手にするために 四
気づけば五日が経過している。
ベッドに俯せに倒れたまま、ルネッタは必死に口を噤んでいた。
むき出しの背中を摩るエリスの手が、甘い痺れを全身に奔らせる。やがて下へ下と伸びる手は、お尻を超えて太股のあたりで一度止まった。ぼんやりと暖かな感触。水のように広がる心地よさ。ふくらはぎまでたどり着き、そのまま足の裏をゆっくりと撫でる。
ふにふにと土踏まずを揉まれて、ついに声が漏れてしまった。
「く、くすぐったいですっ」
「我慢してくださいねー」
どうにも平坦な言い方だった。彼女は手を緩めず、足の裏を執拗にふにふにと押し続ける。
気を緩めれば大笑いしてしまいそうなところを、歯を食いしばって耐える。
ぴくぴくと痙攣し、息も絶え絶えになったころ、ようやくエリスは解放してくれた。
さすがに抗議をしようかと振り返るが――彼女の表情を見て言葉を失う。
「ごめんなさい」
くすぐったことを謝っている、のではなさそうだった。
「元を正せば私の所為。だというのに、これくらいしか出来ません」
憂いを帯びた瞳には、後悔の色が強く出ている。
どういう言葉を返せば良いのだろうか。あなたの責任では無いと言っても、なんの気休めにもならないだろう。こうして疲労を治してもらえるだけで心底ありがたいのだけど、それで済むなら最初から落ち込むはずも無い。
剣の訓練をガラムに変わってもらったことが、何よりも堪えている気がする。とはいえ、こればかりは戻すわけにもいかない。
――ええ、と。
あれこれと考えた末に、そしてある意味無意識に、ルネッタはぎゅ、と、エリスの手を握っていた。
顔を見つめて、言葉を――やっぱり出てこない。少しうつむく。それでも視線は外さない。せめて何かを伝えようと、指を絡めて力を込める。
エリスは少し不思議そうに首を傾げ――やがて、ふわりと微笑んだ。彼女はお返しのように、絡めた指をくりくりと動かす。
「反省は、終わってからにしますかね」
頷く。あいていた手が伸びてきて、すりすりと頬を撫でられる。
お互い無言で、一分近くそうしていただろうか。
もうずっとこのままで良いと思うほどだったけれど、聞きたいこともある。
「あの」
見つめる瞳。小さく開く唇。少し緊張しながらも、
「レシュグランテとは、何かあったんでしょうか」
絡み合わせていた彼女の指に、明らかに力が籠もった。
少しの沈黙を挟んで、エリスは低い声で告げた。
「父の仇、のようなものです」
答えは、今まで見せた怒りに相応しく、重いものだった。親の居ないルネッタには、底の底まで察することは出来ないけれど。
「細かいことは勝ってから。ですから、がんばってくださいね」
口を引き締め、大きくルネッタは頷いた。
時間はあっという間に過ぎて、もう明日は決闘だった。
ルナリアの私室の机で、こつこつと準備に取りかかる。手持ちの火打ち石を使う気だったのだが、上位互換のような石があるらしいので、用意してもらった。
一通りを紙でくるんで、出来上がり。ふう、と小さなため息をついた。
「しかし、良く耐えたな」
ルナリアの言葉に、ルネッタは首を傾げた。
「体の疲労はなんとかなる。次の日に残らない程度にはね。ただ、心はそうは行かない。丸一日剣で斬り合い、それを何日も続けたんだ。相当消耗しているはずなんだけど」
「ガラム隊長の、教え方が巧かったのだと思います」
ルネッタが心身ともにへばる、本当にその一歩前で、いつも彼は剣を止めてくれた。決して甘くは無かったが、間違い無く優しかった。見た目に寄らず、とはこのことだと思う。
ルナリアは苦笑すると、
「それエリスに言うなよ。泣く」
「う……」
彼女の魔術が無ければ初日に倒れてそれきりなのだから、そう落ち込むことも無いと思うのだけど。
