日々 下
そんなこんなで、三日経った。
食事はルナリアの私室で取った。空いた時間は全て翻訳に費やしている。動くのは、せいぜいがエリスの部屋へと向かう時くらいで、それもフードはしっかりと被ってのことだ。
一度、その途中の廊下で盛大にこけたこともあった。フードも脱げてしまった。背後に気配を感じたので、震えながらも振り返ってみたが、誰も居なかった。特に騒ぎになっている様子も無かったので、二人には報告していない。言ったほうが良いのかもしれないが、機を逃した感じもする。結局内緒にすることに決めた。
二人とも、明るいうちは部屋にほとんど帰って来ない。エリスは定期的に食事を運びに来てはくれるものの、よほど金策に忙しいのか、ルナリアの顔を見れるのは睡眠の直前くらいだった。
閉じこもりきりなので、多少の息苦しさはある。あまり会えない寂しさもある。
だからこそ、日も高いうちから帰ってきたルナリアを見て、頬が緩むのも仕方がないと思う。
「この辺りの記述は…ん……古代の有名な戦闘を書いっ……書いた、ものですね。扱っている時期は協定前のものですから、エルフとの交流もあった……ひっ……はず、ですよ」
「ふうん。たとえばどんな?」
「たっ……たとえばこれですね。トラシメヌ……あっ……」
ペンが手からこぼれ落ちた。
「あの、ルナリア、さま」
「ん~?」
「どうして、わたしが何か言うたびに顎を撫でるんでしょうか」
「かわいい反応するかなーと思って」
「そんなこと……んぅっ……」
「ほら」
――ほら、と申されましても。
くすぐったいやら恥ずかしいやらで、声を出すのも一苦労だった。加えてこの体勢だ。
現在ルネッタは、ルナリアの膝に乗せられている。ちょうど背中に、彼女の胸が押しつけられる形だった。服越しでも柔らかく、伝わる鼓動はこちらの鼓動を早くする。ずりずりと背中を擦る彼女の頬は、甘い痺れを奔らせた。
「それと、この体勢はいつまで……」
「それは」
お腹に回された彼女の両手に、ほんの僅か力が籠もる。
「三日にわたる愛想笑いに加え、下げ続けた頭の所為でささくれ立った私の心が、満月くらい丸く穏やかに戻るまでだな」
そう言うと、大きな大きなため息をついた。
「あのクソ爺ども、肝心の金の話になるとみーんなそっぽを向くんだからな。友好的な振りしてる奴も、あからさまに敵意むき出しの奴も、そんな瞬間だけは全員仲良く右にならえするんだ。大したものだよほんと」
背中の感触が変わった。おでこ、だろうか。
「戦争は金だよルネッタ。金、金、かねかねかね。あーやだやだ」
もう一度、盛大なため息をつく。まるで測ったかのように、同時に扉が開かれた。
「お茶ですよールネッタ……て、何してるんですか、うらやましい」
エリスは早足でこちらまで来ると、やや乱暴にトレーを置いた。
「よいしょっと」
両手をルネッタの脇に差し込むと、そのまま持ち上げる。抵抗はしていない。出来るような空気でも無い。
すとん、と床に下ろすと、
「ふぁ」
きゅっと軽く抱きしめられ、続いて頭を撫でられた。心地よさに惚けている間に、エリスは次なる行動に出ている。
「よいしょっと」
短いスカートを気にする様子も無く、彼女はがばっと大股を開くと、ルナリアの膝に堂々と跨がった。
しかも向かい合わせだ。胸など押しつけ合っているようにさえ見える。
「では、いただきます」
両手をルナリアの首へと回すと、ゆっくりと両者の顔は近づいて――
「ごふっ」
エリスの両脇腹に、ルナリアの手刀がめり込んでいた。
「どかんかい」
「いやです」
冷たい声を、目に涙さえ浮かべながらも拒否する。深々と刺さっていたので、結構痛いはずなのだけど。
火花さえ散らしてにらみ合う両者だったが――折れたのは、ルナリアだった。
また、ため息だった。今日は本当に多い。相当に金策が堪えているのだろう。
彼女はエリスの腰へと手を回すと、その胸元に、顔を、埋めた。
