とあるエルフの一日を 五
おっかなびっくりと隅を歩くのは終わり。
無駄に音は立てないが、それでも急いで廊下を進む。狭い砦だ。普通にしていればあっという間に外につくだろう。
角を曲がり更に進むと、大きな扉が目に入った。確か中は広々とした大部屋のはずである。同時に、外へと繋がる扉も存在するはず。
要するに、玄関だ。
黒ずくめの姿は無い。耳が痛いほどの静寂が、どこか現実感を失わせる。それでも――油断だけはしていない。
少し歪んだ扉を開けた。どう足掻いても音が響くが、今更である。
部屋に入った。窓は無いが、中は比較的明るい。外に面しているわりには気温も高いようだ。それだけ大量の魔石を活性化させたということだろう。
床はむき出しの石であり、壁には汚れたぼろ布がところどころから垂れている。
錆の目立つ剣や槍が隅に放り捨てられているのは、昔と何も変わらない。いざ進入された時にこの場で食い止めるためなのか、広さは十分すぎるほどあった。
目的の扉は、まっすぐ正面に存在する。
ヒビが入り、腐りかけてはいるものの、分厚く大きなそれはまさしく門であった。
さっさと開けて、走って逃げる。疑問など既に山ほど沸いているが、全て後回しだ。
足早に部屋を突っ切って、門に手をかけた。肌に刺さる隙間風に耐えながら、門を――
「くっ!?」
空を切るような音と共に、何かが門に突き立った。思わず身を翻したが、刺さった場所を見る限り、最初から当てるつもりなど無いようだ。
長剣である。勢い良く振り返れば――投げ放った張本人が、扉の辺りに立っていた。
「正面からとは。思ったより、度胸があるんだな」
銀の髪を揺らす男の声は、弾んでいた。ゆっくりとこちらに近づいてくる。
――どうする。
逡巡は一瞬で済んだ。開けて逃げる間に背中からやられる。
視線を逸らさず、剣を門から引き抜いた。正面に構えて、男を睨みつける。既に、相手は部屋の中央まで来ていた。
男が笑う。ぐつぐつと。
声の震えを強引に抑えて、セラヴィアは言った。
「……他の奴は?」
「さて、散歩かな」
ふざけた答えだが、その態度と表情から分かることもある。
おそらく、こいつは一人で戦うつもりだ。舐めているのか、他に理由があるのかは判断がつかないけれど。
セラヴィアは、深く深呼吸して――抑えていた魔力を、体の隅まで行き渡らせた。
血液に混じるようにして、頭頂部からつま先まで、満遍なく流れていく。もう隠れる意味も無いのだ。
威嚇も篭めたセラヴィアの全力を、恐らくは肌で感じたその男は、小さく鼻で笑った。
一歩、更に相手が踏み出してくる。
男から魔力は感じない。古老の黒ずくめは皆そうなのだという。暗殺と奇襲のために、雫一つ漏らさない術を体に仕込まれるのだそうだ。
もっともそれは、使う必要の無い状況の話で――つまり男にとって、セラヴィアはその程度の相手であると。
腹も立つ。怖くもある。しかしどちらも酷く薄い。
自分でも不思議なほどに、セラヴィアは冷静だった。
いざ避けられない状況になったら『必ず先に殴りつけろ』と、姉の副官に教えてもらった。
だから動く。
剣を構え、迎え撃つ振りを見せて――即座に右に飛びつつ火球を生み出す。
放出魔術とは、つまりイメージだ。頭で描いた空想を、現実に侵食させる。乖離しているほどに難度は上がり、分かりやすい絵ほど容易くなる。
手間と威力の狭間で、火球は最も効率の良い手段の一つである。
木の実程度を三つ。拳程度を一つ。軌道に不規則さを混ぜつつ、最大の速度で相手に投げつける。
男は――避けた。あっさりと。
着込んだ甲冑を物ともせず、火球の隙間を縫うように、距離を詰めつつ避けてしまった。
思わず舌打ちをする。強い。思ったよりずっと。
廊下の壁で火が弾けた。周囲に強い光が満ちる。
「次は?」
その態度を油断と言えるだけの力は、セラヴィアには無かった。
距離はせいぜい十歩。次の手をしくじれば接近戦だ。
