わたしの彼女は剣闘士 一
「ふう」
軽く息を吐いて、ルネッタはペンを机に置いた。
紙を手に取り数字を確認、間違いが無いことを確かめる。写し元であるもう一枚とじっくり見比べて――よし、と小さく頷いた。
書記官としての仕事、といえば聞こえは良いが実際はジョシュアの計算した数字を適当にまとめているだけだ。純粋な意味を問われれば沈黙せざるを得ないけれど、今後のためにも必要な作業だ、と思う。やはり文字は読むより書くほうが覚えるものだ。
筆記用具をコトリと置いて、ルネッタは小さく伸びをする。窓からは暖かな日差しが降り注ぎ、室内を見事に彩っていた。
ちなみにここはルナリアの執務室で、作業をしていたのはなんと彼女の机の上だ。気にせず使えと言われても、引け目はそう消えはしない。部屋で一人が寂しくてここに居る自分が言えたものでは無いけれど。
とはいえ、今現在部屋の主たるルナリアはいない。中央にあるソファーにだらりと座っている彼女の髪は赤いわけだし。
エリスは左手になにやら鉄の塊、右手に漆黒の短刀を持っていた。その塊をくるくる回して様子を見ては、時折輝く黒い刃でショリショリと形を整えている。
いわゆる木彫り細工のようなものだろうか。ただし削っている対象は鉄そのもので、挙句切り落とす音さえほとんどしない。とんでもなく恐ろしいことをしているのではないかとも思うが、もう気にしないことにした。
自分だって図太くなったのだ。
「ひまですねぇ」
ぽつり、と彼女が言った。
未だに騎士団の活動は停止したままだ。兵の訓練などはまさにその活動にあたるわけで、エリスの仕事は無いに等しい状況なのだ。
休んでいいと言われればうれしいのだろうが、何もするなというのは話が別、ということだろう。訓練器具の使用さえ許可されていないので、個人活動にすら支障が出ているらしく、あからさまな欲求不満が顔に出始めている。
ルネッタ自身の作業も一段落し、エリスは暇を持て余している。さてどうしよう、と思ったところで、エリスが急に顔を動かした。
視線は執務室の扉へ。同時にこんこんというノックの音。
「どうぞー」
気だるそうなエリスの声に、恐る恐るといった速度で開く扉。
現れたのは、
「あっ……し、しつれい、します」
青い瞳に、琥珀色の髪。年相応の低い背丈と、だというのに恐ろしく整った顔。
「ティニアちゃん」
思わず声が出てしまった。駆け寄りたくなる衝動を抑えて、ルネッタは静かに席を立った。
セルタで拾った――という表現はあんまりだが、とにかく保護した少女だ。魔力を持たない無泉であり、現在は第七騎士団の保護下にある。もっとも、現在住んでいる場所は別なのだけど。
少女は小さな箱を胸元に抱えていた。
「あ、の、あの……エリス、さま」
「はーい?」
鉄塊と短刀をテーブルに置くと、エリスもすっと立ち上がった。扉から動かないティニアにてくてくと近づくと、軽く腰を曲げて、
「どうしたんです?」
ティニアは緊張したように背筋を伸ばして、震える手で持った箱を掲げた。
「こ、こ、れを……お届け、もの、です」
ふむ、とエリスは一言。そっと箱を受け取り、確かめるように蓋をあけた。ぱちくりとまばたきをして、彼女は中から紙に包まれた『何か』を取り出した。
丁寧にそれを開いてみれば――現れたのは、やや大きな焼き菓子、に見える。形は少々不揃いだが、匂いの豊かさは離れていても感じるほどだ。
それを見たエリスは、本当に、本当に優しく微笑んだ。見ているこちらがどきりとするほどに。
彼女はそれをもう一度、赤子でも扱うかのように包みなおしてテーブルへと置くと、
「ありがとうございます、ティニア。よく持ってきてくれましたね」
そういって、少女の頭を撫でた。ぐしぐしと、少し強く、髪が乱れるくらいに。
撫で終え、手を放してにこりと笑うエリスを、ティニアはじっと見上げている。見惚れるように、ぼうっと。頬までわずかに染めて。
――む
もやりとした何かが胸中に生まれた。そりゃ相手は命の大恩人で、性別問わず憧れが生まれるほどに強く、美しい。無理も無いとわかってはいるが、それとこれとは話が別な気がする。
