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Elvish  作者: ざっか
第五章
116/118

終・魔技師レティシャの優雅なる一日


 レティシャは前に飛んだ。

 冷静さなんて欠片も無く、ただ背後で膨れ上がった恐怖から逃れるために、全力で地を蹴ったのだ。

 背中のあたりを何かが通り過ぎる感触。風を切る音。震える心根。

 

 ――うわ

 あまりにも力強く飛びすぎた。勢いが止まらず、レティシャは身を守るために腕を交差させた。

 裏口の扉は作りも雑で、木も薄い。その頼りない板は望まぬ体当たりであっさりと砕けてしまった。


「うぐ、ぐ……」


 辛うじて魔力は全身に行き届いている。木の扉程度ぶち抜く肉体強度は発現できたはずだというのに、体に奔る衝撃が嫌でも恐怖を増幅させてしまう。

 ――前に、距離、を

 

 背後も確かめず、レティシャはさらに大きく踏み込んだ。

 木と石で作られた粗末な倉庫。淡い魔力光で薄く照らされた内部には、申し訳程度の木箱が数個。後はただ汚れた床が広がるばかりである。


「なんだ、どうした」


 声が、響いた。出所は左、隅のほう。

 レティシャは更に足を踏み出して、倉庫の中央に立った。背後からの追撃は、まだ無い。だからこそ振り返れる。

 

 レティシャが砕いた扉から、ゆっくり中へと入ってくる影が一つ。先ほど声がした方向にも、同じような影が一つ。その背後には頑丈なロープで拘束され、口を雑巾のような布で塞がれた子供が――四人ほどか。

 隅に居た影は口元のみを黒い布で覆っていた。それが言う。声音は男である。


「おい、こいつは誰だ。なんで中に入れたんだよ」

「すまねえ。思ったより速くてな」


 答える相手は、顔のほとんどを深緑の布で隠していた。手に持っているのは――剣か。いまだ鞘に収まっているところを見る限り、先ほどは昏倒させようとしたのだろうか。


「あ、あ、あんた達が、子供を、さ、さらって」


 心臓が煩い。口が回らない。背筋が妙に熱い。

 無様すぎたのか、深緑はくつくつと小さく嗤って、剣を鞘から抜いた。


「殺すのか?」

「ああ。どうせ今夜中には消えるんだ」


 刃が魔力の光で不気味に光る。

 ――ひ、ぐ

 恐怖。耐えながら手を探す。魔力はそれほど感じないが、深層までは探れず。加えてこちらは素手で、戦闘は不得意と来ている。

 

 ならば、とレティシャは腹の奥底に力を込めた。

 高めた魔力が、倉庫の中でゆらゆらと燃える。

 レティシャの放った全力の威嚇は、視認できるほどの密度と圧力を含んでいる、はずである。

 黒が僅かに身構えた。


「……おい、こいつすげえぞ。第一持ちか?」

「ハッ、良く見てみろよ。あの面、腰、足元。わたしビビってますよ~と宣言してるようなもんだわ」


 嘲るように深緑は笑って、剣を静かに真っ直ぐ構え、


「魔力だけで勝てりゃ苦労しねえ。今からそれをこのお嬢ちゃんに教えてやるさ」


 言い終えたと同時に、敵は躊躇なく地を蹴ってきた。

 ――やばい、やばいやばい

 動きは良く見える。レティシャの全身を流れる魔力はあらゆる感覚を増幅し、魔力の乏しい者とは文字通り別次元の世界に入れるだけのものだ。

 

 深緑の魔力とて、貧弱ではないにしろ脅威からは程遠い。昼間張り倒したごろつき共と、それほど大きな差はあるまい。だというのに、


「くぅっ……!?」


 退いて、横に飛び、再び退く。

 目の前の男から吹き付ける殺気に、体の全てが泡立っているかのようだ。

 手には刃、目には殺意。殺すつもりの敵と相対する。街での喧嘩などとはまるで違う、本物の命のやり取りである。

 

 斜め上から剣が降りてくる。軌道は単純、速度も凡庸。避けつつ踏み込めば一気に終わりだ。

 そう思って踏み出す、まさに寸前。剣筋は不可思議にぐにゃりと歪んで、理解の外から刃が来る。

 ほとんど反射だけで飛んで逃げるが、肩に当たりに灼熱感。赤い液体が零れて痛みが走る。肩を薄く切りつけられた。その程度の軽傷なのに、心にはすさまじいヒビが入る。

 