「エリスぅ」
「ふ、ふぉおおおおお!?」
今のエリスの顔を、どう表現したものだろうか。至福と驚愕と恍惚が手に手を取り合って桃色の花畑を転げ回っている、あたりが適当だろうか。
あまり、ひとさまにお見せできる状態では無かった。見てるこちらが恥ずかしいほどだ。
胸に顔をおしつけたまま、くぐもった声で、ぽつりとルナリアが言った。
「やっぱりあいつに頭下げてくる」
「んなっ!」
表情が一瞬で戻った。エリスはルナリアの肩を掴むと、勢いよく引き起こす。
「何も団長本人が向かわずとも良いではありませんか」
「あいつは私自身が行かないとパン一個分の金すら出さないじゃないか」
「……そのうち、奴の私兵にされてしまいますよ」
「だから、そうならないように綱渡りしてるんだろー」
「では、私も一緒に行きます」
「お前が来ると喧嘩するからダメ。そもそも誰かお供連れてくだけであいつ渋るだろ。それにルネッタはどうする」
「ぐぬぬ……」
おずおずと、ルネッタは手を挙げた。
「あの、お聞きしたいことが……」
「うん? あーうん、分かる分かるよ。一個一個説明するから」
ぽよんぽよんとエリスの胸で顔を弾ませながら、ルナリアは続けた。
「まずはうちの、第七騎士団の金回りの話から。前にも言った通り、設立からして特殊だったから、素直に予算が下りてこないんだ。保証されてるのは団員それぞれの最低限の給料と、飢え死にはしないって程度の食料だけ。逆に言うとそこだけはどんなに規模が増えても出させるようにした、てことなんだが……千五百人を行ったり来たりするだけなんだ。上手く行かないものだよほんと」
エリスの胸を枕にしたまま、くるりと顔がこちらを向いた。エリスはやはり恍惚としている。
「で、鉱山だ。あそこで取れる石は極光石と言ってね、魔力に応じて硬度を変化させる……まぁ最高級の武具用鉱石なんだよ。それを売り払って作った金の一部を税として取り立て、さらにその税で極光石を格安で売ってもらう――と、少しずるい方法で回していたんだな。ところがあの襲撃だ。取れる石もその分減ったし、税は減らしたしで散々だ」
感極まったのか、エリスの手がルナリアの頭を抱えるように動いた。珍しく、彼女は抵抗しない。説明中だからか。
「ちょうど鎧を三百ほど注文する予定だったんだ。完成はどちらにしても先の話だし、よく計算してみると襲撃以前にそもそも金が足りなかったんだが……それとこれとは別の話だ」
「ああ……だんちょういいにおいですねぇ」
「……と、とにかく。聞けば分かるだろうが、資金不足は深刻の一言だ。武器とメシさえあれば団が維持出来るわけじゃない。細かな雑費なんか数え切れないほどになる。そこで、出資者の登場だ」
エリスは幸せそうに目を細め、ルナリアの頭部に自分の頬をすりすりとこすりつけている。だんだんとルナリアの顔が赤く染まってきた。
「古老の説明は覚えているな? 数は十で、結束は堅いと。だが何事にも例外はあるもので、我々の出資者はその古老の一人なんだ。資産の量は国で四位。活動範囲に至っては間違い無く一位だな。西方にさえ手を伸ばしているほどだ。逆に手勢は古老内でも圧倒的に少なく、そこらの小領主程度しかいない。だからこそ手広くやるのが許されているとも言えるし、金とコネでいざとなれば幾らでも集められる、とも言う。何にしても、この出資者のおかげで第七騎士団は存続出来ている、といっても過言では無い」
「嫌な女ですけどね……」
怨念すら感じるエリスの声だった。
「何でか知らんが、私を気に入っていてな。直接顔を出せば、かなりの大金でもぽーんと出してくれる。無論いろいろ注文はつけられるが。逆に書状一枚では銅貨一枚も寄越さないと来てる。現在極めて金欠なので、まぁ行くしかないと、そういうわけだな」