ではこれは嫉妬だろうか。だとしたらどっちに抱いているのか。切り分けて説明できないこの不思議さ。小石程度の疎外感。抱いたままでいるくらいなら、さっさとかき消すべきかと思う。
なのでルネッタもてくてく歩いて、ティニアのすぐ傍で腰を曲げた。
「偉いね、ティニアちゃん。この後はお休みなの?」
少女は少し考えた後に、首を小さく左右に振った。
「いえ……もどっておてつだいすべきことが、あり、ます」
たどたどしく、しかし口調は丁寧に。このあたりはやはり変わる様子も無い。
「ここまでは一人で歩いてきたの?」
頷く。正直関心しつつも、ルネッタは続けた。
「じゃあ送って行くよ。ね?」
少し、迷う。そして――頷いた。
――あああぁ
かわいいなぁと心から思う。
エリスの顔をちらりと見る。彼女は少々考え込むような間の後に、
「では、気を付けてくださいねルネッタ」
そう言うと再び鉄細工に戻った。
「はい。帰りに果物でも買ってきますね」
「よろしく~」
ぴこぴこ手を振るエリスに背を向け、ティニアの手を握った。柔らかく、少しひんやりとしている。見上げる彼女に微笑んで、そのまま部屋から出た。
「あ」
その一言にびくりと反応してしまうティニアを宥めて、
「ちょっとここで待っててね」
廊下に待たせたその隙に、ルネッタは再び室内に戻った。
どうしたのかとエリスが顔をあげる。ルネッタは止まらず、進んで、進んで、ぐいっとソファーに片足を載せて、
「へ?」
ぼーっとしていたエリスにまっすぐ口づけをした。唇をはむはむとかんで、縁をちろりとなぞるように舐める。けれど舌は入れない。そこまで進むと戻れなくなるのだ。
体を放す。彼女は、少々驚いたように固まっている。
「いってきますね」
「え、あ……い、いってらっしゃい」
再びエリスに背を向けて、部屋から出る。一歩も動かず待っていたティニアの手をじっと握って、軋む廊下を歩き始めた。
――よし
胸中に生まれた小さな嫉妬の種を、見事に二つとも砕いてしまった。ちょうどそんな心境なのだ。もちろん彼女達には一切責任なんてないし、あくまでルネッタ自身の気の持ちよう、ではあるのだけど。
「ルネッタおねえちゃん?」
「あ、大丈夫、何でもないよ。いそごっか」
緩み染まった頬に気づかれないうちに、ティニアの手を引いて兵舎の外に出た。途中見えた団員の姿は少数であり、そもそも今更ルネッタのことを気にするものも居ない。
といっても、無泉の手を引いて歩く人間はそれなり以上に目立つのも事実だろう。普段歩く場所から離れて中央通りへと出たあたりから、少なくない視線を感じるようになった。
右を見ても人。左も前も人、人。よくこの歳、背格好で一人お使いなんて真似ができるものだと、今更ながらに関心する。自分に同じことができるとは思えないからだ。
ティニアはあれきり声を出さない。それでも繋いだ手からはしっかりと信頼のような何かが伝わってきている、と思う。それで十分。
手をつないだままゆっくり歩いて、十字路にまでたどり着いた。以前エリスに連れてきてもらった店も、この近くだったろうか。
「あの……」
久しぶりに少女の口から出た声は、少し不安そうだった。
「かえるばしょは、むこう、です。でも、えっと……」
ルネッタは膝を曲げて視線を合わせた。決して急かさず、柔らかく。それがきっと一番大事だ。
たっぷりの沈黙を挟んで、次の言葉。
「時間には、すこしだけ、よゆうがあって……だから」
ちらり、と上目遣いに。
「もうすこし、いっしょに」
そこで途切れて、下を向く。しかし握り合った手には力が入る。
――ふぁぁぁ
かわいいとは、こういうことを言うのだろうと、心の底から強く思う。
ルネッタは深呼吸をした。あくまで静かに、落ち着いた様子で声をかけないと、きっとこの子は動揺してしまうだろうから。
「うん、そうだね。それじゃあ――」
きょろきょろとあたりを見渡した。丁度良い店でもあれば、と探してみると通りの向こう側に『それっぽい』ものを発見できた。
手を引いて、人込みを縫うように向かう。