「ガラム隊長は……何か、わたしについて言ってましたか?」
間が開く。少し悩んだらしい。
「逃げ腰すぎるが、守りや避けはそこそこ。ただ根本的に力が無いので、攻めは全然駄目だとさ」
その言葉に、がくりとルネッタは肩を落とした。
――分かっては、いたけど。
昔言われたことと同じだった。自分では相当な猛特訓を積んだつもりではあったのだけど、十日かそこらで変わるようなものでは無いらしい。
あるいは、もう上達しないのか。
剣にこだわりがあるわけではなかった。自衛さえ出来れば良いし、この国においては最初からそれさえ不可能だと、骨身に染みさせてもらった。助けを求める以外に手は無く、一人で襲われれば死ぬだろう。
だが、明日に限っては、自身の力が必要だった。
紙で包んだ固まりを見る。やはり、使うしかないのか。
「とにかく勝てばいいさ。口げんかは私がする」
優しく言って、ルナリアは明かりを弱めた。手招きされるままに、毛布へと入る。
明日のために早く寝ろよ、と声。すべすべの肌、柔らかい体、甘い匂い。慣れとは恐ろしいもので、隣で寝る彼女の存在は、安らぎを与えてくれるようになっていた。
心臓が破裂しそうなほど緊張していたのも、だいぶ前の話に思えてくる。
だというのに。
「寝れないか?」
ごろり、とルナリアが体をこちらへ向けてきた。小さく頷く。
いざとなると怖い。当然の話ではあった。寝れば明日が来る。負ければ――殺される、のだろうか。
ぶるりと震えた体を、ルナリアがそっと抱きしめてくれた。
「言うと気が抜けるだろうから、内緒にしてたんだが……寝不足よりは良いか」
なんだろうと首を傾げる。手が伸びてきて、ぺたり、と頬に添えられた。
「勝てばお前は第二級市民。負ければ今期の税の三割。要するに、賭の内容にお前の死が入っていない。協定があるから言うまでもないと思っているんだろうな」
「ですが、それは――」
「ごねるさ。いざとなれば、あらゆるツテを使ってごねる。死なせはしないよ。だからお前は安心して、勝ち方だけ考えていれば良い」
言葉は本当に嬉しい。だけど、そう何もかも巧く行くとも思えない。
それに。
ルネッタの所為で、この金欠にさらに拍車をかけるようなことになれば――
ぐい、と体ごと引き寄せられる。こつん、という音。額同士がくっつく感触。
ルナリアの緑色の瞳の中に、自分の姿が鮮明に見える。吐息が、かかる。
「余計なことは考えるなと言ったろう?」
慣れたはずの心臓は、驚くほどに速く動いた。彼女の顔も、少し赤い。
頷く代わりにずるずると動いて、彼女の胸元に顔を埋めた。小さな声が聞こえる。拒絶はされなかった。
こうして自分から甘えるのは、実は珍しい気もする。受け身ばかりではなんだか悪い。恥ずかしいけど、気持ち良い。
寝れる、気がした。
それはまさに闘技場だった。
造りは円形で、高い壁によって区切られた上部は観客席になっている。不思議なのは天井があることだった。壁や床も艶を放つ石で出来ており、圧倒的な高級感を放っている。
「ここは剣闘用じゃなくて霊決用だからな。お高いのさ、いろんな意味で」
表情だけで理解したのか、ルナリアが疑問に答えてくれた。
場所は城のすぐ横で、専用の通路すらあった。ルネッタ達三人はそこを通り、こうして決闘者用の入り口へとたどり着いたわけだ。
ちょうど正面。広場の向こうに、同じような穴がある。あそこから、対戦者であるラディアラクが出てくるのだろう。
歓声が一際強くなった。そろそろ時間だからだろうか。
観客席は満席に見えたが、広さはそれほどでもない。せいぜいが千人といったところか。そのかわり、でも無いのだろうが、いる客は皆一様に身なりが良い。それなりの地位があるものなのだろう。男女の比率もほぼ同数だった。