「ぽんぽん金出すのなんて、いざというときに使う気だからに決まってるではありませんか。あれは悪巧みするために生きてる顔ですよ。いやらしい……まぁそんなことより、だんちょう、耳をはみはみしていいですか。いいですよね。しますよ。しちゃいますから――」
凄まじい頭突きが、エリスの額に突き刺さった。
「いやらしいのはおまえだばかたれっ!」
真っ赤な顔をして、ルナリアは叫んだ。
衝撃で膝から転げ落ちたエリスは、額をさすりながら立ち上がる。痛そうだが、同時にどこか幸せそうでもあった。
「ひとの胸を枕にしておいてそれですか。なんと理不尽なのでしょう」
「ぬ……ぐ……」
痛いところを突かれたのか、ルナリアが呻いた。
悪態をついてはいるものの、エリスの顔は喜一色だった。
顔の赤みをたっぷりと残したまま、ルナリアは椅子から立ち上がる。
「とにかく、奴のところに行ってくる。三、四日で帰れると思う。留守をたのむぞ、エリス」
頷くエリスの横で、もう一度、ルネッタは手を挙げた。
「その、気になったことがまだありまして」
「なんだ?」
「ええ、と――」
あえて書かないことに意味があるのかもしれない。気楽に話せる内容では無いのかもしれない。それでも、ずっと疑問だったことがある。遠出してしまう前に聞いておきたい。
「この国の地図なのですが……なぜ、半分しか無いのでしょうか」
ルナリアが目を見開いた。明らかに空気が堅くなったが、怖いというほどでは無かった。
「なぜ、そう思う?」
「わたしの知る、人間の地図にある空白と、以前に見せて頂いたエルフの地図の形が合わないのです。間違っていなければ……ちょうど、右半分が書かれていないのではありませんか?」
何かを考えるように、ルナリアは顎に手を当てた。一文字に結ばれていた口元は、だんだんと笑みの形に変わっていく。
「良く見ているな。賢い娘は好きだぞ」
ルナリアが傍に立つ。首根まで伸びたルネッタの黒髪を、優しく右手ですいた。
「なぁルネッタ。疑問に思わなかったか?」
「何を、でしょうか」
「私が、ひいては第七騎士団が敵だらけにも関わらず存続していられることが、さ。民衆の支持がどれだけあろうが、正面切って国の指導者連中につばを吐いているようなものなんだ。まどろっこしい暗殺に限らず、あらゆる手で潰しにかかるものだと、そうは思わないか?」
「それは……思います」
「右半分に、その答えがある。加えて言うならば、古老という立場にもかかわらず、我々を支持出来る大義名分もそこにある」
ルネッタの頬を、優しく撫でる。
「なぁに、すぐ分かるよ。刺激的だぞ。楽しいかは……うん、まぁ、内緒だ」
そう言って、彼女は踵を返した。ひらひらと、右手を振る。
「じゃあいってくるさ。土産はてきとーに選んでくる」
「あ、あのっ」
引き留めた。引き留めてしまった。ルナリアは首だけで振り返る。顔は若干怪訝そうだ。
「まだなにか?」
「あの、その……申し訳ありません。何でも無いです」
彼女は首を傾げ、戻ってきた。
「そういうの良くないなぁ。気になるだろう」
「でも、ですね……」
「良いからほら、言ってみろ。疑問はちゃんと吐き出し合うほうが仲良くなれるぞ」
真っ直ぐに見つめられる。目が泳いでしまう。
勇気とも似た、なけなしの何かを振り絞って、ルネッタは言った。
「四日も会えないと思うと……その、寂しいな、て……それだけ、です」
ぽかんと、ルナリアが口を開けた。しきりに目を瞬かせている。
「なぁ、この娘どう思うよエリス」
「なんと言いますか……居るところには居るものですね。種族差、ではなさそうですし」
「うちほとんど猿山だものな。どいつもこいつも蛮一直線だし」
「さながら団長はボス猿ですか?」
「そりゃお前だ」
はっと、何かに気づいたようにエリスの表情が変わった。拳を口に当て、お得意の涙が目に浮かぶ。
「団長と四日も会えないなんて、これ以上の悲劇はありません。私の胸が張り裂ける前に、どうか帰ってきてください」
――おお。
客観的に見ると自分もこんな感じだったのだろうか。改めて恥ずかしくなってきた。
