わたしの彼女は剣闘士 八
名は知っていた。
曰く剣聖。曰く剣鬼。
一人で砦を落とし、一人で戦列を断ち割り、引き込んだ側は間違いなく勝利を手にする。
まさに国中に存在を示し続ける、剣を手に持つ一つの終着。
「あれが、か」
ドゥーガの手をそっと振り払い、エリスは歩を進めた。
「エリス嬢! あなたが見て感じ取れないはずが無い。どうか冷静になってください」
逃げろと彼は言う。
この場から引いて、それで済む話ではない。剣闘士としての立場もあろう。そもそもが懲罰として組まれた試合、勝手に逃げればどのような目にあうか。安全を願うならば西の地まで行かねばなるまい。マティアの手を引き、追手を撒いて地の果てまで。
それがどれほど困難か。
そして、その『困難』でさえも霞むほどにあの黒鎧は強いと、ドゥーガは言っているのだ。
「ごめんね」
エリスは歩く。全てを振り切って闘技場の中央へ。それでもと止めるドゥーガの声も、まるで聞こえぬようにして。
黒鎧――ヴァラは変わらず剣を肩に掲げたままである。
奴が笑った、ような気がした。
「良く出てきた。好きに初めていいぞ」
言葉を受けとる。意味を飲み込む。
エリスの体は震えていた。
向かい合えばわかる。距離を詰めれば尚わかる。男の全身を覆う身震いするほどの魔力。毛先一つ分さえ無い隙。呼吸が乱れるほどの威圧感。全てが初めて味わうほどの代物であった。
だからこそ出てきた。ドゥーガの静止も何もかも無視して、この圧力を肌にしみ込ませるために。
すばらしい、とおもった。
これが一つの頂点か。これほどまでになれるのか。剣一本持った、たかが一つの個に過ぎないはずだというのに。
奇妙なほどに静まり返った闘技場で、やけに己の心音がうるさく聞こえた。
手が汗ばむ。背筋が冷える。唾を飲み込む。吐き気がする。
そしてエリスは剣を構えた。
「行きます」
「ああ」
滾る魔力が雷の速度で体内をめぐる。心臓で生まれ腹で膨らみ腿を過ぎて踵で爆発する。
矢に勝る加速で距離を詰め、大上段から一直線に手にした剣を振り下ろした。小細工無しの真っ向勝負の結果は、
「良い腕だ」
暴風のように広がる轟音と共に、あっさりと、受け止められた。真横に構えた剣を握るは右腕のみである。
――うーわ
心で気楽に呟く。反するように冷や汗が出る。
エリスは剣を引いて大きく下がる。しっかりと着地して再び全身に力を込めた。
そうしてこちらの態勢が整うのを待っていたかのように――ヴァラが地を蹴った。
速く、強く。単純で、しかしもはや未知の鋭さを持って。
振り下ろされる両手剣を、エリスはなんとか受け止めた。こちらは片手どころではない。肉体全てのバネと魔力を使い、渾身の力を剣に籠め――それでようやくなのだ。
「ふむ」
弾んだ声がする。追撃は来ず、ヴァラはそのまま後方に退いた。
舐められている。わざとエリスに打たせた初撃、受けやすく放った斬撃。その二つが雄弁に語っているのだ。あくまで試しているだけだと。
いつもであれば激昂する。調子に乗った相手を捻り殺してやろうと黒い炎がゆらゆらと燃える。そんな暗い感情が、けれども今は少しも出てこない。
エリスの全身はびっしょりと汗で濡れていた。疲労によるものでも、体温調整のためでもない。これは久しく――あるいはほとんど初めての感情によるものである。
どうやらそれを、ひとは恐怖と呼ぶらしい。
――こんな奴が、本当に
僅か二合。たった二合だ。それでも濃厚なほどに香ってくるものが一つあった。あまりに濃い確信となるものが。
エリスにとって、父は全てだった。憧憬のままに失ったことも合わさって、その思いはもはや信仰に近い。清廉潔白にして、すばらしい腕を持った超一流の戦士。父に並ぶ者などそうそう居てたまるものか、と。
