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Elvish  作者: ざっか
第一章
1/117

境界を越えて 上

 吹雪だった。

 数歩先さえまともに見えないほどの激しさで、昼のはずなのに辺りは暗い。

 外套の隙間から入り込む冷気はたやすく命を削っていく。手袋に包まれた指先も、ブーツで保護したつま先も、とうの昔に感覚は消えていた。

 

 生命の欠片さえ見つけられない、白い地獄のような雪山を、ルネッタは一人歩いている。


「ぁ……」


 呻きともため息ともつかない音が、口から漏れた。

 大きく息を吐けば体温が失われる。体温が減れば体力が減る。死がそれだけ近づいてくる。

 分かっていても、吐き出さずにはいられなかった。

 ――ここまで酷いなんて。

 

 地図で見てなお巨大なその山は国境線も兼ねており、無断で渡るようなことがあれば死罪であると言われていた。

 無意味だ、とルネッタは思う。氷漬けで死んだ人間を断頭台にかけてどんな意味があるのか。

 

 僅かに傾いた斜面を、一歩一歩と登っていく。

 岩とも氷ともつかない塊がそこら中に溢れていて、通れる場所は数少ない。

 事前に調べ、ふもとの狩人からも話を聞き、かろうじてまともであると言われた道をルネッタは選んだ。

 だというのに、この有様だ。

 

 天候が何よりも辛いのは間違い無いのだが、聞けば一年のうち、吹雪の止まない日は無いのだという。

 自殺のようなものだと狩人に忠告された。なにせ獣すら住まないのだ。

 それでも、選択肢など最初から無かった。

 背の荷が重い。肩にかけた紐が食いこむ。その痛みすら、ぼやけて鈍くなりつつある。

 

 斜面が終わった。

 白くなりつつあった思考が、ほんの少しだけ覚醒した。

 半分だ。何はともあれ、半分は届いた。

 震える手で背の荷を確かめる。大丈夫、落としていない。

 前髪にこびりついた雪を払いのけ、フードを目深に被りなおす。

 吹雪は相も変わらず殺人的で先はまるで見えない。それでも、後は下るだけだ。

 足を踏み出した。


「あ、れ」


 視界が白一色になった。

 顔には冷たい何かが押しつけられているが、不思議と体は楽だ。荷の重さも半分程度に感じる。

 雪の上に倒れたのだ、と気づくのに数秒かかった。

 手も足も、ぴくりとも動かせない。


「まず、い……」


 まずい、と心の中でもう一度言った。

 このままでは死ぬ。

 それは分かる。けど体が動かない。

 氷漬けの死体が出来る。立って歩かねばここで朽ちる。

 立って歩けば――果たして、生きられるのだろうか。この極寒を。今と同じだけの距離を歩いて。歩いた先なら生きられる。本当に?

 寒い。

 視界も意識も白く染まる。

 寒い。それも気のせいか。思ったより寒くない。目の前が白い。雪。綺麗。


「……っ……」


 何か聞こえる。音がする。

 首だけが、少しだけ動く。

 暗い空。彩る吹雪。遙かな雪山。その向こうに。

 人影が、見えた気がした。


 


 暖かい。

 心地よい浮遊感が全身を隅々まで包んでおり、それがたまらなく気持ち良い。死ねば楽園は本当だったのか。あるいは悪魔が快楽を与えているのか。

 ――下らない思考が出来るってことは、わたしは助かったのかな

 ルネッタは薄く目を開いた。意識はどこか夢見心地で、現実感は酷く薄い。顔を動かすのもおっくうなので、下を向いたまま瞬きを二回。

 ゆらりゆれる水面。立ちこめる湯気に大理石と思しき乳白色の床と壁。風呂場であることは間違い無かった。

 

 水中に見える小ぶりな胸は言うまでもなく自分の物で、その先には細い太股が伸びていた。きちんと体はある。死んだわけではなさそうだ。

 重い眠気をどうにかはね除けて、ルネッタは顔をあげた。

 ルネッタの正面、手を伸ばせば届く距離に、女の顔が浮いている。

 目があった。


「ひゃっ」


 情けない悲鳴が口から漏れた。逃げるように後ずさった背中に、浴槽の壁がぶつかる。鈍い痛み。それがルネッタの意識をはっきりとさせた。

 冷静になってみれば、女にはきちんと首がある。揺れる水中には体も見える。どうやら幽霊では無いらしい。

 

 ――それにしても。

 雪山で倒れて、気づけば風呂の中だ。聞くべきことは山ほどある。にもかかわらず、ルネッタは一声も出せなかった。

 美しい。そんな言葉で表すのがもったいないとさえ思える。

 年の頃は二十歳くらいだろうか。肌は初雪のように真っ白で、長く伸びた髪は純金が霞むほどの輝きを放っている。こちらを見つめる瞳は極上のエメラルドそのもので、整った鼻梁は彫刻のようだ。ほっそりとした顎。うっすらと赤みを帯びた唇。細い眉から小さな額に至るまで、顔の全てが芸術品だった。なによりも――