位置が変わり、背後は門でなく壁になった。錆びた剣、痛んだ槍が後方に散らばっている。
――だったら。
再度、火球を生み出した。大きな物を二つ。
男の顔が、つまらなそうに歪む。
放った。部屋の中を、軌跡を残して火の球は飛ぶ。男は軽く横に飛び――次の瞬間、球の中から、一回り小さな火が飛び出した。
大で小を包んでおいた。注意深く魔力の流れをなぞれば分かったはずだが、余裕に溢れる男にそんな考えは無かったろう。
既に飛んだ後である。とっさに動けぬ男の身へと、小さな火は吸い込まれて――。
あっさりと、男の体に触れる直前で、弾けて虚空に消えてしまった。
「へぇ、工夫してるな」
ぎり、とセラヴィアは軽く歯軋りをした。
分かってはいるのだ。
魔術というものは、生み出すよりも消すほうが圧倒的に簡単である。
ありもしない『何か』を魔力で強引に存在させているのだ。防ぐには、その嘘を暴くだけで良い。
きちんと訓練を受けた戦士、ましてや一対一であれば、取れる戦術など単純なものである。
防御の膜を隅々まで張り、残った全てで身体の強化を行う。後は正面から叩き潰す。火の球などは、曲芸にしかならない。
防ぐために使ったからか、男の体には魔力が満ち満ちていた。肌に伝わる感覚が、量と質を物語る。
姉よりは遥かに少ない。そして、セラヴィアよりは随分と多い。
だからといって、膝を折ろうとはまるで思えなかった。
握り締めた剣の硬さ。男から伝わる圧力。埃っぽい空気。興奮と緊張の入り混じった体温。
首筋に奔る、馴染んだ感覚。
――え?
それを確かめる暇もくれず、男が地を蹴った。
手にはいつの間にか剣が握られている。刀身は薄く、細く、そして漆黒だった。
――極光製。
わざと、だろう。振り下ろされた見え見えの上段を、必死に受けた。剣も力もまるで違う。鍔迫り合いなどしていられない。
絡めるように剣を捻って力を逃がし、全力で後方へと飛ぶ。埃が舞う。サンダル越しに、硬い石の感触があった。
「小細工はなかなかだが」
追撃が来た。
鋭い横薙ぎをやり過ごしたかと思えば、即座に刃が返って来る。
鋭く、重く、速く。受けきれ、ない。
「がっ……」
力を逃がす余裕も無く、真正面から受け止めてしまった。
飛ばされて、壁に背中を強かに打ちつける。息が詰まる。涙が出る。それでも目は逸らさない。
男の顔からは――笑みが消えていた。
不愉快そうに眉をしかめ、唇を尖らせている。
追い詰めたにも関わらず、来ない。間合いの外に立ったまま、男が呟いた。
「その顔で……」
「――は?」
「なぜそんなにも弱い!」
怒りを篭めた咆哮。
踏み込まれた。構える。遅れた。受けた剣が、手から弾かれて飛んでいく。
素手にされて、体勢も揺らいだ。隙の塊となったセラヴィアは、一瞬、確かに死を覚悟した。
来たのは、蹴りだった。
腹部に刺さる。地面を転がる。視界がゆれるような衝撃が、体の芯まで染み渡った。
土と埃が口に入った。擦った耳から血が出ている気がする。このまま寝てしまいたい。そんなことで良いわけも無い。
震える膝に渇を入れて、どうにか立ち上がる。床に散らばる剣が刺さらなかっただけでも幸運だ。
男は、動かなかった。
人質として使うのだから、殺すわけにはいかない――どうにも、そんな単純な話ではなさそうだ。
セラヴィアがその言葉を吐いたのは、本当になんとなく、だったと思う。
「あんた……誰なの?」
それを受けて、男がゆっくりと剣を下ろした。
少しの沈黙を挟んで、口を開きかけ――激しく咳き込む。
どこからか布袋を取り出すと、そのまま口をつける。これ以上無いほどの隙だったが、見送った。そのほうが時間を稼げると思ったからだ。
男は砂のような薬をごりごりと咀嚼し、憎悪に揺れる瞳でセラヴィアを睨みつける。
「王下直属第五騎士団百人長、イヴァレ・ラグ・タイタヌス」
声音は、いやにはっきりとしていた。
――騎士団の、百人長?
