緩い日々の終わりに
「むーぅ……」
篭るようなルナリアの声。果たしてこれで何度目だろうかとエリスは思う。いつもの椅子に座る彼女の表情は、少々暗い。
「まーだ気にしてるんですか。結局死人無しなんだから良いじゃないですか」
昼間が故のお茶をすすり、焼き菓子をぼりぼり噛みくだいて、悩む彼女に言葉を投げる。
執務室の柔らかなソファーに体を投げ出し、日も高いうちから怠惰を貪るのが今のエリス達の職務である。最初の数日こそ喜びはしたが、既に飽きがつま先から頭のてっぺんまでを支配していた。
「死人は無しだが怪我人は出た。傷は問題無く治せたとは思うが、心のほうはまた別だ。それに……もしも彼女が死んでいたら、お前だって嫌だろう」
「そりゃ嫌ですよ。しかし彼女は生きている。それで十分なのでは?」
エリスはお茶を置いて、あくびをひとつ。
「今の私たちは謹慎中。立場は一般市民か、それ以下なんです。出所も説明できない情報で憲兵を動かすのは不可能。うちの兵隊動かすのなんて論外。直接走り回って事前に摘み取るのもダメ。たまたま助けを求められて応えた――それが限界なんだと、そう言ったのは団長自身ですよ」
「まーね」
「だからこそ私の知り合い共に連絡だけさせるようにして、一番おいしいところをかっさらう。警戒されて逃がすでもなく、悲惨な死人が出るでもない、本当にギリギリの線。見事それは成功し、確かな手柄となって騎士団の活動復活の糧となった、と……それが今回の騒動の顛末です。大成功じゃありませんか」
「……ぷぅ」
かわいらしく息を吐く。納得していないが反論は思いつかない、そんな顔を彼女はしている。
「それはともかく」
じろり、と睨む。あえて触れずに来たのだが、さすがに限度というものがある。
「そーいう真面目な話をするなら、膝の上のその娘を降ろしたらどうです」
ぱちくり、と彼女はまばたきをして――ぎゅっと抱きしめた。無論膝の上に乗せっぱなしだったルネッタを、である。
「癒されるし」
どうやら退く気は無いらしい。
そのまま呆れた視線を注ぎ続ければ当然ルネッタとも目が合うのだが――この娘もこの娘で、やや恥ずかしそうに頬を染めながら、えへへとはにかみ笑うばかり。
はぁ、とエリスは大きなため息をついた。
「脳が芯まで桃色ですね。熟しすぎて腐り落ちそうですよ」
「むっ」
どうやら癇に障ったらしい。ルナリアは膝上のルネッタをそっと脇へと立たせると、ずんずんこちらまでやってくる。不満げに口を尖らせるその表情は――不思議と幼く見える。
上等である。こちらに非など一切無いのだから、撤回などするものかと思う。
でかい乳を見せつけるかのように胸を張るルナリアをじろりと見上げつつ、
「暇なのは分かりますよ。他の目が無いというのも分かります。しかし今は昼間で、一応ここは執務室です。そんな場所で栄えある騎士団の長がずーーーーーっと色欲に負けているという絵は、さすがに問題ありませんかね」
「よぉーーく言うよ。お前だってちょっと目を離してればすぐちゅっちゅちゅっちゅと始めてるじゃないか」
「私は良いんです。副なので。でも団長はダメです」
「……なんという理不尽」
眉をしかめ、ぐにぐに口元を動かしていたルナリアが、急にニィと邪悪に微笑んだ。
「理屈の通らない部下には、お仕置きをしてやらないとな」
「……いやいやいや、話聞いてました? そういうのがダメだって今まさに言ったんですからね?」
彼女は意図的にこちらを無視しつつ、首だけを動かしてルネッタに。
「私がエリスを押さえつけてひん剥くから、お前がぐちょぐちょのぐっちゃぐちゃにしてあげなさい」
こりゃダメだ、とエリスは思う。完全な色欲魔である。
「いやいやいやいや、そんなことされたら私だって抵抗しますからね? 私と団長が本気の取っ組み合いなんかしたら大変ですよ? こんな部屋丸ごと吹っ飛びますからね?」
応えつつも、既にエリスは腰を浮かせている。冗談半分に聞こえるが、裏を返せばそれは半分本気ということである。色に溺れたい気持ちも――まぁ無いでは無いが、ここで流されたらさっきの言葉の説得力が消し飛んでしまう。
