傍で 二
本拠に戻った二人を、入り口でエリスが出迎えてくれた。
流れる空気は慌しい。ひりつく様な熱気も、重苦しい圧力もある。非常事態なのは本当のようだ。
「おかえりなさい、と言うだけで済めば良かったのですけどね」
「準備のほどは?」
「万事抜かりなく。昼前には出発できるかと」
そうか、と答えて、ルナリアがこちらへ振り返る。顎で合図をした。歩き出した背中を追って、彼女の私室までたどり着く。無論エリスも一緒だった。
慣れた匂い。せいぜいが一日ぶり。だというのに、おなかのそこまで安心感で満たされるようだった。
ルナリアはベッドに腰掛けて、軽く額に手を当てた。
「戦場に出ること。それがお前の罪を償う唯一の手段だそうだ」
低い声で、彼女は続けた。
「念入りなことに、配置まで決められている。いかなる陣を組もうとも、私のすぐ背後だとさ」
騎士団長の後方。そう聞けば、むしろ安全な場所かとも思えるが――
小さな声で、ルネッタは尋ねた。
「あの、ルナリアさまは、どこへ」
彼女はどこか諦めたように笑った。
「まんなかの、まんまえだ。どういう流れになろうとも、私は常に最前線で戦う。だからこそ、この騎士団の存在が許される」
予想の範疇、ではあった。
「うちはおよそ千五百。今回は第三騎士団も援護に加わる。いつも以上の命が私の背に乗るわけだ。それら全てを引き換えにして、お前一人のために後方に引っ込むことは……悪いが出来ない」
頷く。当然だと思う。
ルナリアはこちらを一瞥すると、目線を逸らした。
「……南方に、私の母の領地がある。お前一人隠すくらい、なんとかなるだろう」
「どうして、ですか?」
ルネッタの言葉に、彼女の顔は一気に険しさを増した。
「どうして? どうしてだと? 戦場、それも最前線だぞ。遊びでも無ければ、貧弱なぼんぼんをあしらえば良いわけでも無い。無泉のお前にとって、地獄以外のなんだと言うんだ」
声を荒げて言う。一応分かっているつもりではある。どうにか潜り抜けた決闘などよりも、遥かに危険なのだろう。
それでも、と思う。
まっすぐに、彼女の瞳を見た。
「離れたくありません」
「それは私も――」
「守ってくださるのですよね?」
ルナリアが口を噤んだ。我ながら卑怯だとは思う。けれど、そんなことに構っていられない。
死は怖い。戦も怖いだろう。しかし何よりも怖いのは、もう会えなくなることだった。
どこかに隠れ住むようにしても、たまに会う、くらいならば出来るのかもしれない。
一人で一夜を過ごした。それだけで体が淀んだようだった。こうして彼女の部屋に帰ってきた。それだけで解きほぐされるようだった。
年に数回、会いに来てくれる。そんなもので――
「離れたくありません。そのためならば何でもします。どこにでも、戦場にも行きます。だから、お願いします」
しん、と沈黙が部屋を包んだ。視線を泳がせ、深く瞬きをして、ゆっくりと、ルナリアが告げる。
「……戦場において、お前はこれ以上ないほどの『弱点』だ。庇って私や仲間が死ぬかもしれない。それでも、お前は連れて行けと言うんだな?」
ルネッタは、拳を強く握り締めた。手のひらに食い込んだ爪が、鋭い痛みを奔らせる。
――それは。
分かっている。嫌というほどに。
だけど引かない。引く気など無い。生涯でも数えるほどしか言った記憶の無い『我侭』を、正面から伝えるように、大きくルネッタは頷いた。
「はい」
ルナリアの表情が、言葉を捜すかのように揺れ動く。
突然、のことだった。黙って聞いていたエリスが彼女の前に立った。ルナリアは怪訝そうに視線を送る。
「なん――」
彼女が声を出した次の瞬間、エリスの拳がルナリアの顔面に叩きつけられていた。
凄まじい勢いで上体が泳ぎ、後頭部が壁に叩きつけられる。轟音。ひび割れる壁面。飛び散る木片。
ぽかん、と。
驚いたような表情で固まっていたのも一瞬のこと。ルナリアは壁に埋まった頭部を勢い良く引き抜いた。鼻からぼたぼたと血が落ちて、ベッドを赤く染めている。
睨み付ける視線も意に介さず、エリスが言った。
「こんなのをまともに食らうとは、どれだけ動揺しているのですか。あなたは我らの長です。忘れてもらっては困りますね」
「忘れてなど、いない」
「どうですかね。だいたいなんですか。さっきからグチグチグチグチともっともらしいことを言ってますが、本当のところはまるで違うでしょう」