ルナリアは、しかし盛大にエリスを無視すると、ルネッタの目の前に立った。
ふわり、と抱き寄せられる。
柔らかく笑っていた。
「出来る限り急いで帰ってくるよ。私だってここが良いしな。だが、お前のこともある」
「わたしの、こと?」
「まともに出歩けないのは、やっぱり辛いだろう? なんとかしたいな、とね。理想はお前に市民権取らせたいんだが……ま、いろいろ考える。奴もその辺は柔軟だろうからな。手を貸してもらえるかもしれない」
市民権。出歩く。それは、ルネッタの存在をこの国に認めさせる、ということになるのだろうか。
明らかに難しそうだと思う。
両手が頬に添えられる。滑らかで、柔らかく。
――信じていれば、良いか。
頷いたルネッタの頭をわしわしと撫でて、ルナリアは背を向ける。
不満げな顔をしていたエリスが、口を開いた。
「一応言っておきますけど、さっきの言葉は本当ですよ?」
ぴたり、とルナリアは足を止めると、
「知ってるよ」
「あ、ふふ……」
ぽん、とエリスの頭へと手を置いた。視線を絡ませ、微笑み合う。
「じゃ、今度こそ、行ってくる」
出て行く背中を見送る。
分かったつもりだが、それでも寂しさは消えなかった。
さらに、三日経った。
やることは変わらない。ペンで紙を黒く染めるだけだ。
ルナリアが居ないので寝室が空いたわけだが、結局一人では寝なかった。むしろエリスの部屋でしか寝ていないともいう。
誘われたからでもあり、そうしたかったからでもある。抱き枕のようにされるのにも慣れてきた。
ルナリア不在で仕事が増えるのか、エリスの表情には疲労が積み重なって見えた。何か出来ないか考えるが、見つからない。せめて一緒に寝ることで誤魔化しが効くのであれば――というのは、自分の欲を人の所為にしてるだけか。
ペンを置いた。ため息も、出た。
「やっぱり会いたい、な」
「まったくですね」
声に肩が動いたものの、悲鳴は我慢出来た。人間の適応力は大したものであるらしい。
振り返る。エリスの顔はげっそりとこけていた。
「会えないのも死に至るほど辛いのですが、何より書類仕事が倍に増えるのがですね……これなら丸三日殴り合っているほうが楽ですよ」
さすがにそれはどうだろうかと思う。
まぁそんなことよりも、とエリスは表情を輝かせた。
「食事に行きましょう、ルネッタ」
「……え?」
食堂に、という感じでは無い。
「ありがたいお話ですけど……まずいのでは、無いでしょうか」
「ふふふ、そこでこれを」
ぬ、と彼女は両手をポケットに突っ込むと、肌色の何かを取り出した。
耳、だった。もちろんエルフの物だ。
「ツテを使って手に入れました。作り物ですよ?」
おずおずと、受け取る。触り心地はまるで本物だが、妙に伸びが良い。
耳に被せれば良いのか。
「あなたも気分転換くらいはしたいのでは?」
――それは、まぁ。
魅力的な提案なのは間違い無い。悩みはしたが、誘惑には勝てなかった。
耳につけて、外套を羽織る。念のためにフードはきちんと被ったままだ。エリスの後に続いて兵舎を出る。ちくちくと刺さる視線は、やはりどこか不安になる。
ちょうどこの本拠に来た道を、歩いて逆に辿っていく。人影はまばらだ。空は曇りで、やや暗い。もうすぐ夜になるはずだった。道の脇には一定の距離ごとに小さな明かりが点っている。
兵士の地域、民の地域。その境目とでも言うべき十字路に、目的の店はあった。
エリスと共に入った。
中は薄暗い。木造だったが、美しい艶を放っていた。とても上品な雰囲気だと思う。
十個ほどのテーブルに、それぞれ客が居た。繁盛しているらしい。エリスがカウンターへと向かうので、後を追う。
並んで腰掛けると、店主らしき人が声を掛けてきた。
「お久しぶりですな、副長さん」
壮年の男性だった。顔の皺が深いが、表情は和やかだ。
「本当はもっと早く来たかったのですけどね。忙しくて」