何よりの問題がある。
第五騎士団は、あのアルスブラハクの裏切りによって、まさしく壊滅したはずである。
前面のダークエルフ、背後から迫る裏切り者共の挟撃によって、地獄の釜で煮るに等しい惨劇だったと聞いている。
「生き残りがいたの……?」
「そうだ」
イヴァレが布袋を投げ捨てた。
「それで、今は古老の犬ってわけ」
「犬、犬か。そうだな、確かにそうだ」
奴が笑う。小さく、含んだように。
「気づけばこんな体にされて……お前を攫って帰れば戻してくれるという話だが、どうでもいい、そんなことは」
男の瞳に映る光は、溢れるほどの狂気を孕んでいた。
「元を正せば我らの団長が馬鹿すぎたのさ。お前の姉への下らぬ反発で、援護を断り独断専行。結果はあの様、無残なものだろう。使えぬ上官へ復讐しようにも、団長はとっくに土の下だ。アルスブラハクにやられてな」
軽く咳き込み、続ける。
「そのアルスブラハクも死んだ。お前の姉に殺された。分かるか? もう相手は、ルナリアしか残っていない」
「……とんだ逆恨みだね」
「知っているさ。それがどうした」
一歩、セラヴィアは下がった。思ったより、まずい、かもしれない。
「本人に直接行けば良いんじゃないの?」
「俺が? あれと? 冗談も大概にしておけよ。出来もしないのに突っ走るのは馬鹿の所業だ。我らの団長のようにな」
イヴァレが剣をゆっくりと掲げる。光を浴びても、漆黒の刀身は少しも輝かない。
「奴は高速馬車で王都を出たそうだ。最初の予定では明日のはずだが、この調子ならば今夜にはつくだろう。お前の儀式に間に合わせるつもりなのだろうな」
――姉さんが。
帰って来る、のか。
「そうしてやってきたルナリアの目の前で、お前の首を削ぎ落とす。どうであろうと、第五騎士団は俺の『場所』だった。似た思いを、あの女にもかみ締めさせてやる」
目にも声にも、欠片の嘘も無い。本気だ。
「そんな真似して、姉さんがあんたを生かして帰すとでも?」
「二度言わせるなよ。知ってるさ、もちろんな」
姉は、優しい。他に対してどうであろうと、セラヴィアには驚くほど優しい。甘いと言い換えても良い。まともに怒られた記憶すら無いほどだ。
愛されているというのも、自惚れでは無いとセラヴィアは思う。
そんな姉の前で、自分の首が刎ねられるようなことになれば、どうなるか。己の所為で妹が死んだとすれば、どれほどの傷を負うのだろうか。
死ねない、と思う。
死にたくない、ではなく、死ねない。
だから勝つ必要がある。
「ふん」
イヴァレが鼻を鳴らした。体が僅かに沈みこむ。
踏み込んでくる。合わせて、こちらも地を蹴った。小さな火球を正面に一つ。当然のようにかき消されるが、同時に地面にも一つ投げた。
広がる炎。光。僅かに鈍った男の横を、必死の思いですり抜けた。
位置が入れ替わり、互いに振り返る。
もう一度、セラヴィアは火球を生み出した。こぶし大のものを二つ、胸の前に浮かばせる。
「またそれか?」
詰まらなそうに呟かれた。
さっきと同じ、わけがない。
一つをイヴァレの顔面へと、もう一つを部屋の隅へと撃ち込んだ。
魔力量に自信など無い。しかし小細工だけならそれなりに出来る。
斬り合い殴り合いは不得意だ。魔力量で強引に壁を貫くことも出来ない。そんなセラヴィアが、自分の頭で考えた工夫の結晶が、今放った火炎球である。