その言葉に、ルナリアは明らかに怯んでいた。
「戦場で暴れる自分の姿を、ルネッタに見せたくない。結局それだけのことなのでは? 馬鹿馬鹿しい。首引っこ抜くさまを見せておいて今更ですか。逃げやしませんよ。たとえあなたが悪鬼だろうが悪魔だろうが。その程度すら、ルネッタを信じられないのですか?」
ルナリアが俯いた。これ以上ないほどに強く、歯を食いしばっている。
今何をすればいいのか、それくらいは分かった。彼女に駆け寄る。エリスがどいてくれた。ルナリアの手を握り締めて、彼女の瞳をじっと見る。
言葉は、たぶんいらないのだと思う。
だから、ただ、頷いた。
輝く緑の瞳。少し驚き、やがて迷って、決意したような光が点ると、どこか困ったように、微笑んだ。
「昨日守ってやると言ったばかりなのにね。情けない話だ」
ルナリアがベッドから立ち上がる。エリスが小さな布を取り出して渡した。血はとっくに止まっているが、念のためか。
エリスが言う。声は鋭いが――どこか、楽しそうでもある。
「かわいいのを拾った。だからその分腑抜けてしまう。理解は出来ますし、私とて似たようなものではあります。しかし、ですよ、団長」
「うん……分かってる。思い出したさ」
エリスがこちらに体を向けた。
「ルネッタ、よく見ていてくださいね。美辞麗句に彩られた、誇り高き正義の騎士……私は、団長は、そして我々は『そういうもの』では無いのです。血を噴出させ、死肉を撒き散らすのが、我らの仕事であり、勤めでもあります。慣れるか耐えるかはあなた次第。しかしそのどちらかを成さねば、共にあることはかないません」
ルネッタはごくりとつばを飲む。エリスが壮絶な笑みを、ルナリアに向けた。
「団長の後ろにルネッタが居る。結構なことではありませんか。一兵も通さず、眼前を皆殺しにするだけです。普段と何が違います」
「……まったくだ」
ルナリアが、笑った。
彼女は部屋の隅、風呂場へと繋がる扉を指差した。
「ルネッタ、軽く湯でも浴びておけ。お前が出るころには、ちょうど準備も終わるだろう」
第七騎士団、重装歩兵およそ千五百名。第三騎士団からは重装歩兵千五百、重騎兵千の二千五百名。あわせて四千が、今回の戦力なのだという。
軍団は列を作り草原を行く。日は段々と翳ってきた。
このまま一日歩きとおして、野営。次の昼にはぶつかるだろうという話だった。
先頭。率いるように進む馬車の荷台に、三人は居る。
当然だが、今日の御者はエリスでは無かった。黒光りする甲冑に身を包んだその女は、第七騎士団の百人長であるらしい。放つ空気は硬く引き締められており、地位にふさわしい威圧感を持っている。名は、聞いていない。
エリスはと言えば――ルネッタのすぐ左隣で、気だるそうに景色を見ている。立場上大きな声では言えないが、行軍は大嫌いなのだとか。退屈で死ぬと。
彼女は、もちろんいつもの侍女服ではない。
纏う甲冑は純白。造りはあくまでほっそりとしていた。夕日を反射するその姿は、防具とは思えない美しさがある。脇に抱えている漆黒の両手剣は、ルネッタの身の丈ほどもあった。太くも幅広くも無いのだが、それが返って切れ味を想像させる。
いつもの剣はどうしたのかと聞いてみたが、あんな『つまようじ』を戦で使うわけが無いと言われた。さすがだと思う。
右隣には、ルナリアが布袋を枕に寝転んでいた。
エリスと対比でもするかのように、着込んだ甲冑は輝きもしない黒一色だった。こちらも体に密着するように細いが、それでいてどこか鋭い印象を受ける。恐ろしく高価であることだけは一目で分かった。
彼女は、一本の斧槍を、その胸に抱いている。
上から下まで夕日さえ吸い込むように漆黒。上に伸びた槍は腕ほど。横に広がる斧に至っては子供の胴体ほどの大きさがある。
ルナリアが、単なる見栄や脅しでこんな武器を使うわけも無い。彼女の戦には、これが必要なのだろう。
二人とも、兜はつけていない。本番でもつけないらしい。邪魔なのだそうだ。なによりも視界と音が欲しいのだと。
ルネッタは、いつもどおりだった。鎧などつけていない。皮鎧すらない。どうせルネッタが着れて動ける範囲の物では、大して役にも立たない。ならば身軽にして、いざというとき逃げられるようにしたほうが良い、と。同感だった。
