美弥の託宣
最後に、どこかに潜んでいたらしい先生が再び現れ、保護者会はお開きとなった。
PTA役員決めと学校は関係ない、親が役員かということと、子どもの成績は、関係ありませんよ、と言いたいわけだ。
何をきれいごとを。
嫌われ役を押し付けられたんだから、少しは雪美を優遇してもらうくらい、当然のことじゃないか。
他のみんな、解放されたように小さなグループに集まり、おしゃべりに興じている。
小野寺さんに、フルネームと電話番号を紙に書かされた。
「雪美ちゃんのお母さんの名前を、書いてください」
小野寺さんはそう言った。
強制、と言ってもいいだろう。すごくむかついて、私は乱暴な字で、自分の名前を書いた。
小野寺さんは、私のネームプレートを見つめ、怪訝そうな顔をしたが、何も言わなかった。
そもそも電話番号などというものは、個人情報の最たるものであろう。保護法とかなんとかいっても、PTAにかなうものではない。
ああ、あ、引き受けちゃった。
ここへ来るまでは、そんなこと、考えてもいなかったのに。そもそも、役員決めのことさえ知らなかった。
呆然として教室を出る。下駄箱の前で、何か言いたげな風情の女性を目の端で垣間見えたが、話しかけてこなかったので、そのまま靴を履いて外へ出た。知らない人だし、心情的に、私は人さまに構っている場合ではなかったのだ。
夢遊病者のような足取りで家にたどり着くと、玄関ドアの前の人工芝の上に、赤い真新しいランドセルが投げ出してあった。美弥のだ。朝、さんざん言ったのに、馬鹿なあの子は、鍵を忘れて行ったのだ。
PTA役員ともなれば、子どもを置いて外へ出る機会も多くなろう。その間、一体誰が、2人の子ども達のめんどうをみてくれるというのか。
アメリカあたりでは、ローティーンの子どもを一人で家においておくだけで通報されるというではないか。
格安のナニーや学生の子守りアルバイトが普及していない日本では、主婦は、なかなか外へは出れないというのに。
特に専業主婦は。
といって、子どもが学校へ行っている時間に会合があったら、働いているお母さん方が、絶対に出席しないに違いない。放課後の保護者会の出席率ですら、あの惨状だ。当然、全部、専業主婦が背負い込むことになる。
みんな、同じように学校に子どもを預けているというのに、そんなの、不公平だ。
働いているお母さん方は、自分たちだけの家計の為に働いているのであろう。それならなぜ私が、クジに当たって、その人たちの分まで、「厄」を背負い込まなければならないのか。
でも、夜や休日の会合に出席することは、子どもたちを一人でみている現状では、無理というものだ。
どうしよう……。
鍵を開けていると、どこでその音を聞きつけたものか、美弥がとんで現れた。
「あら、美弥、お帰りなさい。鍵、忘れたでしょ」
私の声は、とがっていたに違いない。
ああ、子どもにやつあたり。
子どもの為のPTAのことで、肝心の子どもに、やつあたり。
「うん。ごめんなさい」
足を組み替え、組み換え、もじょもじょしている。
案の定、音を立てて鍵が開くやいなや、私の脇をすり抜け、家の中へ、トイレの中へと、走り込んでいった。
私は、ダイニングの椅子に崩れこんだ。
ものすごく、疲れている。さすがに、年齢を感じる。
真紀子に電話を掛けようか。
でも、止めた。
働く母親の彼女は、私の愚痴なぞ、へ、とも思わないに違いない。専業主婦はヒマなんでしょ、引き受けて当然、働くお母さん方の分まで頑張りなさい、などと言われたら、マジでキレてしまうだろう。
美弥がトイレから出てきた。
「美弥、PTAの役員になっちゃった……」
私は思わず口にしていた。
「役員って?」
何かを感じるのか、美弥は私に擦り寄ってくる。
「係、のようなもの、かな?」
「美弥も、係になったよ」
「そう。何の?」
「新聞係。やりたい人、って先生が言うから、美弥、はいっ、って、手を挙げたの」
「自分から進んで手を挙げたの?」
私は目を丸くした。こっちはなんとか逃れようと懸命だったというのに、いったい、誰に似たのだ?
「そうだよ。自分から手をあげて、美弥、新聞係になったの」
「……」
「大丈夫だよ」
何が大丈夫なのかわからないが、美弥は、私の背中を、とんとんと優しく叩いた。
「きっとうまくいくよ」
「でも、他のお母さんたち、協力してくれるかなあ。保護者会とか、あんまり来てくれないんだよ? どうやって、お願い事とか、すればいい?」
何もわからない子にこんな相談を、と思ったが、この時の私には、美弥が、まるで神さまのように思えたのだ。ちょうど、近所の神社の神さまに相談するような気易さで、私は美弥の前に愚痴を並べた。
美弥が優しい眉を顰めた。
「みんなで選んだ係なのに、協力してくれなかったら、ひどいよねぇ」
「もし、失敗したら、どうしよう」
「失敗したら、責任とって辞めますっ! って辞めちゃえばいいんだよ」
「責任とって辞めます……」
こんな小さな子に、目からウロコを落とされたような気がした。
そうだ。クジに当たっただけなのだ。何も自分から志願してなったわけではない。
しかし、子どもを学校に人質に取られている、という弱みがある。PTAにおける失敗が、どれほど学校の迷惑になるかわからないが、役員を辞めます、などと言えば、雪美ちゃんの保護者は困ったちゃん、くらいの噂が、先生方の耳に届くかもしれない。
そしたら、雪美の立場は、美弥の立場は、どうなる?
中学受験のことはよくわからないけど、中学受験を目ざしている雪美の内申書は?
「美弥や雪美に、迷惑がかからないかな?」
「へーきだよ。美弥は、へーき」
「でも、おねえちゃんは? 受験に不利な材料になっちゃうかも」
「そんなこと、あるわけないじゃん」
もちろん、、美弥のご託宣には、何の根拠もない。しかし、私は、気持ちが軽くなるのを感じた。
「そうだよね。いざとなったら、夜逃げしちゃえばいいんだもの。美弥、転校しよう」
「え? それはちょっと……」
困惑したように、いいよどんだ。
入学したばかりで、懸命に慣れようとしている学校だもの、酷な言い方だったかと、少し反省した。
たかがPTA。引っ越しは極端だが、所詮は、狭い学区のなかの評判ではないか。
「大丈夫だから」
美弥が、私のお腹のまわりに手を回し、ぎゅっと抱きしめた。
この子達が味方になってくれるなら、何があっても頑張れる。
複雑な、お母さん達の人間関係の中で、嫌われ役になることだって、できる気がする。
誰に嫌われたって、私には、美弥や雪美がついていてくれるのだから。
あたたかい美弥の体温を体で感じ、日なた臭い頭の匂いをすぐ鼻の下で嗅ぎながら、私は、そう感じた。
それどころではない状況だが、私は、幸福だった。