しかし、あるいはだからこそ。
それだけ色をつけてしまうエリスの目から見てさえ、はっきりとわかることがあった。
こいつは、自分の父より強いようだ。
「どうした。続きだろう」
剣を軽く振って、奴は誘う。
――何を考えてる
殺す気ならば、あっという間に終わるはずだ。単に嬲るのが趣味ならば、こんな穏やかに進めまい。敵の思惑がどこにあるのか、想像さえできなかった。
不落の敵。退路は既に無し。ならばやることなど一つしかない。
エリスはぎり、と剣を握りしめた。揺らいでしまった魔力を整え、足を開いて敵を見据える。
塗りつぶし、塗りつぶし、恐怖も何もかも忘れてしまうほどに、只々剣の感触だけを外との繋ぎにするように。
地を蹴った。
斜め上から斬り下ろす。剣が絡まりするりと流される。
真横から叩きつける。正面からあっさり止められる。
喉を狙った素直な突き。剣の腹で見事に弾かれた。
姿勢を低く下げ、踏み込んで右肘。相手は避けもせず、姿勢に僅かの乱れも無し。お返しの掌底。左腕で受けるもあまりの重さに骨が軋む。
敵の剣が、上段から迫る。
刃で受け止め、勢いはそのまま滑らせて逃がした。漆黒の両手剣は美しいほどの軌跡を描き、闘技場の床を音も無く両断する。
切れ味と輝きから剣に込められた魔力の質が嫌というほど伝わってきた。
戦慄する。押さえつけてエリスはさらに距離を詰めた。
抱き合うような距離。そこで最も重要なのは、魔力を扱う速度であった。
エリスは小さく、それでいて全力で首筋へと切りつけた。奴は剣を引き戻して簡単に受ける。攻防の核が上へ移った。即座にエリスは魔力を流動させて、右足へ。相手の膝を正面から、へし折る勢いで踏みつぶす。
背丈にはかなりの差がある。こうした細やかな動きには、どうしても反応が遅れるはずである。
踏みつけた感触は――あまりに硬く、重く、ぴくりとも動かない。それは鎧の力ではなく、奴の魔力によるものである。
――あ、は、は
再びエリスは大きく退いた。ヴァラはやはり追ってこない。
エリスは実感した。理解した。とてもよく、現状が分かった。
負けていた。
何がどう、という甘い話ではなかった。体の使い方、剣を操る技術に始まり、魔力の力強さや戦いにおける勘や経験。さらには己の得意分野である、魔力を動かす速さまで。
およそ戦いに必要とされるいくつもの能力、その全てでヴァラはエリスの数段上を行っている。勝っている部分が一つとして存在しないのだ。
「……はは、あっは、あっははは」
笑いが漏れる。笑みがこぼれる。それはこの感覚が――とても懐かしく思えたからだ。
子供のころ、父と手合わせをしたあの感覚。いかなる手を使おうとも、傷一つつけられないだろうという絶対の安心。
エリスはただ突っ込んだ。がむしゃらに、考えず、己のすべてをぶつけるように。振るう剣が火花を散らして、衝突は風を生んであたりが震える。
あらゆる角度から繰り返される渾身の一撃を、ヴァラは揺るがず受け止めて、
「ここまでか」
閃光が視界を奔った。エリスにはそう感じた。
直後に右腕を襲う灼熱と、景色を染める紅い飛沫。自分の右腕が切り飛ばされたのだと理解したのは、そのまますさまじい蹴りを受けて床に転がった後だった。
仰向けに倒れて、息が詰まる。せき込む余裕、すら与えてもらえず。
逆手に持ったヴァラの両手剣が、動けぬままのエリスの腹部を貫いた。
「がっ……ぁ……」
痛みはあまり感じず、ただ喉に上がってきた血が気持ち悪いと、そう思った。
エリスはぼんやりと見上げた。そこには己に跨るように立ったまま、剣を握る黒鎧の姿。死神のごときそれが、なぜかとても美しく思える。