既に襲い掛かる態勢だったルナリアは、その言葉を聞いて思いとどまったようだ。
広げた腕をゆっくり閉じて、しかし顔からは笑みが消えず。
「――よし隊列交代だ。ルネッタ、お前が押さえつけてひん剥け。ぐちょぐちょにするのは私がやる」
「なっ」
ルナリアはまさにしてやったりという顔で、
「お前もルネッタ相手じゃ抵抗できまい。払って吹っ飛びでもしたら大変だもんな?」
「む、ぐ」
思わずエリスは唸った。
もちろん部屋から逃げ出してしまえば終わりなのだろうが、なんだかそれは負けた気がする。となれば手は――と考える間もなく、胸元に飛び込んでくるかわいい物体。
「えいっ」
もはや反射である。気遣うようにそっと受け止め、向かい合うような態勢のままソファーに座りなおしてしまった。
「えへへ……動いちゃだめ、ですよ?」
薄く頬を染め、それでいて満面の笑みで、ルネッタは体をこすりつけるように密着してくる。これを冷たくあしらえというのは――酷すぎる気がする。
エリスが諦めたのをルネッタも察したのか、僅かに体を放して正面から見つめ合う。口づけ。少し離れる。もう一回口づけ。再び離れて、にへらと笑う。
――本当に
明るくなった、と心から思う。
最近は嫌でも時間があるので、ルネッタと触れ合うのもそれだけ増える。
良く笑い、良く話し、そしてたまに拗ねて見せる。いずれも出会ったころからすれば驚くほどの変化に思える。
これは良い変化なのか否か。それこそ愚問である。元からかわいいこがさらにかわいく笑うのだ。なんの文句があるというのか。
ルネッタの感触を味わいつつ、ルナリアの手がするする伸びてきて、あぁまたダメだったと、エリスが諦めかけたあたりで――こんこん、と静かなノックの音がした。
続いて響くのは、岩がこすり合うような低い声。
「団長、言伝があります」
「あー……ちょっと待ってくれ」
ルナリアはガラムに聞こえぬよう、静かに息を吐いた。中断させられたのがそれなりに効いている、らしい。彼女はコツコツと扉に向かう。同時に、ルネッタがいそいそと膝から退避を始める。
しかし、それは許さない。許さないのだ。
「え? え?」
逃げようとするルネッタをぎゅう、と抱きしめる。彼女は顔を真っ赤にしながら小さく呻き、もぞもぞ抵抗を続けてはいるが、当然放してなんてあげない。
それに気づいているのか、気づいていないのか、ルナリアは扉まで歩くとあっさり鍵を開けてしまった。
エリスは首を捻ってガラムの姿を確認する。彼は僅かに眉をしかめ、呆れたように鼻から息を吐いた。まるでさっきのエリスのような態度である。
「副長」
「はーい?」
「……あんたの趣味に口を出す気は毛頭ない。が、今は昼間でここは執務室だ。最低限の慎みはあっても良いのではないかと思う」
エリスは――にやりと笑った。それはもう底意地悪く。
「だ、そうですよ団長」
「ぬぅ」
苦しそうに呻くルナリアと、不思議そうに首を捻るガラム。笑いをこらえるので精一杯、といったところである。
「……それは良いとして、内容は?」
「はい。単に城に来るように、と」
「ふむ」
取り繕うようなルナリアに、簡潔極まるガラムの返事。
思考は僅かで十分だったようで、彼女はひらひらと片手を振った。
「そういうことで、ちょっと行ってくる」
「ひとりで良いのですか?」
「うん。だいたい予想もついてるし」
その言葉に納得したようにうなずくと、ルナリアはそのまま部屋を出て行った。残ったのはエリスとルネッタ、そしてガラムだ。
聞きなれた重く、低い声。
「心当たりがあるのか?」
「ええ、それなりにね」
答えて、少しだけルネッタを強く抱きしめた。
次の低い声には、ため息が混じっていた。
「まだ続けるのか?」
「ええ」
横目でガラムを、そして正面からルネッタをじっと見て、エリスはぽつりとつぶやいた。
「たぶん、忙しくなるはずですから」