手元には、小さな石弓がある。せめてと渡されたものだった。
懐、外套の中には持ち込んだ『切り札』が入ってはいる。この国を知った今では威力も足りず、何より周囲に見られるのは問題だが――本当に、いざという時には使うつもりだ。それで切り抜けられるかは、分からない。
夕焼けから夜の闇へと変わる空を見上げて、ぽつり、とルナリアが言った。
「向こう側」
「え?」
彼女を見て、聞き返す。
「何も飾らず、ただ『向こう側』とだけ言う。我々エルフにとって、その言葉の意味するところはたった一つだ」
ルナリアがこちらに顔を向ける。深い笑みが浮かんでいた。
「地図の右端、空白の境目には大きな大きな河があってね。山から海までを一直線に繋ぐ『それ』は、こちらとあちらを切り分ける、まさしく国境線となっているわけだ。その先は荒野、さらに進めば砂漠だというが、実際のところは知らん。見て帰ってきた奴は居ないのでね。唯一分かっていることは――その『向こう側』には、我らの敵が住んでいるということだけだ」
「敵、ですか」
「宿敵、怨敵、仇敵、大敵。どう表そうが実態は変わらんな。邪悪なる女王に率いられ、這いずるように土地を汚し、烈火のように命を削ぐ。水害の如く進軍する、血と刃の黒塗り共。我々は、ダークエルフと、奴らをそう呼んでいる」
ダークエルフ。闇。黒。邪悪。まるで――
「浅黒い肌、白い髪。体力魔力共に優れ、皆一様に好戦的で……捕まえても何も吐かず、さっさと自害する。ふふ、肌を除けば、何かに似てると思わないか?」
「それは……あの、鉱山の?」
「確証は何一つ無いけどね」
彼女はむくりと体を起こした。
「流れる河の全てが霧に満たされたとき、奴らは向こう側からやってくる。視界は閉ざされ、魔力も乱れて、どこから渡ってくるのかさえ分からん始末でね。上から下まで満遍なく、監視用の秘石を置く羽目になっている」
「防衛線を敷いたり、などは」
「そうしたいのは山々なんだが、どうも沸く霧は普通のものでは無いらしいんだ。触れれば我らの力を吸われ、逆に奴らに力が満ちる。地を踏ませたくないはずなのに、こちらに引き込まなければまともに戦えん。泥沼だな。同じ理由で、こちらから打って出ることも不可能だ」
エリスが横から続けた。
「目的も定かではありません。東南にあった老大樹が三本ほど焼かれましたので、狙いはそれというのが有力ですが……どうにも向こうに利が無いように思えます。奴らが通るだけで地脈や霊脈が削られますが、こちらも同じく。略奪に熱心なわけでもありませんし」
「とにかく戦がしたい、というのも違う気がするんだよね。不利ならさっさと逃げる。無理して突っ込んでくることも無い。それこそ向こうは、我らの地を歩くだけで目的達成だとでも言うように」
ほとんど災害だ。本当に、同じ生き物なのだろうか。
ルネッタは尋ねる。
「そんな悪魔のような連中を相手取るのに、これだけの数で良いのですか?」
「いいや、他にも来てると思うぞ?」
皮肉気な笑みが、ルナリアの顔に浮かんだ。
「ちょうど丸一日遅れて進み、おそらく一万。我らが負けたらそっちがなんとかするんだろうな」
「そんな……どうして分かれて進むのですか」
「簡単さ。一兵でも多く敵を殺し、ぎりぎりのところで死ぬ。それこそ、奴らが私に望むことだからだ。侵略されているといっても、右の端のすみっこのちびっとが削られるだけ。ド田舎だ。己らを汚さず、私に死んでもらえるなら、知ったことでは無いのだろう」
彼女は肩を竦める。
「そういう意味では、第三騎士団が来てくれたのは本当にありがたい。素直な陣が組めそうだからな」
明確な異界の敵よりも、腹に巣食った鬼のほうを脅威と見なす、とでも言うのだろうか。
酷い話にも程があると思う。
「嫌われても私が無事な理由。城が東の端にある理由。ま、これで大体わかったろう?」
頷いて、聞く。
「では今回の相手も、そのダークエルフなのですよね」
「そうだ……と言いたいところなんだけど」
彼女は篭手で顎を掻いた。まじまじとルネッタを見つめてから、言う。
「異変は続くものなのかもな。今回の奴らはダークエルフであるとも言えるし、少し違うとも言える。様々な形容詞があるだろうが、端的に表すならばこれまた単純」
強く瞳を輝かせて、ルナリアは続けた。
「裏切り者だ」