こうとて分かっている。イヴァレの眼前に、赤い光が生まれつつあった。

 火球。このままではノエルの顔を焼くだろう。

 

 ――できる、かな。

 下手に割って入れば、かえって足を引っ張る。恐らく奴はセラヴィアを狙うであろうし、そうなればノエルが捨て身で庇うことも悟られている。

 だから、剣の外から行う必要がある。

 

 膜。壁。魔術という異常の否定を、遠くに投げるように。

 しゅうしゅうと。湯気のような音を立てて、イヴァレの火球が消えていく。


「――なんだと?」


 本来は己の周囲に纏う防御の一部を、ノエルの前に移した。移せた。

 無論、出来は悪い。火も完全に消えない。それでも――飛び切りの威嚇になったようだ。

 

 動揺するイヴァレの剣を、ノエルが押し切った。両刃が肩口にめり込む。血が吹き出て床を染める。

 苦悶。狂気。殺気。後はこのまま、


「舐めるなよ糞が」


 ぼん、と大きな音がした。

 ノエルが――見えない何かに、背中から殴られたように、イヴァレのほうに吹き飛んだ。当然、刃は更に食い込む。しかし男は動じない。

 勢いを乗せた渾身の肘が、ノエルの額に叩き込まれた。ぐらりと揺れる。彼女が崩れる。

 

 ――なんで。

 恐らくは、風の弾を、ノエルの後方に生み出したのだ。

 防御の外へ。セラヴィアの小細工と、似たような手で。

 うつぶせに、ゆっくりと倒れるノエルを満足げに見下ろして――イヴァレの目が、セラヴィアを捕らえた。次はお前だと。

 

 忘れていた恐怖が、つま先から這い上がるようだった。


「その前に」


 男は、しかし視線をノエルへと戻すと、ゆっくりと剣を振り上げた。

 トドメを刺す。当然の選択。

 セラヴィアの恐怖は、それで消えた。

 

 踏み出す。イヴァレは気にもしない。ノエルが倒れているのだから、火を撃つわけにもいかず、そもそも消される。

 突然、男の顔が驚愕に歪んだ。

 ぐらぐらと体勢が崩れ、そのまま床に引きずり倒される。

 

 意識が戻ったのか、ほとんど反射なのか。ノエルが、その腕力だけで、イヴァレの動きを封じていた。

 剣が手から零れた。男が足掻く。ノエルは更に力を強める。イヴァレの肘が、ノエルの後頭部に叩き込まれた。がつがつと、骨と鉄がぶつかる嫌な音が、部屋に響き渡っている。

 

 イヴァレの注意は、まるでセラヴィアに向いていなかった。

 魔術は消せば良い。直線状に刃物は無い。素手で殺せる腕力も持たない。脅威と感じないのも、当たり前である。

 ノエルの腕が更に伸びて、イヴァレの鎧の隙間を掴んだ。男の体が一度浮き上がり、そして背中を地面に叩きつけられる。

 

 イヴァレは大きく息を吐いて――ノエルの動きがそこで止まった。力尽きたのか。十分だった。心配は後回し。

 イヴァレの瞳がセラヴィアを捉える。素手のまま。せいぜい殴る程度しか出来ないと。数秒で動けるようになると。

 セラヴィアは、倒れこむように、イヴァレに駆け寄って、


「なにを」


 男の口に、手のひらを当てた。ぱん、という音。仄かな光。灼熱の兆し。

 イヴァレの目が、これ以上無いほど見開かれて。

 防御の壁。その内側。即ち、男の口内に生み出された火球が、イヴァレの命を焼き尽くした。

 

 強い光。強烈な悪臭。少しの静寂。大きな――ため息。

 ノエルの体がぴくりと動いて――ゆっくりと、上体を起こした。頭部からの出血が酷いが、目はしっかりとしている。既にある程度回復したらしい。

 焼け焦げたイヴァレの顔をちらりと見て、静かに彼女は言った。


「終わったの……?」

「うん」


 返事は、しっかりと出来たと思う。

 実戦は、初めてだった。殺されかけたのも、初めてだった。

 殺したのも、初めてだった。

 だというのに、大した悪寒も来ない。飲み込めていないだけ、なのだろうか。

 

