おとなの取引
「似鳥先生?」
受話器を置くと、美弥が、そばに寄り添い、私を見上げるようにして聞いた。
黒目がちな瞳が、心配そうに揺れている。
私は、美弥を、ぎゅっと抱きしめた。
「今日、お友達とけんかしちゃったの?」
「うん」
「小早川君って子?」
「小早川……さとる君」
私はそれが、放課後、一緒に遊んだ子の名であることに気がついた。
いずれにせよ、放課後には、小早川君の背中の「歯型」は、それをつけた美弥との遊びを妨げるほど、痛みはしなかったということだ。
「いつもは、仲、いいんだ」
「うん」
「でも、学校で、噛み付いちゃったんだよね? 何でかな」
「……」
見ると、両目が、涙でもりあがっている。
むやみに人に噛み付くような子ではない。それは、私が一番よく知っている。先生が何と言おうと、その信念は、決して揺らがない。
よほどの事情があったのだ。
「美弥のこと、ブスだって。ブスじゃないもん、って言ったら、引っかいたの」
「引っかいた?」
美弥はうなずき、左の袖をあげた。薄いブラウスの下の腕には、まるでミミズ腫れの見本のような引っかき傷が、長く伸びていた。
「まあ。痛かったわねえ」
なぜ気づいてあげられなかったのか。これはお風呂で、さぞやしみたに違いない。
美弥は、しゃくりあげるように、やっとのことでうなずいた。その拍子に、両目から、膨張限界を超えた涙が溢れ出した。
私はもう一度、美弥の体を、ぎゅっ、とした。
美弥が、私の体を抱き返し、エプロンに顔をこすりつける。
「でもね、やっぱり、噛み付いちゃ、駄目だよ」
神さま。相手が先に手を出しても、こう言わなくちゃ駄目ですか? 右の頬を叩かれたら、左の頬を差し出せと、私は、教えたくない。
「ごめんなさーい」
ぐしゅっ、っといい、美弥は声をあげて泣き出した。
「いいえ、美弥が悪いんじゃない」
言わずにはいられなかった。
「先に手を出したのは、その子じゃない。美弥は、やられたからやり返しただけだもの。美弥の手にだって、こんな立派なミミズ腫れが残ってる。思わず噛み付いたって、仕方がないことだわ。反射神経ってやつよ。美弥は、反射神経がいいのよ。やられっ放しにしてたら、将来、イジメに繋がるわ。冗談じゃない。自分を貶めちゃいけないのよ」
美弥はあっけにとられたように口を開けて、私の顔を見ていた。
「いい、美弥。似鳥先生がうるさいから、私はこれから、その、小早川君って子のお母さんに電話をかけて謝る。でも、それは、大人の取引。大人にはね、時として、全然悪くはなくても、謝らなきゃいけない時があるの。噛み付いたのは、そりゃ、少しは美弥も悪いけど、でも、相手の子も充分悪いもの。けんか両成敗ってやつよ。美弥だけが悪いんじゃない」
憂慮すべきは、この先の6年、乃至9年間一緒という閉塞状況なのであり、2年生に進級するときはクラス替えなし、担任持ち上がりというこの現実だ。
理解したとは言いがたい表情ながら、美弥は頷いた。私は、美弥に頷き返し、受話器を取り上げた。
電話が繋がり、相手が小早川ママであることを確認すると、私は、一気に詫びの言葉を述べた。
膝が、少し震えた。
「さとる君の、お怪我の具合はいかがでしょうか。まだ、痛みますか?」
わざと、怪我、と言ってやった。
噛み跡くらいで、大袈裟な、という気持ちが伝わるように、慇懃無礼に。
「噛み付かれたのですからね。5ミリくらいの深さの噛み跡が、紫色に残っていますよ」
尊大な答えが返ってきた。
私は恐縮を装った。
「それは痛かったでしょうねえ。あの、病院には行かれました? 治療費は、是非、うちで負担させて下さい」
病院になど行っていないのは、似鳥先生に聞いて知っている。私だって、ミミズ腫れくらいで救急外来にすっ飛んでいったりしない。
「病院は行ってないですけど……。でも、いきなり噛み付くなんて。それも、服に隠れて見えない背中を」
まるで自宅での虐待を匂わせるようなもの言いである。それを言うなら、美弥の傷だって、ブラウスの袖で、すぐにはそれとわからないところにつけられていた。
しかし、美弥の傷について言うことは得策ではない。