出された水を一口飲んで、エリスはそう告げた。無料なのだろうか。
ちらり、とエリスは横目でルネッタを見る。
「私の行きつけの店、とでも言えば良いのですかね。暇な時であれば昼夜共にここで取ることもあります。近いですし、味も良い。まぁうちのものはほとんど来ませんが」
「どうしてですか?」
「食事時にまで、私の顔なんか見たく無いでしょう」
それを聞いて、店主が含み笑いを漏らした。鬼、のあだ名は伊達では無いということなのだと思う。実際怖がられてる様は見れたわけだし。
店主が、顎でルネッタを指した。
「そちらのお嬢さんは?」
「新入りです。期待の、と頭につけたいほどです」
「ほう。これはまた、わしは副長さんがどこからか攫ってきたのかと思いましたが」
「……店ごと真っ平らにしてさしあげましょうか?」
今度は、豪快に笑った。
メニューは分からないので、エリスに任せた。促されてフードを脱いだが、特に気にされる様子も無い。付け耳はきちんと機能しているらしい。
出された分厚い肉を切り、口に運ぶ。そんな簡単なことで、鬱々とした心も晴れていくようだ。我ながら単純すぎる気がしなくもない。
となりではエリスがもりもりとピラフのような料理をかきこんでいた。こけていた頬もすっかりと元通りだ。みんな似たようなものか。
一通り食べ終えると、美しい細工の施されたグラスが置かれた。中には赤い液体が注がれている。お酒、だと思う。
「飲めますか?」
「た、たしょう」
一杯くらいならば、大丈夫なはずだ。
エリスはニコニコと笑って、
「酔いつぶれたら介抱してあげますからね」
なぜか笑顔に邪な物を感じる。同じベッドで寝ているので、今更という話ではあるのだけど。
まずは舐めるか、強気に含むか。悩んでいると、勢いよく店の扉が開かれた。見れば男が三人。女が一人。男のうち、一人は明らかに服が装飾過多だった。残る三人は帯剣しているわけではないが、妙に隙が無い。貴族と護衛、に見える。
「またか」
小声で、店主が漏らした。
集団は周りを威嚇するような空気を放ちながら、隅のテーブルに陣取った。給仕を乱暴に呼びつける。声音には隠す気さえ無い傲慢さが充ち満ちていた。
「あれは」
「中央のお貴族さま、らしいですがね。わしも細かくは知りません。ここ数日、毎晩来るのですよ。気に入って頂けたのを喜ぶべきか、あるいは……難しいところですな」
ルネッタの疑問に、店主が答える。
――嫌な感じだな。
貴族が嫌なのでは無かった。周りを圧するその態度が嫌なのだ。利害の絡む場ならともかく、こんな食事処で攻撃的に振る舞ってどんな意味があるのかと思う。
給仕は明らかに怯えていたが、仕事なので逃げるわけにもいかない。からかうような男の手をどうにか払い、蔑むような女の声にも耐えている。
眉をしかめて見ていると、ふと、エリスと目があった。
彼女はルネッタの瞳に何を見たのか、どこか済まなそうに目を伏せる。
「私とて、不愉快ではありますけどね。中央の貴族ともなれば気軽に殴り飛ばすわけにも行かないのですよ」
なにも、退治してくれなんて言うつもりは無かった。ルネッタに到底出来ることでは無いのだから、ひとに強要することも、ましてや失望することなんてあるわけもない。
「え、と」
謝りたい、と思ったりもしたが、言葉が見つからない。気まずくおもいながら、酒を舐める。熱い。とても全部飲めない気がする。
短い悲鳴が聞こえた。どうやら給仕が水をかけられたらしい。大量にこぼれたらしく、床も濡れている。仕事なので、当然給仕がそれを拭く。自分が水をかけられたというのに。かけた集団は、にやにやと気味の悪い笑みを顔にこびりつけているというのに。
凄まじい、不快感だった。エリスも露骨に頬を震わせているものの、我慢するように酒を一口飲んだ。
貴族らしき男が、言った。
「レシュグランテのものであるぞ。貴様、その目はどういうつもりか」