 ――いや、だ

 後ろへ、後ろへ。

 もはや逃げるように退き続けて、ついには背中が壁に当たった。

 視界の端に、見知った子供の姿が見える。壁伝いに左に行けば、倉庫の正面門に着く。

 

 レティシャの目は、門へと向いてしまった。恐ろしく分厚いそれは、素手で破るには相当な時間がかかるだろう。かんぬきの役目と思しき木の板はちょっとした丸太のごとき立派さで、なんと薄い鉄が張り付けられていた。裏口の粗末さとは大違いである。

 

 ――むりだ

 脳が叫ぶ。逃げるのも、戦うのも、勝つのも。

 けれど敵は止まらない。

 剣の軌跡は頭上から。

 もはや自暴自棄で踏み込んだ。


「……こいつ!」


 純粋な速度は依然としてレティシャのほうが上である。打点のずれた剣は僅かに肩に食い込んだのみ。体当たりをされた深緑は軽く数歩分は吹き飛んだ。

 辛うじて足から着地する敵。大きく崩れた態勢。ここしかない。これが最後だ。歯を食いしばりながらレティシャは更に踏み込んで――顎に強烈な衝撃が奔った。

 

 視界が揺れる。膝が笑う。そして地に座り込んでしまう。

 ――なんで?

 ぐるぐる回る視界がなんとか原因を突き止めた。静観するだけだった黒の態勢が変わっている。何かつぶてのようなものでも投げ放ったのだろう。


「舐め過ぎだ。押し合いじゃ勝負にならんのを忘れるなよ」

「……ああ、すまねえ」


 こんな眩暈すぐ治せる。五秒もあればもう治せる。でもその五秒は命にとどく。

 深緑がまっすぐ剣を振り上げて、


「じゃあな」


 頭へと振り下ろされる死の塊に、せめてと両方の手を掲げた。


「ひぐっ!? ああああああっ!」


 痛みに叫んだ。声だけは、出るようだ。

 ありったけの魔力を手に込めたが、やはり可能と不可能の壁はある。

 剣は簡単に肉を裂いて、骨の半ばまで食い込んだ。盾代わりに使ってしまった右腕から、どくどくと信じられないような量の血が出ている。

 

 剣を腕で止めるなんて、やっぱりできなかった。それでも切断されていないだけマシなのかもしれないけれど。

 それは、死が一歩伸びただけか。


「ちっ、固ってーなぁこいつ」

 

 剣をぐいぐいと押し込みながら、深緑は呟いた。それはとても殺しの最中とは思えないほどに冷静で、もはや自分と同じ生き物に見えなかった。

 手の痛み。赤い血。目の前の死。麻痺しつつある恐怖。

 

 非日常の極みの中で、レティシャが諦め意識を手放しかけたその瞬間、魔力のような何かがあたり全てを舐めていった。

 ――これ、は?

 痛みも忘れて考える。深緑も殺しを忘れて考えている。


「これは……探査か!?」

「やべえぞ! さっさとそいつを――」


 男の声を遮ったのは、ミシミシという不思議な異音。出所はすぐそこ、倉庫の表入口である。

 音はどんどんと大きくなって。

 蹴破るでもなく、ぶち抜くでもなく、外に居るその『誰か』は、門をそのまま開いてしまった。

 

 かんぬき代わりの木材はビスケットのように真っ二つに割れ、張り付けられていた鉄板は中央から二つに千切れて離れる。

 入ってきたのは、赤い髪をした女。レティシャの知る顔である。

 彼女――つまりエリスはぐるりと倉庫内を見渡して、


「ええと……間に合って、ますよね?」


 彼女はこちらに真っ直ぐ体を向けた。姿勢は隙だらけ。魔力は怖気を振るうほどに臨戦態勢。

 レティシャに食い込む刃を見たからか、眉をしかめ、低い声で彼女は言う。


「一応、降伏を進めます」

「……っは、ふざけんなよ女」


 深緑は食い込んだ剣を引き抜いて、エリスに向き直った。衝撃と痛みに声が漏れるが、レティシャの思考はそれどころでは無かった。

 

 最初は安堵。

 次は疑惑。

 ――なぜ、ここに?