 ノエルの肩から力が抜けて――次の瞬間、彼女は立ち上がっていた。いつのまにか、手には落とした剣が握られている。

 彼女は、構えていた。門の外に向かって威嚇するように。

 のそり、と。

 黒い影が部屋にゆっくりと入ってきた。襤褸切れを纏い、わずかに見える髪は白い。間違いなく古老の黒ずくめである。


「まだ、いたの……?」

「逃げて」


 漏らした声に、ノエルがはっきりと返した。

 剣を持つ手も、地を捉える両足も、微かに震えている。疲労の蓄積は深刻なのだろう。

 それはセラヴィアも同じである。一度緊張が抜けた所為で、立てるかどうかすら怪しいものだ。

 それでも、見捨てて逃げる気など欠片も無い。


「逃げてっ!」

「ばーか」


 悲壮感すら感じる叫び声に、明るくセラヴィアは返した。二人とも、生き残る。他に選択は無いのだと思う。

 静かに、黒ずくめは剣を構えている。きっと強いのだろう。現状の二人では、勝ち目があるとも思えない。とはいえ諦めるつもりも無い。

 

 震える膝に鞭を打って立ち上がる。見据えつつ、ノエルの斜め後方へ。火でも風でも何でも良い。出来ることをすれば良い。覚悟を決めて。

 ――え?

 

 それは、とても奇妙な光景だった。

 逃げ道を塞ぐように、門へと立ちふさがる黒ずくめの腹部から、奇妙な棒が突き出された。

 

 細い幹のようなそれは、白く白く、先は五つに分かれていて。

 手だと、理解するのに、二秒。

 誰かが、後方から、素手で黒ずくめの腹を貫いたのだと理解するのに、さらに二秒。

 

 桁外れの力に熱さにも似た恐怖が奔って――すぐに消えた。

 黒ずくめが口から滝のように血を垂らす。驚愕と恐怖と激痛に塗れた目を、必死に後方へと注ぐ。

 体を紙くずのように抉るその圧倒的な暴力に、セラヴィアは心当たりがあるからだ。


「うちの妹達に、なにをしてくれるんだお前は」


 聞き覚えのある声と共に、突き出た手が激しくぶれた。

 どうやったのかは分からないが、とにかく結果は一つである。

 黒ずくめは、腹の辺りから上下に両断されて、床に転がった。泉のように広がる赤。男は一度震えて――それきりだった。


「セラ! ノエル!」


 雫を払って、駆けてくる。

 金色の髪。真っ白な肌。エメラルドの瞳。赤く染まってしまった白い礼服。

 いつ見ても綺麗だなと、身内ながらに思う。たとえ血に染まっていてもだ。


「おかえり、姉さん」


 返事と共に、気力が体から抜けていくのをセラヴィアは感じていた。

 緊張が解けたからか、安心からなのか。

 疲れた。とにかく、今はそれが一番に来る。

 目の前までやってきたルナリアの瞳は、どこか潤んでいるようにさえ見えて――。

 

 突然、何かがぶつかってきた。抑えきれず、セラヴィアは尻餅をつく。硬い床に思い切り骨をぶつけてしまった。


「いだい……」


 ノエルだった。

 セラヴィアの胸元に顔を押し付けたまま、小刻みに震えている。泣いて、いるのだと思う。


「もう、なーんでノエルちゃんが泣くの」

「……だっ……だって……ぅ……」


 背中に回された手は痛いくらいに締め付けてくる。幼い子供か、子猫のようだ。助けてもらったのはセラヴィアのほうなのだから、立場が逆だと思うのだけど。

 