ルネッタがその言葉を聞いた瞬間、エリスが手にあるグラスを握り砕いていた。びくりと肩を竦めて、彼女の顔をまじまじと見る。
無表情、に見えたが――違う。瞳の奥に、何かが燃えさかっているのが分かる。
これは、怒り、だ。
ルネッタを包む不快感は消えていた。代わりにどうしようも無い違和感と恐怖が包んでいる。
さっきの言葉はエリスに向けられたものでは無い。あくまで給仕に投げたものであるはずだ。気に入らないのは痛いほど分かるが、これほど強い感情を生むものだろうか。
――だって。
エリスの目に映る怒りは、憤怒なんてとっくに通り越して――もはや殺意になっている。
彼女は席を立った。あまりの表情だからか、店主も一言も掛けられない。
砕いたグラスを投げ捨てる。手から赤い酒が滴っているものの、傷があるようには見えない。
集団の前に、立った。
怪訝そうに顔を歪めつつ、貴族が言う。
「なんだ貴様。珍妙な服装で」
「レスグラントだかなんだか知りませんが、礼儀も知らぬ愚物を見るのは不愉快の極みです。出て行ってはもらえませんか」
あからさまな挑発に、貴族達は色めきだった。殺意すら拭くんだ視線で、目の前に佇む女一人を睨みつけている。
「よくもほざく。この僕が誰だか――」
「知らぬと言っています。耳も使えぬのですか、この愚物は」
護衛の男が立ち上がった。前に見たガラムほどでは無いけれど、それでもかなりの巨漢だ。
男はエリスをじっくりと睨め付けると、右腕を振りかぶり、
頬を、打った。
高い音。震える空気。訪れる沈黙。
違和感があるとするならば。
はたかれたはずのエリスの顔が、微動だにしていないことか。
かぱっと口が開く。真っ赤に裂けた微笑みと共に、エリスが、告げた。
「先に、手を、出しました、ね?」
素早く右手が伸びる。男の首をわしづかみにすると、そのまま締め上げた。凄まじい力だった。男の顔色はみるみるうちに黒くなっていく。悲鳴を漏らす隙間すら無い。食い込んだ指が肉に達したのか、赤い液体が喉からぼたぼたと垂れてきた。
手を緩めた。崩れ落ちた男は、首を真っ赤に染めたまま、不規則に呼吸している。顔色、傷、表情。どれをとっても生きているのが不思議なくらいだった。
あっけにとられていた。店内の誰も、貴族の集団も、もちろんルネッタも。
次に動いたのは、女だった。護衛だからか、状況を理解していないのか、躊躇なくエリスに飛びかかる。
振るわれた右腕をあっさりと掴むと、エリスは女を引き寄せた。泳ぐ体。開いた腹。そのむき出しの弱点に、エリスは左手をたたき込んだ。
飛んでいた。冗談のように、天井近くまで吹き飛ばされて、真っ逆さまに床に落ちる。焦点の合わぬ目をしたまま、女がごぼりと大量の血を吐いた。泡立っている。内臓がずたずたに損傷しているのが容易に想像できた。
――やりすぎ、じゃ。
まさか皆殺しにするつもりなのか。
エルフが頑丈だと言っても、限度がある。明らかにエリスがまき散らしているのは殺気なのだ。与える傷も、殺すつもりで殴っているとしか思えない。
――止めないと。
どうやって。だけど何も殺すことは無い。それほどの悪党だとは思えない。でもあの顔はなんだ。怒っていた。信じられないほどに強い怒りだった。理由があるのか。あれば止めなくても良いのか。
ルネッタは席を立った。
まだどうするかは決めていない。足も手も背筋も震えている。
お供を天井まで浮かされて、ようやく力の差が分かったのか、貴族の男はおとなしかった。恐怖に固まっているだけなのかもしれない。
今なら。どうするというのか。止めても良いのか。怒りがこっちにこないのか。まさかエリスが自分を勢いで殴るわけが無い。でもあの顔は。あの怒りは。
どん、と、誰かが背中にぶつかってきた。痛いわけでも無い。なんだろうと思う。
確かめようと振り返る、その瞬間。誰かの手が、耳に触れた。
むしられた。
叫ばれる。
「こいつ、人間だぞ」