 

 答えはもらえず、事態は進む。

 明らかに戦う意思を見せた深緑に、黒の声が飛んだ。


「おい! 一目で桁外れにヤバいってぐらいわかるだろうが!」

「バカ言え。だからこそ殺すんだろうが。素直に逃がしてくれる相手に見えるのか」


 二人の問答。エリスは――鼻で笑うだけだ。

 それが癇に障ったのか、深緑は一気に踏み込んだ。先ほどまでよりも明らかに鋭く。

 剣は真っ直ぐ、真っ直ぐ、エリスの心臓目掛けて一直線に突き出されて。

 

 ここから先の攻防は、きっと深緑には一切見えなかったのだろうと思う。

 エリスは左足を真っ直ぐ、天井まで伸ばした。突き出された剣に対して、突風のような速度で振り下ろされる左の踵。剣はへし折れ、反動を利用しエリスは空中へ。

 

 二発目とばかりに振り上げられた右の踵に、仄かな赤い光が灯って。

 先ほどの倍する勢いでもって、踵落としをもう一度。次なる目標は深緑の頭部であった。

 馬車の事故かと勘違いするほどの轟音がして、結果が床に転がっている。

 深緑の頭部、その鼻から上は原型を留めぬほどに砕かれて、下半分は胴体にめり込んでいた。

 

 生死を気にすることさえ、愚かに思えるほどの状態である。

 殺した。殺したのだ。返り血で体の一部を染めて、一つの命をあっさりと終わらせ、だというのに動揺も興奮も見せずに静かに佇むその様子は――戦いを生業とする姿、そのものだった。昼間、にこやかにおもちゃを選んでいたことなど幻に思えてくるほどに。

 

 エリスが残った黒へと視線を送る。

 黒は怯えたように一歩引き、素早く背を向けた。

 逃げる――のではない。これは子供を人質に取るための動きである。

 

 しかし、黒の動きはそこで止まった。おそらく裏口から回り込んだのだろう。白い服に身を包んだ女が、既に男の前に立ちふさがっていたからだ。無論、こちらも知っている顔である。


「抵抗するなら四肢をもいでからもう一度聞くが……どうする?」


 黒は手元の短刀を投げ捨てて、その場にうなだれた。さすがにこっちは可能性さえ見えない相手だと分かるらしい。

 その女、ルナリアは動かなくなった男を無視して、子供たちに歩み寄った。優しい手つきで縄と解いて、一人一人を軽く撫でる。それはすばらしい光景、であるはずなのに。

 

 助かったという実感さえ湧かぬままぼうっと見ていると、エリスがこちらに駆け寄ってきた。彼女はわざわざ屈んで、


「大丈夫ですか? 腕の傷のほどはどうでしょう」

「あ、いえ……もうほとんど、治って……」


 言葉に嘘は無い。眩暈も収まり、骨は元通り。後は肉の傷を埋めれば完治だ。この程度すぐに終わるだろう。


「さすがですね」


 褒めてもらえた。お世辞には思えないのに、なぜか喜ぶことが出来ない。


「レティシャのねーちゃん!」


 声は、当然レオルドのものである。傍で見れば小さな傷がいくつかあるし、顔は憔悴しきっている。それでも今は、解放感のほうが強そうだ。

 右手を伸ばしかけて、引っ込めた。なにしろ血まみれだからだ。

 かろうじて綺麗な左手をそっと伸ばして、ぐしぐしと頭を撫でる。


「……無事で済んで良かったよ」

「うん」

「お互いに、ね」

「うん!」


 思い出し、実感し、そしてレティシャは大きく息を吐いた。何しろこのために来たのだから。

 疑問はある。嫌な想像もできる。けれど確信も証拠も無い。聞く度胸だって持っていない。

 でもそれで良いと思う。

 レティシャはゆっくりと立ち上がって、レオルドの手を握った。


「帰ろうか」


 エリス達に礼を言い、頭を下げる。考えることは沢山あるけれど、出せる答えは一つしかない。

 ――ここはあたしの居場所じゃない

 血と戦いの残留から、少しでも早く離れたかった。

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