「三種類居る。分かるか?」
「なんとなく、は」
向けられる視線。その表情。嫌悪もある。好奇心もある。
「一つは古老側……と単純には言えないが、とにかくお前に敵意を抱いている者達だ。協定違反の人間は死ぬべきである。分かりやすくはあるな」
ルナリアの手が肩に置かれた。
「二つ目は反古老、ないしは反レシュグランテ。お前をどう思うかよりも、とにかくレシュグランテが嫌いで嫌いで仕方がないという層だな。人間一匹の運命なぞより、奴らが負けて吠え面かく様が見たくてここまでやってきたわけだ」
エリスの頬が、ぴくりと動いた。
「三つ目は、純粋にこの決闘を楽しんでいる層だ。人間はいったいどう戦うのか。それに対してレシュグランテのぼんぼんはどう受けるのか。公平なこの連中は、お前に対して好奇心しか向けない。敵意も悪意も無い。そう言うとまるで良い奴らのようだが――」
「……血が好きなだけですね」
呆れたように、エリスが言った。
さらに呆れたように、ルナリアが返す。
「私やお前が言えたことかねそれは」
「ごもっともです」
エリスは悪びれもしない。いつか見た小さな時計を取り出して、ちらりと見た。
「時間ですね」
さらに勢いを増す歓声。僅かに震える足。手に持った両手剣は、やはりまだ重い。
ぽん、と優しく背中を押される。
「勝てよ。そして生き残れ」
しっかりと、頷いた。
両手剣を力の限り握りしめて、闘技場の中央へと足を進める。もはや強風にすら感じる声は、何を言っているのかさえ分からない。
向こうから、エルフが一人、やってきた。
手に長剣。整っていながらも、どこか品の無い顔立ち。あまり高くない身長。見覚えのある姿。
ラディアラク・レム・レシュグランテ。最初に見たときには、こんなふうに再会するとは想像も出来なかったけれど。
お互い、鎧などつけていない。三級にそんなものは許されないのだそうだ。穢れるという建前だが、ようは客が面白く無いのだと。
最初から、ルネッタはいつもの服装で来ていた。人間であることが幸いしたのか、持ち物の確認すらされなかった。品は懐に仕込んである。いつでも、出せる。
剣を構える。距離はまだまだあるが、なにしろ合図など無いのだという。油断なんて出来る立場じゃない。
緊張は、もうどこかへ消えていた。今は只、やるべきことをやるだけだ。
ラディアラクは無造作に距離を詰めてくる。ごりごりと右手の剣を床に引きずり、目は血走っているように見えた。
狂気。殺気。明らかに、正気では無い。
ほんの少し腰が引けた。殺さないという取り決めでは無かったのかと、漏れ駆けた弱音を飲み込む。
それが、隙になった。
ラディアラクは走り出した。ぼんぼん。並以下。馬鹿息子。それらが強者の視点故のものだと、あっという間に詰まる距離で実感する。
左下からうなりをあげて、長剣が迫ってくる。構え、受け、そして後ろに自ら飛んだ。
――ぐ、う。
まだ一撃だ。それだけで手が痛んだ。
基礎が違う。力も速さも、そしておそらく体力もだ。長引けば確実に負ける。
追撃が来た。今度は頭上から。剣の腹で反らすように受ける。流されて男の姿勢が崩れる。隙。斬りかかる。首筋を狙った一撃は、しかしあっさりと受け止められた。
三つ切り結んで、さらに下がる。相手は冷静さの欠片も無い。ただ目の前の相手に剣を叩きつけて、自分に向かい来る何かを払っているだけだ。
剣技、などと呼ぶのもおこがましい。それでも、ルネッタには十分すぎる驚異だった。
受けて、避けて、逃げて、下がれば、当然やがて壁につく。背中に当たる感触。必死に脇に飛んだ。高く、それでいて重い音。振るった剣が壁に当たったらしい。大きく崩れる体勢に、つけ込まない道理は無い。