炎に風を混ぜて圧縮し、さらに一枚風で覆う。何かにぶつかれば、定められた働きをする。つまり、
「なっ!?」
初めて、イヴァレの口から驚きが洩れた。
風と火で出来たその球は、外から来る衝撃に反応して、溶け合い、混ざり合い――そして、爆発する。
その風とて、魔術によるものである。当然イヴァレの防御を抜くには至らない。しかし――その風に煽られて飛び散る、足元に捨てられた剣は別の話だ。
何が起きるか知っていたセラヴィアは、当然後方に引いている。
密閉された部屋での爆発である。耳がびりびりと痺れ、粉塵が巻き起こって視界を閉ざした。お互いに、姿は見えなくなってしまった。
効いた、のだろうか。
脇にはかなりの数になる武器の残骸があった。それら全てを防ぐのは、いくらなんでも困難だとは思う。
同時に、致命傷を与えるのも難しいとも思う。急所部分に至っては極光製の鎧なのだ。貫けるはずもない。
今のうちに、門を開けて逃げるべきなのだろうか。
あるいは、このまま背を向けず、注意を注いでおくべきなのだろうか。
逡巡が、あった。
答えを出す暇は、無かった。
もうもうと広がる煙を裂いて、甲冑が飛び出してきた。速く、あまりに鋭い。
左右に飛ぶ暇も無く、後方は門。黒い刀身が、舞う埃ごと切り裂くように振るわれる。
避けられなかった。
右肩に焼けるような痛みが奔って、そのまま跳ね飛ばされる。残った左肩を門にぶつけて――ずるずると床に座り込んでしまう。
剣の腹で、殴られたらしい。
左右の肩が熱い。思わず指を確認する。動く。痛むが、動く。敵は――。
「ぐぅっ!」
痛んだ右肩に、さらなる衝撃が来た。
足蹴にされて、門と具足で挟まれる。みしみしと骨が嫌な音を響かせる。
気が遠くなりそうな痛みを、しかし堪えて、セラヴィアは顔を上げた。
憎悪に満ちたイヴァレの顔が、そこにあった。
節々が切り裂かれ、血が白い肌を染めている。片方の耳などは、指ほどもある刃の破片に貫かれていた。
食いしばるようだった口元に、ゆっくりと、裂けるような笑みが浮かぶ。
声音は、明るい。
「良いぞ、良い。最初よりずっと良い。弱すぎても意味が無い。適度に戦えるほうが良い。そのほうが――ルナリアに似たお前を嬲る甲斐があるというものだ」
狂気を孕んだ瞳。絶望的な状況。
それでも、もう恐怖など微塵も感じない。
だから鼻で笑ってやる。お返しのように。
「あんたよりも、儀式のほうがよっぽど怖い。それに――」
小さく、そしてはっきりと、セラヴィアは続けた。
「間に合ったみたい」
「……あ?」
ちょうど、セラヴィアから一人分、右にずれたあたりに。
ひび割れた門を貫いて、一本の刃が飛び出した。イヴァレの顔が歪む。セラヴィアは息を吐く。
刃は一度引き抜かれて――空気ごと裂くような音と共に、門の片側を真っ二つに両断した。
男の注意がそちらに逸れる。その隙を突くようにして、セラヴィアは力の限り、肩に置かれた足を押し返した。
イヴァレの体が泳ぐ。開いた門から、黒い影が飛び込んでくる。
振るわれる大剣。イヴァレが受けて、大きく下がる。影は追撃する。
銀の髪をはためかせて。
数度切り結んで、今度は影が下がった。立ち位置を変える。イヴァレと、いまだ座り込んだままのセラヴィアの間に、立ちふさがるように。
前を見据えたまま、背中越しに、ノエルが言う。
「ごめん、遅れた」