わたしの彼女は剣闘士 九
合わせ鏡の間というらしい。これほど名のとおりである部屋もそうはあるまい、とエリスは思う。
右に左に前後ろ。壁の全てが鏡であるのはもちろんのこと、天井から床に至るまで全てが煌びやかな鏡になっている。違うのはここへの入り口となっている石作りの扉くらいなものだ。
己の姿を映し出す。これ以上ないほど鮮明に、数えきれないほど同時に。
つまりこれは、固定化の助けとなるために作られた部屋である。
エリスにとって絶対に必要か、と問われれば答えは否だ。手助け無しで儀式を終える程度の技量は当然のように備わっている、と自分では思う。
ようするに保険である。己でも意識出来ぬ程度の不安を塗りつぶすための、便利な道具だ。
――ま、こんなもんかな
鏡に映った無数の体。一糸纏わぬ見事な全裸。胸の大きさ、腰の細さ、尻の張り、まぁそれなりに満足行く出来に仕上げることが出来た。数年単位で丁寧に弄り上げた甲斐があったというものである。
一度終えた固定化を解除するには膨大な手間を必要とする。二級市民程度では不可能とさえいえるのだ。ゆえにこの儀式は、エルフにとってまさに一生を左右するだけの代物である。
たとえ二度目が可能であっても、無駄な手間は避けたい。だからこそエリスは己の体を隅々まで、じっくりたっぷりと見まわして――頷いた。
――よし
魔力を紡ぐ。体内をなぞる。煌き輝く優しい光が、鏡に反射しあらゆるものを青白く染め上げた。
仕上げにエリスは極光結晶を口に含む。
噛み砕く。一瞬にして砂のように散らばったソレを、舌にのせて溶かして飲み込み、
「……まっずい」
エリスは、こうして無事に固定化を終えた。
儀式の後、真っ先にエリスが足を運んだのはいつもの酒場だった。
考えをまとめるには――あるいは切り出す勇気をもらうには酒が一番だと思ったからである。
店に入れば、店主と目が合う。軽く手を振り、にこやかに微笑む。すると店主は頭を下げて、カウンターへと促してきた。
それなりに歓迎はされているようだ。自分の立場を思えば、ありがたい話である。
微かな喧噪、仄かな湿気、酒の匂い。やはりここは落ち着く。
そそくさと椅子に腰かけたところで、ぞくり、と背筋が総毛だった。殺気の類ではなく、ぎゅうと隠し押さえつけて、それでもなお香る強大な魔力。
感じるのはカウンターの端。エリスがそっと顔を向けると、座っていた男と目が合った。
「よう」
輝くような金色の髪。獣を思わせる鋭い瞳。薄汚れた外套と合わさり大悪党のごとき風貌だが、不思議と表情は穏やかである。歳のころは――相当若い。せいぜい二十歳前後であろう。無論それは見た目の話ではあるのだけれど。
知らない顔だ。なのにすぐにわかってしまった。
「まだ、王都にいたんですね」
「まぁな」
「まだ、強くなってませんけど」
「当たり前だろうが。細かいこと気にするんじゃねえよ」
声音は柔らかだ。飾らず、脅さず、ごく自然に。その証拠に、店の客は誰一人気づいていないように思う。
エリスは考え、悩み、そして切り出した。伝えるべき言葉があったからだ。
「……ありがとうございます」
「何がだ。今更トドメがどうって話か?」
首を横に振る。
「あなたが、手を回してくれたんですよね」
「さぁて」
とぼける。しかしはっきりと否定はしない。
エリスは剣闘に負けた。死なねば終わらぬ第一等級を敗北して終えたのだ。
それ自体が罪に問われる、という話ではない。この場合罰せられるとすればあくまで殺さず済ましたヴァラであり、エリスに非は無いのだから。
問題があるとすれば、エリスの『名』だ。勝ち続け、暴れ続けてエリスはこの街にそれなりに存在を示してきたのだ。先のいばらに限らず、小さな恨みを持った相手など腐るほどいるだろう。単に気に入らぬと考えるものなど数えるのも馬鹿馬鹿しい。
たった一度とはいえ、確かな敗北はその手の連中を大いに焚きつけてしまう。どうなるかと警戒してみれば――驚くほどに肩透かしに終わった。
街の『ごろつき』は目が合うだけで逃げる始末で、しつこかった一部の練団の勧誘もすっぱりと途切れてしまった。誰かが動いたのは明白であった。
「どーでも良いが、酒おごってくれ。金がねぇんだ」
「…………いや、良いですけどね」
ならばなぜ酒場にいるのか。
「あっちのひとにトーラエール、お願いします」
「俺はワイン派でね」
「……適当なワインで」
注文を受けたはずの店主は素早くワインを彼に出したが、なぜか渋い顔のままで、
「ええと、ですね……ここ三日ほどのツケがあるんですが、それもあなたにお願いしてよろしいですか?」
「…………」
エリスはため息をつく。彼は悪びれもせずにワインをグラスに注ぎ始めた。
「かまいませんよ」
店主の顔がほころんだ。一体どれだけ飲んだのやらと思う。
「おまえ、この後どうするつもりだ」
一気にワインを飲みほした後、彼は突然そんなことを言った。
「まだしばらく剣闘か?」