 セラヴィアは手を伸ばして、ノエルの頭をそっと撫でる。傷はもう塞がっているはずだが、赤く染まった髪はやはり痛々しい。今日は一緒にお風呂に入ろう。そしてしっかりと洗ってあげないと。

 

 ノエルが顔を上げた。涙と血と泥と埃でぐちゃぐちゃだが、それでも尚かわいいと思う。


「待ってろって……言われたから……でも、い、一時間待っても、こない、し……気配も、なくて、探しても、みつから、なくて……」

「それで、町の外まで?」

「も、戻ったら、変な足跡があるなって……それを追ってたら、セラの感じが、し……し、て」


 その後、恐らくは外で黒ずくめを倒し、こうして助けに来てくれたのだろう。

 ノエルの頬を撫でる。出来る限り優しく。


「ありがとうね」

「……うん」


 ノエルは再び胸元に顔を押し付けてきた。そっと頭を抱く。彼女が離れるまでは、こうしていようと思う。


「こいつは……」


 ルナリアの声が聞こえた。首を向けると、イヴァレの死体の前に居る。顔は原型を留めていないが、鎧で多少の判別はつくのかもしれない。

 セラヴィアは言った。


「イヴァレ……なんとか。第五騎士団の百人長だって」

「イヴァレ、か」

「知ってるの?」

「顔だけはね」


 姉は苦々しく顔を歪めて、頭を掻く。

 こちらまで戻ってくると、セラヴィアの傍に屈みこんだ。


「……平気か?」


 その言葉には、様々な意味が含まれているのだと思う。

 手の感触、焼く直前のイヴァレの目。戦ったこと。殺したことを喉の奥まで飲み込んでみる。

 

 震えは――こない。心は驚くほど平坦だ。霧が晴れたようにさえ感じる。

 姉の目を見据えて、セラヴィアはしっかりと頷いた。

 初めての戦いで、姉は何を感じたのだろう。母は。父は。自分の抱く感情は、正常なのだろうか。

 

 ルナリアの手が伸びてきて、頭を撫でる。少し強く。

 心地よい、と思う。子供扱いされるのも仕方が無い。実際自分は妹で、事実子供で、何もかも負けているのだから。それでもいつか、一つくらい。

 ひとしきり頭を撫でて、ルナリアが立ち上がった。


「とりあえず、帰ろう」

 



 帰り道で、姉に尋ねた。なぜ予定より早かったのか、どうしてあの砦に寄ったのか。

 一つ目の答えは単純で、途中で馬車から降りて自分の足で走ったのだという。絶対に儀式に間に合わせるため、だそうだ。礼を言うと、姉は少し照れくさそうだった。

 

 二つ目も、同じように単純だった。砦の前には広い道路があり、それはメーデと王都を繋ぐ主要道路だからだ。まっすぐ向かえば当然砦の脇を通る。派手な魔力のぶつけ合いに、風に乗った血の匂い。極めつけは草原に転がる黒ずくめの死体。これで素通りする奴は居ないと。

 あるいは、気づいてやってくるのもイヴァレの予定だったのかもしれない。ルナリアならば恐れることなく突っ込んでくるであろうし、手間も省ける。誤算は――ノエル、か。

 

 なんにしても、助かったのだ。メーデが見えてきたことによって、強く強く、その事実を実感できた。

 相変わらず服は薄く、戦いでぼろぼろになってしまっている。左半身は寒いが、右半身はそうでも無い。

 なにしろ、ノエルが腕にしがみついたまま離れないのだ。未だ泣き止まず、しっかりと指まで絡めてくる。歩きづらいことこの上無いが、ここで離れるのは外道すぎると思う。

 

 だらだらと歩いてようやく家に着くと、門の外に人だかりが出来ていた。

 こちらに気づいたらしく、いくつもの視線が注がれる。それを察して、ノエルが握った手を離して、セラヴィアの後方に隠れる。

 百人近い集団の中から、一人の男がゆっくりと前に出た。


「逃げた、のでは無さそうですな」


 無駄なく引き締まった体格と、表情を感じさせない顔。外見上は二十歳前後だが、確か二百程度だったか。皺一つ無い黒い礼服が、中身さえも表してるように見える。

 