「目が覚めたな」


 女が優しく微笑んだ。

 瞼の形も口元も、つくりは狼を思わせる鋭さがある。それを信じられないほど柔らかな表情が打ち消す様は、身震いするほど魅力的だった。

 お互い女だ。それなのに緊張が体の隅々までを支配し、胸が激しく高鳴るのをルネッタははっきりと感じていた。


「言葉は通じるかな? 私の、ことば。何を言っているか、わかりますか?」


 身振り手振りを交えて訴えてくる彼女の瞳は好奇心で満ちており、まるで年端もいかない少女のようだ。

 ルネッタは彼女の問いに、小さく頷いた。


「わか……ります」


 我ながら上ずった声だとルネッタは思った。

 答えを聞いた彼女は不思議そうにルネッタを見ていたが、やがて何かを考えるように目線をそらすと――本当に、本当に嬉しそうな笑みを浮かべた。

 彼女は勢いよく立ち上がった。水面が波打ち、飛沫が飛ぶ。

 華奢な体。細い腰。だというのに不釣り合いなほど大きな胸を盛大に揺らして、彼女は素早く右を向いた。


「聞いたか、聞こえたかエリス! 言葉が通じたぞ! やはり元をたどれば同じ場所に行き着くという話は本当だった!」


 彼女の動きに釣られるように、ルネッタは顔を右へ向けた。

 広い風呂場だった。浴槽だけで小さな部屋ほど。風呂全体ともなればちょっとした家くらいはある。貴族か、大商人か、あるいは王族の物なのか。どうであろうと平民が使える場所には見えない。

 

 浴槽のすぐ側、光を反射しそうなほど磨かれた床に、女が一人、背筋を伸ばして座っていた。

 彼女がエリスなのだろう。

 こちらを見つめる瞳も後ろで纏め上げた髪も、燃えさかる炎のように紅い。整った顔立ちにつり上がった眉。ネコというには勇ましすぎるが、虎というには細すぎる、そんな印象を放つ女だった。こちらも年の頃はおそらく二十歳前後。間違い無く美人ではあるが、美しいと感じる者よりも恐ろしいと感じる者のほうが多いのでは無いかとルネッタは思う。

 

 風呂場なので無論全裸なのだが、どういうわけか頭にはフリル付きのカチューシャが乗っている。侍女なのだろうか。だとすれば金髪の彼女は正真正銘の『お偉いさん』ということになる。主と似るのか、やはり胸は豊満で腰は細い。そして何よりも――

 大きく、それでいて鋭い瞳に映る感情が敵意に思えて、ルネッタは思わず顔を逸らした。


「ふーむ」


 目の前に、エメラルドが二つあった。

 吐息がかかるほどの距離だ。彼女の手が伸びる。ルネッタは固まったまま動けない。

 細く白い指が、さわさわとルネッタの髪を撫でた。


「髪は黒く、瞳は茶色か。面白いものだな」


 弾んだ声だった。一通りルネッタの髪を撫でると、彼女はすっと距離を離した。


「名前は?」


 優しい瞳。急かすでもなくルネッタの返事を待っている。


「ル……ルネッタです」


 響きが珍しかったのだろうか。しなやかな指先で自分の金髪を弄びながら、彼女はルネッタと二回繰り返した。

 満足そうに微笑む。どうやら納得がいったらしい。

 さて、と彼女は呟いてこちらを見た。

 ルネッタは身を乗り出していた。聞きたいこと、聞かなければならないことは山ほどあった。


「その、わたしは雪山で倒れて、ここはお風呂で、えっと」

「うん」


 分かってる、とでも言わんばかりに彼女は手のひらをルネッタの前にかざした。


「エメス山の頂上、国境付近で行き倒れているおまえを見つけた。何かの縁だと拾ってみれば全身が凍り付きそうなほど冷えていてね。特に酷かった手足を治療し、仕上げとして湯に浮かべた、というわけだ」


 彼女は軽く片眼を閉じた。


「エリスに感謝するんだぞ。本来であれば四肢を切り落としているところだ」


 凍傷がそれほど酷かったということらしい。

 治療したと言った。どうやってだろう。ざっくり聞いただけで間違い無く致命傷だと分かるほどだ。こうして生きていたことさえ奇跡に思えてきた。

 