「いえ」
エリスはゆっくりと、首を左右に振った。
「少し世というものを見て回ろうと思います。父のように……あるいはあなたのように。そうでなくては届かないものがあるのかなと、今は考えていますので」
「そうか」
グラスを置いて、ボトルを手に取り、一気に垂直に。ごぼんごぼんと音を立てて紅い液体を流し込んで、重いため息。
そしてヴァラは笑った。凶悪に。
「ならば俺が言うことも無いか」
彼は席を立ち、店の出口へ向かう。すれ違いざまに、ぽつりと。
「また会おう。そう遠くないうちにな」
「……ええ。見合うくらいに、なってますよ」
「良い自信だ。生かした甲斐がある」
ひらひらと手を振り、彼はそのまま振り返らず店を出て行った。
幾分か軽くなった空気の中、エリスは大きな深呼吸をする。
――あぁ緊張した
殺されかけた相手だから、なんてことではまるでなく。只々それは彼の放つ無言の威圧感ゆえ、だと思うのだけれど。
――次は普通に話せるくらいになってないと、ね
酒を口に含んで、ごくりと飲み込む。思わぬ相手にあってしまったが、当初の目的を忘れてはいない。ある意味では、ヴァラとの会話以上のものが、この後まっているのだから。
「ただいま」
幾度も歩いた道を歩いて、何度も開けた扉へ入り、いつもの言葉を口にする。
「シアンお嬢さまっ」
嬉しそうな声と共に、マティアが小走りで駆けよってきた。
「ご夕食に致しますか?」
「うん、お願い」
「わかりました。少々お待ちくださいね」
彼女は笑顔で答えて、再び小走りで台所へ。
明るい。元気だ。それはもう、不自然なほどに。
エリスは気づかれぬように小さく息を吐いてから、慣れた来客にも声をかける。
「こんばんわ、ドゥーガちゃん」
「お邪魔してます」
彼は深く頭を下げて――じ、とこちらを正面から見つめてきた。
何か言いたいことがある。けれど切り出せず困っている。そんな顔にも、見える。
エリスは特にそれ以上言葉を交わさず、椅子に腰かけ食事を待った。
正直なところ、悩む。いつ切り出すべきなのかと。
「出来上がりましたよ、シアンお嬢様」
マティアが次々と料理をテーブルに並べていく。毎度のことだが、見事な手際だ。良くもまぁ、一人でこれほどの料理を作れるものだと深く感心する。
全てを並び終え、ドゥーガも同じテーブルについた。
食器を手に持ち、揚げた鶏肉を自分の皿に取る。
そしてエリスは決意して、
「ねえ……」
「シアンお嬢様、今日の自信作はこちらの香草焼きになっております。ぜひ最初に召し上がってください」
さえぎるようなマティアの言葉。彼女は微笑んだまま、皿に次々と肉を盛り付ける。
受け取る。口に運ぶ。おいしい。とても。ずっと食べていたいくらいに。
でも、
「ねえマティア」
「やはりお肉ばかりではお体によろしくありませんね。こちらのスープなども、シアンお嬢様の好みに合わせた味付けになっており――」
「マティア」
目を見る。彼女の瞳を真っ直ぐに。
重くのしかかるこの感情は、罪悪感と、言うのだろうか。
「少しの間、国を見て回ろうと思う。剣持って、昔のとうさまみたいに。でも必ず毎年冬には――」
「シアンお嬢様も」
静かな声に反して、こぼれた涙は、とても大きく。
「お嬢様も、私を置いて行ってしまうのですか。また私は一人になるのですか」
彼女は椅子を蹴る勢いで立ち上がると、家の外へと飛び出して行ってしまった。
エリスも後を追いかけようと立ち上がって――留まった。
今何が必要か、明白だったからだ。
「ドゥーガちゃん、行ってあげて」
「それは……しかし」
「あたしは行くよ。もう決めたんだ。だから、今大事なのはドゥーガちゃん。一人なんかじゃないって、ちゃんと言ってあげないと」
「わかり、ました」
彼が立ち上がる。玄関へと向かう。そこで一度振り返った。
「エリス……いえ、シアン嬢」
「ん?」
「俺も元錬団です。あなたの父も。ゆえに下らぬ説教も安い綺麗ごとも言うつもりなど毛頭無い。それでも、いえだからこそ伝えるべきことがあります」
彼の瞳を見る。なぜか、戸惑っているように感じたから。
「約束してください。かならず生きて帰ってくると。それに比べれば、他のことなど全てが些末です」
「……うん、わかってるよ」
エリスは笑った。明るく、朗らかに。そして誤魔化すように。
「元から冬には帰ってくるつもりなんだから、そんなに深刻に考えないでって。マティアにもそう言っておいてねー」
「はい」
彼が駆け出した。その背を見送り、エリスは大きく息を吐いた。
マティアを泣かせた。それだけで胸が締め付けられる。彼女と離れることだって、重苦しく腹に響く。
それでも、と思った。
夢に浮かぶ炎は剣のような形をしていて、今でも絶え間なく脳を焼く。臓腑をめらめらと燃やし続けている。
揺らぎ吹かれる火の粉のように、流れに逆らうことなど出来そうもない。
たとえそれが――自覚できるほどに、血濡れた修羅の道だとしても。