 名はリファール。メーデの『金周り』を担当する男であり、王から直接派遣されたお目付け役でもある。

 セラヴィアの儀式を確かに見届けることが、今夜の職務だったはずだ。

 姉の声。


「悪漢に攫われ、まさに命の危機だったんだ。もう少し優しく迎えてやったらどうだ」


 僅かに眉を動かしただけで、リファールは続けた。


「それで、儀式はいかがされますか? こうして皆様にお集まりいただいたわけですし、見たところご自分で歩けるようだ」


 職務に忠実、と言えば聞こえはよさそうではある。

 セラヴィアは軽く下唇を噛んだ。

 戦って、死線を越えて、体の底まで実感したことがある。

 

 今の魔力で剣刺の儀を行えば、確実に自分は死ぬということだ。腹が据わり、おかげで楽観も過信も解けた。腹に開いた穴を塞ぐ力は、自分には無い。

 

 無論、姉が居る。駄目だと判断すれば、途中でルナリアが割って入り治療の術を使うだろう。得意分野では無いはずだが、腹の穴くらいは塞いでしまうと思う。

 

 そうして儀式は失敗に終わり――晴れてセラヴィアは枠から外れる。実力からすれば当然の結果ではあり、不満など無い。無い、はずだ。

 右手を強く握り締めた。何が最善なのだろう。メーデにとって。あるいは自分にとって。


「あのね」


 黙ってしまったセラヴィアの代わりに、ルナリアが答えた。


「ついさっきまで命懸けだぞ? 歩けるが、それだけだ。極度に疲労してる身で剣刺の儀なぞやらせて何が分かる」

「言い出されたのはセラヴィアお嬢様にございます。相応の責任が存在するかと考えますが」


 姉はゆっくりと腕を組んだ。


「儀式の目的は、セラヴィアの力を示すこと。そうだな?」

「その通りです」

「……この子を攫った悪漢だが、どうやら元騎士団の者らしい」


 ぴくり、とリファールの頬が歪んだ。


「第五騎士団の百人長で、名をイヴァレ。詳しく知っているわけでは無いが、立場を考えれば実力は相応のはず。そうだな?」

「でしょうな」

「そのイヴァレを始末したのは、セラとノエル、この子達二人だ。力を見せるという目的は立派に達成できたとは思わないか?」


 リファールの目が大きく見開かれた。


「真実ですか?」

「私を疑うか?」


 訪れた沈黙は一瞬のことで、リファールは小さく息を吐いた。

 ルナリアは大きな声で、皆に語りかける。


「そういうわけだ、皆様方。お集まりいただけたことには心から感謝する」


 その言葉で、人だかりはあっという間に消えた。最後に姉とリファールが何か話していたようだが、聞き取れなかった。

 最善の結果だ。そのはずだ。だけど。

 握り締めた手に、自分の爪が食い込む。

 

 イヴァレに勝てたのは、ほとんどノエルの力である。自分一人では軽く嬲られ、そのまま殺されるだけだったろう。

 皆が納得して帰ったのは、姉の力だ。まったく同じ言葉で説明したところで、セラヴィアの発言であれば同じ結果になるはずもない。

 

 ――結局、わたしは。

 何も出来ていない。


「どうしたんだ」


 ルナリアが、すぐ傍に立っていた。


「どこか痛むのか?」


 そう言って、セラヴィアの頬をそっと撫でる。瞳は優しく、手は柔らかく、どこか空気は暖かい。

 

 この優しさも、自分が弱いからなんだろうか。

 素直に受け取れない。それもまた自分の脆さに思えてくる。かといって手を払いのけることも出来ない。


「大丈夫だよ」


 なんとか笑顔を作って、姉の手に自分の手を重ねる。

 先は、とても長そうだ。

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