わたしの彼女は剣闘士 七
試合の日が来た。
「行ってくるね」
準備を整え、マティアに声をかけて家を出た。相変わらず彼女の瞳は不安そうである。
日差しは既に赤々と染まり、やがて来る夜の前の一輝き。路面も壁も何もかも紅い。
とりあえず、エリスは自宅の正面にある花屋まで歩いた。といっても狭い道を跨ぐだけだ。花は店先に一つも並んでおらず、今日は早めの店じまい。理由はもちろん知っている。
とんとんとん、と扉を叩く。
「どぅーがーちゃーん、いーきまーすよー」
一声かければ、バタバタと慌てたような足音がする。
扉を開いて出てきた彼からは、僅かな酒の匂いがふわりと。
「祝杯はまだじゃないのー?」
「いやそうなんですが、空いた時間の潰し方に悩みまして。何しろ男三人ですることも無く……」
やたらと早く出てくる言い訳と、妙に落ち着かない声音。どうやらこれはそれなり以上に飲んでいるらしい。
「いーけどね、別に。それで……一応付いてくるんでしょ?」
「無論です」
そう言って、彼は一足早く歩き出す。エリスも苦笑し後を追う。
あの日――フィレンの頭部を蹴りつぶしたあの夜から、今日で果たして何日目だったろうか。すでに記憶はおぼろげになりつつあった。その程度と、脳がより分けてしまったのだろうか。
「あいつら、今も元気なのかな」
「流木ですか? それなりに順調のようですよ。なにしろいばらがほとんど崩壊扱いですから。何人か吸収さえしたようで」
「へえ。たくましいこと」
適当な相槌を打って、エリスは続けた。
「あの二人、今日もやってくれるって?」
「ええ。信用はして良いと思いますよ。古い馴染みですので」
首だけで軽く振り返ると、花屋から二人の男が出てくるところが見えた。剣で武装し、隙は無く。一目で良い戦士だとわかる。
彼らはそのまま道を渡ると、エリスの自宅の扉の前に。そこでくるりと振り返り、門番のようにまっすぐと立つ。
ようするに、彼らは一時的な護衛だ。守る対象はマティア、想定する敵は――いろいろ。何しろエリスの名前はあの一件でさらに売れてしまったのだ。行動の過激さを思えば、面白くないものも多数いるだろう。いばらの残党などはまさに第一候補である。
「……時間で落ち着くと良いんだけど」
「大丈夫ですよ。どんな物事も時の流れには勝てません」
「そう、だね」
励ましに、素直にうなずく。
結論から言うと、エリスは見事に無罪放免になった。
酒場に襲撃をかけ、その手で直接三人を殺害するという大事件なのは確かだったが、いばらに非があることなど少し調べれば簡単に出てくる。
向こうの行い、死者を出した順番、そしてトドメの騎士団隊長の不祥事。結局官憲はこの件を掘り下げることもなく、簡単な質問をされた程度でエリスは解放されたのだ。正当な復讐、正当な決闘、いずれも合法であると。
しかし、
「エリス嬢、今日の試合……なんと呼ばれているか知っていますか?」
「ううん、ぜんぜん」
「懲罰試合、だそうです」
エリスは小さく嗤った。
法に照らし合わせて無罪になることと大量の恨みを買うことは、まったく別の問題である。
碌に決まらぬ試合があっさりと決まり、日時の都合は完全に向こうの自由。どのような力が動いたのか、想像は難しくない。
「それで今日のあたしの相手は、ドゥーガちゃん知ってるの?」
「はい」
彼は少しだけ、言い淀んだ。
「バズガック、覚えてますか?」
「とーぜん」
通り名は新人殺しだったか。記念すべき、初めての剣闘相手なのだ。忘れられようはずもない。
「ようはアレと一緒です。ただし腕は数段上。えげつなさも……数段上です。男は刻むように徐々に殺し、女は犯し、殺し、また犯す。残虐極まる『演劇』を存分に演じ上げる大役者にして、騎士団長にさえ届くと言われる腕を持つ錬騎兵。名をシーザ・ラグ・サレク」
「ふーん、全然知らないや」
なにしろ今回は急である。碌に調べる時間も無く、同時にその気も無かったのだ。
エリスは――にまりと微笑んだ。
「で、聞きたいんだけどさ」
「なんでしょう」