ヴァラが言った。戦いのさなかとは思えぬ声音で。
「おまえ、歳は。固定化は済ましたのか」
「……まだ、です」
奴は嗤った、ように感じた。兜に隠れて見えないというのに、不思議と分かった。
「それでこれか。カハハ、すさまじい素材だな。アルセウスの奴も誇らしいだろうよ」
「とうさ……父を知ってるの?」
「勿論だ。下らぬ死に方をしたことが、もったいないと思う程度にはな」
ずるり、と腹に刺さった剣が引き抜かれた。
もはや反射のように、血を止め出来た傷をふさぐ。この後首が飛ぶのだから、意味など無いというのに。
ヴァラは――しかし剣を肩に掲げて力を抜いた。
「おまえは強くなるぞ。もっともっと、ずっと、ずっとだ。その時にまた会いに来る。楽しい祭りの話を持ってくるつもりだから、期待しておけよ」
「……え?」
奴が背を向け歩き出す。エリスはいまいち事態を飲み込めず、ただその背中を見ていた。
突如聞こえてきたのは、怒号だった。
「ふざけるな!」
「そうだ、これは一等級だろう。敗者には死あるのみ!」
戦いが始まってすら驚くほどに静かだった観客たちが、すさまじい勢いで騒ぎ始めた。
殺せ、殺せ、殺せ、殺せ。
呪詛のように投げかけられる言葉は、あくまで規則に従った正当な要求だ。エリスとて勝てば確実に殺すつもりだったのだ。己だけは嫌だ、などとどの口が言えるのか。
しかし、
「やかましい!」
ごう、と魔力の風が闘技場全てを覆った。けた外れの圧力と殺意を乗せたソレは、観客達の熱を一瞬で冷ませてしまったように、見えた。
ヴァラは剣を床に突き刺し、ぐるりとあたりを見渡した。
「勝ったのは俺だ。決めるのは俺だ。文句のある奴ぁ下りて並べ。端から刻んで殺してやる」
それで、黙る。何もかもが黙る。異論が霧となって宙に消えた。
――これが、これほど、か
静かになって満足したのか、ヴァラはそのまま闘技場を後にした。一度も振り返ることはなく。
呆けて、寝たままそれを見送っていれば、知った声がすぐ傍から聞こえた。
「エリス嬢!」
ドゥーガは、安堵と恐怖と心配がないまぜになったような――中々に面白い表情をしていた。
「大丈夫ですかっ!? い、今腕を拾ってきますので」
捲し立てるようにそう言って、腕を持ってきてくれた。切断面にぴたりとあてれば、後はもう流れに任せて治癒するだけである。
「ねぇドゥーガちゃん」
身体がだるく、頭がぼうっとして、けれど心は弾んでいた。
「強かったねあのひと」
「……生きていただけで幸運ですよ。本当に」
強かった。圧倒的なまでに。
この国最高の剣士の呼び名に恥じぬ、桁の外れた化け物ぶり。記憶にある父でさえ、到底かなわぬほどの究極。
だが、
「でもね、届くよ」
「……は?」
その背中はあまりに遠く、あまりに険しい。
だが見える。見えるのだ。この道を無心に進んだ先に、あの世界が待っていると確かに信じられるのだ。
法さえ捻じ曲げる究極の個。強さの上達、その終着。
「あは、あっははは、はははは! なれる、なれるよ、ドゥーガちゃん。あたし、まだまだ強くなれる。どこまでもいける。きっとあの人の場所まで。そうしたら、そうすれば、あたし、あたしは」
「エリ、ス……嬢?」
上達する実感。力が増していく快感。追い求める道が固まった興奮。
力が欲しい。ただどこまでも。
強くなりたり。何物も寄せ付けぬほどに。
願い味わうその果実は、甘く甘く、とろけるよう。
これに比べればすべてが些末。すべてが荒野の砂利のよう。
美味い食事も、高価な酒も、面白い水彩版も、友も、家族も。
ちちのことさえ、どうでもよくおもえるほどに。