噛み跡について、病院に行くほどではないと認めている以上、なるべく下手に出てこの場を丸く治め、入学すぐの一エピソードとしてもらうことが、肝要だ。
謝った謝らないで、6年間(9年間!)根にもたれたら、本当にかなわない。女の子なのに、なんて乱暴な、それにあそこの家は、絶対謝らないし、などという誤った噂を、他の保護者に流されても困る。
似鳥先生には、そうとう強くねじこんだのだろう。さもなければ、ベテランの先生が、美弥に話も聞かず、いきなり謝れと言ってくるわけがない。
モンスターペアレントじゃないか。
敬して遠ざけるにしかず、というところだ。
「なんですか、けんかをしてしまったそうですね。私はその場にいなかったものですから、ちょっと状況はよくわからないのですが」
私は言った。ケンカなのだ。子どもの。
それだけは、きちんと確認しておかなければならなかった。
美弥の、小さな名誉の為に。
「学校での出来事ですもの、もちろん、私だってその場にいなかったんですけどね。でも、美弥ちゃんがさとるに噛み付いたところを見ていた子は、大勢いるんですよ」
「本当に、暴力はいけないことです。美弥にも、きつく言いました」
「まあ、子ども同士のことですからね」
こちらが低姿勢で謝罪を述べたので、相手の態度も軟化してきた。
「さとるはあまり気にしていないようです。おおらかな子ですから」
「学校から帰ってから、一緒に遊んだようですね」
「え……」
虚を突かれたような声を出す。知らなかったようだ。
まだ入学したての1年生なのに、帰宅後、自分の子どもが誰と遊んだかも知らないのだ。
その程度の親だ。その程度の親が、自分は子どもをかわいがる立派な保護者だとアピールしたくて、夜、担任に電話をかけ、うちに苦情を述べている。
相手のスタンスがわかると、ぐんと余裕が広がった。
「明日、改めてきちんと謝るように、美弥には言っておきます。本当に申し訳ございませんでした」
「何分子ども同士のことですからね。こちらとしても、そう強く言うわけではないんですよ。ただ、外から分からない場所に、噛み跡をつけられたら、親として黙っているわけにはいきませんからね」
「申し訳ありません」
「家庭に問題があると、いらいらしたりするお子さんは、多いですからね。でもそれを、きちんとした家庭の子に八つ当たりされたら、かなわないわけですよ」
「……」
さすがに返事はしなかった。
「ま、長いおつき合いになるわけですから。私の方も、ここだけの話にします。お互いそういうことでいきましょう」
何が、「家庭に問題がある」だ。私は、ハラワタが、煮えくり返る思いだった。
私には、近所関係で、親しくして頂いている親が、何人かいる。その人たちから、小早川ママの評判を聞いてみようと思った。
そして、評判芳しからぬようだったら(マトモな親とは、とても思えなかった)、今夜のことに、背ビレ尾ヒレつけて、話してやればいい。
人の家の子を、悪者に仕立てるからには、それなりの覚悟があってのことであろう。
「ごめんなさい」
受話器を置くと、息を詰めるようにして気配を潜めていた美弥が、再び、謝った。
「いいのよ、美弥。あなたはちっとも悪くない。さっきも言ったけど、これは、大人の取り引きなの。子どもは、関係ないわ。でもね、やっぱり噛み付いたのはあまりよくないから、明日、さとる君に謝ってごらん」
すでに放課後一緒に遊んでいたのだから、それは無意味に思われた。
しかし、一応。念のため。
「うん」
「さとる君にも、謝って欲しいよね」
「美弥から先に謝るよ。だって、さとる君に痛い思い、させちゃったんだから」
「美弥も痛かったでしょ?」
「でも、美弥は泣かなかったよ。さとる君は泣いて、保健室へ行ったんだ。保健の先生が、笑いながら赤チンつけてた」
「そう……」
泣かないで偉かったね、とほめるべきか。
しかし、こういう場面では、泣いた者勝ちなのだ。もしくは、声の大きい者勝ち。先に騒いだ者勝ち。
大人の世界は醜く、えげつない。
だが、それを教えるには、美弥は、あまりにも幼すぎる。純真すぎる。
「朝一番で謝るといいよ。忘れちゃうから」
「そうだね。朝、学校へ行ったら、すぐ、謝るよ」
やるべきことがわかって、美弥は、晴れ晴れとした顔で笑った。