壁は石。屋根は木。店先は大きく開いており、テーブルの幾つかは外に並べられていた。
ティニアに声をかける。
「お茶を一杯と、何かお菓子でも。いいかな?」
少女は頷いて、同時に手に力が篭る。喜んでくれている、のだろう。
隅のテーブルにつくと、すぐに店員らしき男エルフがやってきた。
「ご注文は?」
ガラムほどでは無いが、立派な体格だ。盛り上がる筋肉を包んだエプロンがどこか笑いを誘ってしまう。顔つきも相応に怖い。
「あ、その……これと、これを二人分」
「はいよ」
文字を見る限りは単純な焼き菓子と、甘いお茶だ。それなりに高いところを見ると、量が多いのか質が良いのか、来てのお楽しみかなと思う。
幸い、財布にはかなりの余裕がある。かわいい子におやつをおごってあげるというのも、なかなかに楽しいものだと思う。
背筋をピンと伸ばしたまま向かいに腰かけているティニアへと、
「すぐ来ると思うよ」
出来る限り優しく言った。緊張しなくてもいいよ、と含んだつもりだ。
――でも、仕方ないかな
視線が刺さる。店に居るほかの客はもちろんのこと、通りを行きかうエルフの目は必ずこちらに一度向く。せめて店内に入れば良かったか。失敗したなとルネッタは思う。
「お、人間だ」
びくり、と。ティニアと二人、驚いたように声のしたほうを見た。
男女一人ずつ。歳のころはまだまだ若いか。店の客という感じではなく、単に通り過ぎるだけの人々、だったのだろうけれど。
なぜか彼らはニヤニヤ笑いながらテーブルにまで近づくと、軽く腰をまげ肘をついた。
「これが噂のねぇ……んでこっちのガキは……信じらんない、無泉じゃん。そんな二人が真昼間から甘いもの食って、良いご身分だねぇ?」
からかうように。
殺意は無い。敵意も無い。ただただ、薄い悪意がそこにある。
はっきり言って、大したことは無い。こんなものより遥かに熱い、溶けた鉛のごときものを、今までさんざん受けてきたのだから。
それでも気分は悪くなるし、何よりティニアは別だ。この子だけは守らなければと、ルネッタはおなかに力を入れた。
もっとも、どうすれば波風立たせずに追い払えるのか。
悩み始めたルネッタの頭が答えを引っ張り出す、そんな時間をもらうまでもなく、
「おい」
声はさっきの店員のもの。男女二人がめんどくさそうにそちらを見た、次の瞬間。
店員の放った鋭い拳が、女の顔に突き刺さっていた。
鼻血を拭きながら通りを転がる。散々見てきたことだが、女だろうと一切の容赦は無い。店員は残った男にも蹴りを放つと、さも面倒そうに言った。
「相手見て喧嘩売れ。わかったら消えろ」
一組の男女は――結局素直に走り出し、通りの向こうへと消えていった。力の差は、たぶん一撃で理解したのだろうし。ちなみに他の客は素知らぬ顔で食事中だ。慣れたもの、なのだろう。
しかし、と思う。あるいは、なぜ、と思う。それが顔に出ていたのだろうか、店員の男は運んできた菓子と茶をテーブルへと置きながら、
「あんた、ルネッタだろ。そしてそっちの子供はティニアだ」
「そ……え、と、はい。でも、なんで……えっと」
「おたくらに何かあったら、俺らはエリスの姉さんに殺されるのさ。そいつを理解したらもう少し周りに気を付けてくれ。できる限りな」
「あ……はい。その、おれ、ら……?」
店員は不満を隠そうともせず、口を尖らせた。
「似たような立場の奴が、この辺にはそこそこ居るんだよ。昔世話になったとか、半殺しにされたとか、そーいうのな」
「昔、ですか」
置かれた菓子の匂い。お茶の匂い。ティニアの様子。それらを一瞬忘れるほどに、気になってしまうことがあった。
自分は、エリスの昔をほとんど知らない。
「気になるのか?」
頷いてしまった。
店員は小さなため息をついて、ぎろり、となぜかこちらをにらんだ。さっきの男女よりもよっぽど怖い。
そして言う。低い声で。
「ならちょっと聞いていきな。俺らがあのクソおん……偉大な剣闘士様にどんな目にあわされてるのか。聞いて同情をくれ。ついでにもう少し優しくするようにあんたからも言っておいてくれ。わかったか?」
ガドル。店員は語り始める前にそう名乗った。