「そんな危ないのがあたしの相手だっていうのに、なんでドゥーガちゃんは平然としてるの? 心配してくれないのかな」
彼はわずかに肩を竦めた。
「はっきり言って、負ける気がしませんので。むしろ相手に同情しますよ。本当に今のあなたを殺したいのであれば、すべての見栄を捨てて一番上を連れてくるべきでしょう」
「あっはは」
過剰とも言える信頼。けれどエリス自身にはそうした油断は無かった。それ以前の問題なのだから。
戦いたい。只々、戦いたい。少しでも多く、少しでも強い敵と。
一戦ごとに力が増すこの実感。凝縮した果実のごときこの甘さ。それを味わいたい。骨の髄まで味わっていたい。もはや剣闘などそのための食卓に過ぎぬと、己の根が叫んでいた。
エリスは歩く。いつもの道を進んで闘技場へ。正面からは入らず地下に。
今回の等級は一である。虐殺も凌辱も全てが許される究極の見世物。どちらかが死なねば終わらない狂乱の宴。供物のごとき立場におかれ、しかし恐怖など微塵も無い。
入口から中へ入ると、ほのかな甘い香りが鼻孔をくすぐった。血生臭さを消すせめてもの努力といったところか。以前は無かったはずである。
広い部屋にはわずか数人程度の人影があった。闘技場側の者が数名に、派手な服を着た客が数名。そして。
「あれか」
エリスの視線の先には、一人の男がすばらしく良い姿勢で立っていた。
「わかりますか」
「そりゃあね」
綺麗な顔である。整った身体である。男性のエルフであることは間違いないが、その容姿は美しい以外に表しようが無かった。金色の長髪から覗く瞳は宝石のようである。
涼し気で、なおかつ表情をほとんど出さない顔つきからは、春風のような穏やかさを感じる。
――これで、か
張り詰めた魔力。一切無い隙。実力のほどは測るまでも無い。明らかにフィレンなどより上である。ただ何より、これほど柔らかな空気を纏った男が、鬼畜で表現しきれぬほどの行為を生業としているとは、にわかには信じがたかった。
あるいは――だからこそ割り切って仕事にしている、のかもしれないのだが。
男――シーザは一瞬エリスを見たが、それだけだった。動かない。微動だにしない。その静けさから意図を図るのは不可能に思えた。
だからこそエリスはさっさと意識を切り替え、受付へと向かった。
到着を知らせると、待機場へと案内された。職員はすぐに姿を消し、残るはエリスとドゥーガのみだ。
大きく深呼吸する。不快なはずの地下の匂いが、なぜか懐かしく感じた。
「防具は自由だそうです。そして……武器はこれを、と」
そう言ってドゥーガが手渡してきたのは、立派な両手剣だった。
「……なにこれ、極光石入りじゃない。なんでこんな上等なものを」
「言い訳を作らせたくないのでしょう。意地を抱えて自殺するようなものでしょうが」
「ふん」
下らぬ見栄だが、ならば存分に利用させてもらおう。手を抜いてはつまらない。真剣に力を振るわねば、あの上達の甘美さを貪れないのだから。
慣れた皮鎧を着こんで、武器を軽く振り回した。
悪くない。いや、すこぶる良い。
「じゃあいこっか」
「まだ時間には早いですが」
「通路で待ってればいいでしょ。ここに居ても面白くないし」
「……そうですね」
闘技の場へと進む。ドゥーガも当然のようについてきた。
もはやお付きの従者のようにこき使ってしまっているが、彼がそうしたいと言ってくれているのだ。ありがたいと思いつつ、甘えさせてもらう。
お返しに最高の試合を見せてあげねば、とエリスは思う。
暗がりの先に、明かり。
そこに入れば血濡れた円形だ。
エリスは直前まで通路を進み、壁に肩を預けた。
「さすがにまだ来てないか」
「ゆっくり待ちましょう。心を落ち着かせつつ」
「ふふ、大丈夫」
通路から見える範囲で、観客席をぐるりと一瞥する。
相も変わらず客は派手だ。人数自体はそう多くないが、篭った熱量はその十倍と考えても足りまい。
第一市民、貴族、金持ち、上流階級。彼らは何を求めてやってきたのだろう。
無残に敗北し、死体すら犯され、ぼろきれのようになるエリスの姿か。