 ――まぁそれはともかく。

 礼はきちんとするものだと思う。ちらりと視線を送ってみれば、エリスと呼ばれた彼女は変わらず美しい姿勢で座ったままだ。

 目が合う。強い光を感じる。

 ――怖い。

 上手い言葉が思いつかず、ルネッタはとりあえず頭を下げた。こんな程度で良いとは思わない。きちんと礼はしたい。あの瞳に耐えられるようにならないと。


「歳は?」


 金髪の女の声。表情はとても楽しそうだ。


「十九になります」

「へぇ、育ちかたも似ているのか。それにしても小柄だな。いや、上背は私と同じくらいか? 手首が細いからそう感じるのか。肌も白い。顔もかわいいじゃないか。根拠無き噂ほど下らんものも無いなぁ」


 ぺたぺたと、綺麗な手がルネッタの体に触れている。

 二の腕をさすり、頬を撫でて、手首を掴んで確かめる。

 遠慮はまるで感じられない。失礼にさえ思える積極性だったが、ルネッタは抵抗出来なかった。触られるたびに背筋に小さな衝撃が走る。それを表情に出さないように耐える。途中から呼吸すら止めていた。

 

 手が離れる。ルネッタは大きく息を吐いた。

 ああ、と何かに気づいたように、金髪の彼女は声を上げた。


「きちんと名乗ってすら居なかったな。いや悪いね。何しろ初めての拾いものだったので、どうしても冷静でいられなくて」


 彼女は片手を腰に当てて、胸を張った。

 私は、と言いかけたところで、何かを叩く音が聞こえた。

 音の出所は、どうやら風呂場の入り口らしい。朱色に輝く扉の向こうから声らしきものも届いてきた。

 どうにも音が遠く、言葉の中身までは聞き取れない。

 

 エリスが立ち上がり、扉の方へと向かった。金髪の女は静かな目で見ているだけだ。

 エリスはすぐに戻ってきた。瞳の鋭さはそのままに、湯船の側まで近づくと、

 

「団長」


 と小さく呼びかけた。

 金髪の女が答えるように湯船から上がった。エリスは耳打ちするように顔を近づけると、ぼそぼそと口を動かした。ルネッタには聞こえない。

 ――団長?

 確かにそう呼んだ。意味するところはいくつか思いつく。どうやら『お偉いさん』という予想は正解のようだ。

 団長と呼ばれた彼女は、少しだけ眉を潜める。いささか緊張感を含んだ声で言葉を紡いだ。


「殺さず広場に追い込め。せっかくだから利用させてもらおう。ただし、民間人に被害が出そうであれば始末してよろしい」

「わかりました」


 エリスは扉へと向かう。外に居る何者かに、今の内容を伝えるのだろう。

 団長がこちらへ振り向いた。

 

「用事が出来た。お前はゆっくりと湯を堪能して良い……と言いたいところだがね。拾ったのは私なので、監督責任も私にある。かといって私が風呂でだらけていられる事態でも無い。つまりは」


 団長は、入り口を指さした。


「悪いが風呂は終わりだ。着ていた服と荷物はすぐ外にまとめてある。洗濯も乾燥も終わってる。さっさと着替えて私についてくるように」


 わかりましたと答える暇も無い。団長は振り返らず、あっという間に風呂場から出て行ってしまった。気づけばエリスの姿も見えない。

 ルネッタは慌てて湯船から上がった。死にかけたはずなのに体はきちんと動く。本当にどんな治療をしたのだろう。

 

 外は脱衣所で、風呂場に負けず劣らず上品な造りだ。

 が、じっくりと見回している時間も無い。

 無造作に置かれた布を掴み大急ぎで体を拭いて、部屋の隅に纏められていた服を広げた。こびりつくようだった汚れは見事に落とされ、心地よい匂いさえする。

 明るい茶という、本来の色を取り戻したズボンをはいて、輝くように白くなったシャツを着込む。その上から防寒用である灰色のセーターを被り、毛皮を裏打ちしてある焦げ茶の外套を羽織った。

 柔らかい。まるで違う服のようだ。

 

 心地よさに軽く微笑み、不要だろうと判断した手袋を背嚢へと詰め込もうとして――ルネッタの手が止まった。

 中身を見られただろうか。

 常識的に考えれば、確認しないわけが無い。刃物があれば取り上げるだろうし、麻薬の類でも同じだろう。そもそも拾われたことが奇跡のようなものだ。行き倒れなど懐を漁って、それで終わりが普通なのだから。

 

 背嚢へと手を突っ込み、のぞき込む。詰め込んだ品の奥に金貨の入った小袋が無事なのを確認すると、ルネッタは軽く息を吐いた。

 硬貨として使えるとは思わないが、それでも金だ。無意味では無いと信じたい。

 これが無事なのだから、他も一通り大丈夫だろう。

 

 単純に、彼女達が金に困るような身分とも思えない。拾ったこと自体が道楽であれば、荷物に興味など無くて当たり前か。

 ちらり、と。

 背嚢から突き出た、布にくるまれた『長い棒』へと視線を送った。

 これさえあれば、とルネッタは思う。運に大きく助けられた。それでも現状は悪くない。きっと。

 ――きっと、わたしの役目は果たせる。

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