横薙ぎに、全力で剣を振るった。回避も受けも間に合わない。剣が脇腹にめり込んだ。刃を潰しているとはいえ、鉄の塊なのだ。
感触からすると、骨は砕けた。内臓にも傷が出来たかもしれない。これなら――
「くっ!?」
振るわれた剣を、下がって避ける。無理矢理振っただけだ。威力も精度も無い。
男の息は目に見えて荒い。口の端から見える血は、喉から逆流してきたのだろう。それでも戦意に衰えはまるで見えない。
負けられない、のか。
――それは。
こちらも同じことだった。
剣を構え直した。このまま戦えば、いずれは傷を問わない男の勢いに飲まれるだろう。
――武器を。
当初の通りに行く。それしかなかった。
殺気がふくれあがった。もはや隠す気など微塵も見えない。男の剣撃はさらに凶暴さを増し、ルネッタは受けるだけで精一杯になった。
明らかに致死狙いの剣を、どうにか力を逃して堪える。ガラムの手ほどきが無ければとっくに死んでいた。
縦から二度。斜めから一度。溜めて、渾身の横。受けきれず、ルネッタの体勢がぐらりと揺らぐ。
尻餅を、ついた。
男の顔に狂喜が溢れた。観客の声は歓喜を放っていた。
振り上げられる剣。狙いは頭。ここだ。
懐に手を伸ばしつつ、ごろりと転がる。尻餅は予定通りなのだ。動けて当然だった。
剣の終着点に紙袋を投げ捨てて、ルネッタは背を向けた。
ぼん、と。
男の振り下ろした剣は、紙袋を貫いて、中にある『石版』を叩き、生まれた火花が、詰め込まれた火薬を燃焼させる。
密封されてもいない。分量も少ない。こんな程度では武器になんてならない。
とても、とても、驚くだけ――そして、それで十分だった。
立ち上がりつつ体を捻る。回転する力を乗せて、ルネッタの振り絞れる全てを両手剣に注ぎ込んだ。
狙いは男の顔。そして、守るべく掲げられる――剣。
心地よい金属音が、闘技場に響き渡った。
呆然とする男。宙を舞う剣。しかしまだ。ルネッタは冷静に、それでいて素早く、男の喉元へと、剣を突きつけた。
後一押し、それで肉を裂く。死を間近に捕らえさせつつ、告げる。
「終わり、です」
男の顔から狂気が消えた。涙とよだれをぼろぼろとこぼしながら、床にへたれこむ。油断なく、剣を喉から離さずに――大きく、大きく、ルネッタは息を吐いた。
大歓声が巻き起こった。
好感、悪寒、殺気、狂喜。様々な思惑が、この声には乗っているのだろう。
通路の入り口に、ルナリアとエリスの姿が見える。お互い抱き合って、飛び上がるほど喜んでいる。
――ああ。
嬉しい。とても嬉しい。すごく嬉しい。まだ一緒に居られる。彼女達もあんなにも喜んでくれる。騎士団に損害を与えるようなことも無かった。今までこんな気持ちになったことがあっただろうか。
「……ぅ……」
くぐもった声。なんだろう。男を見る。
あふれ出る涙。開きっぱなしの口元。敗北という事実を受け入れたはずのラディアラクは、
――あれ?
妙だ。なんだろうこの表情は。負けた者のする顔じゃない。かといってまだ戦うつもりがあるようにも見えない。
泣いていて、それなのに笑っていて、そして全てを諦めていて。
なんだろう、この表情は。
ひゅう、と。
風が吹いた気がした。涼しい。気持ち良い。あれ。室内なのに。
ごう、と。巻き込むような強い風が、ほんの一瞬、確かにルネッタの周囲を渦巻いた。
たたらを踏む。転びかけた姿勢を整える。変な感触が、手に、ある。
――え?
男。笑っている。真っ赤な液体を首から吹き出しながら。目はどこか定まらずに。
――え。
ルネッタの構えた両手剣が、ラディアラクの喉を貫いていた。
震える。剣から手を離す。男が崩れ、三回小さな痙攣をして――それきり、動かなくなった。
――なん、で?
間違い無く。
死んでいた。