あるいは最近勝ち続けている剣闘士が、さらなる死体を積み上げる姿か。
どうでもいいか、とエリスは思う。
全ては些末だ。これから起きる至上の時間に比べれば、道端の小石にさえ劣ってしまう。
頬が歪む。唇をかみしめる。剣の感触を確かめる。そして向こうの通路を見る。
――来た
最初はそう思った。だんだんとはっきりしてくる人影が、それを間違いでは無いと証明するはずだった。
「なにあれ」
足を引き摺り、全身くまなく血に染まり、あまつさえ腹からは腸すらこぼれかけていた。
右腕は根元からなくなり、残った左腕は臓器を落とさぬように必死に自分の腹を抑える。傷が深く広すぎるのか、再生すら碌に出来ていないようだ。
金の髪は血がしたたり、美しかった顔には、刻み込まれたような恐怖。
「ひ……ぁ……ぐ……ひ……」
息も絶え絶えに、そして救いでも乞うかのように走ってくる男は、間違いなく、シーザだった。
ざわめく観客。息を飲むドゥーガ。突如やってきたとびきりの異常。
それを終らせたのは――シーザ自身の背後から、一直線に飛んできた巨大な戦斧だった。
弧を描き、シーザ―の頭部、まさにその中心を立ち割り、そのまま地面に突き刺さる。
命令機関を失った体は、力なく闘技場の床へと倒れた。あたりに血と臓物をまき散らして。
声がした。不可思議で、性別さえわからぬような。その手の魔術で加工されているのがすぐわかる、声が。
「お騒がせして申し訳ない。ただ……勘違いしないでくれ。おれぁ代わってくれと頼んだだけだ。そこをそいつが問答無用で斬りかかってきたんでな、ついついしっかり反撃しちまったと、そういう話だ」
通路の向こうから、ゆっくりと。
見事な両手剣を肩に掲げて、声の主は現れた。
顔は分からない。なぜなら全身全てが、漆黒の鎧に包まれているからだ。
「バカな」
呟くように言ったのは、ドゥーガだった。
「黒衣の、戦士。なぜ、いま」
エリスは思わず顔をしかめた。
黒衣の戦士とは、特定の誰かを指すものでは無い。かといって正体不明の通り魔を指す言葉でもない。
それは一種の制度である。
「聞く相手がいなくなっちまったんで、皆様に問おう。今回の剣闘、俺が代わりに出たいんだが、どうかね?」
顔を出せぬもの。表向き剣闘になど出れぬもの。それはつまり大貴族の一員や、王に連なるもの。あるいは古老そのものなど、国中に名の通った大物が、どうしてもと願うときに使う『仕組み』なのだ。
「かの戦女神エリス。その再来とまで謡われる、東の偉大な剣闘士、エリス・ラグ・ファルクス。こんなおいしい女を相手取るのに、この程度の屑で良いと思うか?」
黒鎧が問う。観客が騒めく。すでに死んだシーザなど、忘れられたかのように。
「エリス嬢」
突如、ドゥーガに肩を掴まれた。彼の顔は、固まっていた。
「逃げましょう」
「……はぁ?」
眉をひそめて言葉の真意を探る。左の耳には黒鎧の声が飛び込む。
「これほどの逸材はそういない。であれば極上の場と相手を用意するべきだ。シーサだか何だか知らんが、こんな雑魚には到底無理だ。こうしてわざわざ高い金をはたいて見に来ているお前らも、どうせなら良い試合が見たい。そうだろう?」
観客のざわめきが消えた。かわりに怒号のような歓声がおこった。認めた、のだ。
肩に食い込むドゥーガの指は、痛いほどの力が篭っている。
エリスは尋ねた。
「あれ、誰だか分ってるの?」
目を閉じ、重くうなずく。そして彼は言った。
「見ただけで、半分。そして口調で完全に。知っている相手です。俺も、アルセウス様も」
黒鎧は肩に掲げた剣を下ろして、空中で一度振った。その一太刀で風が巻き起こり、あたりには砂が散らばった。
「よおし。さあ準備はできた。観客も認めた。さっさと出てきな、エリス・ラグ・ファルクス。あまり待たせるのは失礼というものだ」
奴が誘う。エリスは一歩を踏み出しかけて、未だ放さぬドゥーガの手に止められた。
彼は言う。もはや怯えさえ隠さぬ瞳で。父も知っていたというその相手を。
「アレはヴァラ・レム・ベリメルス。この国最高の剣士です」




