ラビリンス
「本当に、私じゃなくて、いいんだね?」
信子は、玄関を、うろうろ歩きながら、聞いた。
「大丈夫かね」
「平気よ、お母さん」
トレーナーとジーンズの上に、中綿ジャンパーを引っ掛けた真紀子が、スニーカーを履きながら言う。
「せっかく、日本にいるんだしね。普段、子どもたちがお世話になっている学校ですもの、PTAにも、参加しなくちゃいけないわ」
「でも、いきなり、互選会ってのも……」
「大丈夫。なんとかなるって」
PTAの役員決めの日だった。
1年生から5年生の、各クラスから「推薦」された候補者の中から、来年度のPTA本部役員を選出するのである。
選出は、話し合いでなされるが、決まらない場合の押し付け役は、この春、卒業していく6年生の親が勤める。
4月のアミダで、信子は、互選会委員長の大役を引き当てていた。
「それに、PTA会長は、もう、決まってるんでしょう?」
「しのぶさんが、根回ししてくれたみたいだけど……」
この近隣が、人質事件で大騒ぎしていた頃、同じく互選会委員である、角館しのぶは、役員候補者の名簿と、首っぴきで、会長を引き受けてくれそうな人を探していた。
2人の子どもの、幼稚園時代からの友達関係と、過去、自分が役員をやった際の人脈、近所づきあいまで動員して、役員候補者の中から、時間に余裕があり、なおかつ、頼まれると否と言えない性格の人を、捜し当てていた。
すでに電話攻撃を仕掛け、内諾を得ているという。
「会長さえ、決まったら、後は、なんとかなるもんよ。最悪、クジ引きで決めればいいんだから」
少し前、しのぶが、信子の携帯に、電話をかけてきた。
「それより、あんな事件のすぐ後で、信子さん、大丈夫? 来れる?」
帰国中だから、子どもたちの母が行く、と信子が言うと、しのぶは、くつくつと笑った。
「じゃ、お任せしようかしら。キャリアウーマンのお母さんが、『忙しい私にもできた、PTA!』って言ってくれたら、とても説得力があるもの」
「会長選びでは、しのぶさんに、任せきりになってしまって、悪かったわ」
「田之倉さんと後藤さんにも、頼んだわよ、もちろん。私は、内気だからね。あの人たちが、ひたすら、プッシュしまくったの」
「へえ」
田之倉さんと後藤さんは、「PTA役員互選会に前向きに参加して頂く為に」という、たよりを、一緒に印刷した仲間である。
二人とも、子沢山で、どっしり構えているので、確かに、オシは強かろう、と、信子は思った。
新会長に白羽の矢を立てられた人が、気の毒になったものだ。
雰囲気を和らげる為の甘いお菓子と、ペットボトルを車に積んで、真紀子は、出かけていった。
真紀子を送り出し、信子は、やれやれと、居間に戻った。
テレビをつける。
ワイドショーの特集をやっていた。「心の闇ラビリンス」という、凶悪事件の犯人の、心理分析をするコーナーで、信子の好きな番組だ。
画面に、見慣れた風景が映っていた。
「あらら」
それは、つい、この近所である。カメラはズームし、永瀬家をアップで映した。
「うちは、向かいなのよ」
信子はつぶやいた。
見たことのあるリビングルームに座る、ピンクのセーターが映った。顔には、ボカシが入っていて、甲高い、幽霊みたいな声でしゃべる。
「永瀬一郎容疑者の母(56歳)」と、テロップが入った。
「おとなしい子どもでした。小学校の頃から、本が大好きで、中学では、毎年、図書委員をやっていました。図書館に、入りびたりだったんです。あの子は……。あの子は、ただ、静かに暮らしたかっただけなんだと思います。静かな落ち着いた環境で、しばらく休めば、きっと、もう一度、社会に出ようという気になってくれた筈です……」
……でも、こんな事件を起こしたら、もう、無理よね。これだけ大騒ぎをしておいて、静かな環境なんて、よく言うわ……。
ご近所のことではあるし、一朗の罪が軽くなるよう働きかけてみるつもりだと、真紀子夫婦は言っていた。
だが、信子は釈然としなかった。
警察に保護された後、虚偽の手紙を書いた件を説諭されて、雪美は家に帰された。
一朗をパソコンで殴ったことについては、ユイラちゃんを守ろうとしたことが認められたのか、雪美の年齢が考慮されたせいか、はたまた、永瀬家にいる間中、パニック状態だったと、信子と真紀子が主張したせいか、お咎めはなしだった。
そう。雪美は、ちっとも悪くない。
全ての元凶は、永瀬一朗だ
一朗は、雪美におかしな薬物をかがせた。その上、怯えた雪美が口走ったことが癇に触ったからといって、頭を殴ったのだ。
到底、許せるものではない。
画面が変わり、道路を歩きながら、レポーターが言う。
「一朗容疑者の挫折は、就職してからでした」
……うちの前の道路だわ……。
「仕事は、激務でした。残業が続き、朝、定時に、家を出ることができなくなっていきました。会社は、フレックス制だったのですが、午前も遅い時間になると、一朗容疑者は、外へ出られないのです。なぜでしょうか」
割ぽう着姿の、初老の女性が、映った。後ろ姿である。
……やだ、上橋さんじゃないの……。
「この辺? いつも子どもらが、集団で遊んでますよ。午前中から、夕方、暗くなるまで。うるさい? 子どもの遊ぶ声がうるさいなんて、あなた、そんなこと、あるわけないじゃないですか。でも、ママ達の声は、ちょっと、あれ、ねえ。それから、大きな音の出る玩具って……。そういう、人の迷惑になるようなものを売るっていう、企業の姿勢? そういうのは、どうかと、思うんだけど」
……まぁた、いい人ぶって。自分だって、うるさいくせに……。
続いて、パンツスーツの、細身の女性が映った。横顔は、髪の毛で隠れている。
……辛島さんだわ……。
「なんたって、オバさんたちの、井戸端会議ですよ。それも、何時間も、続くんです。まるで、関所だわ。一緒に、井戸端会議に参加しない人の、悪口を言うんです。悪い噂を立てられるのが怖くて、そばを通れない人を、私は、知っています」
……関所か。前に、雪美もそんなこと、言ってたわね。それにしても、何時間も、人の悪口をしゃべってるなんて、コワいオバさん達もいるものね。ヒマなのね、きっと……。私たちなんて、世間話しか、しないもの、かわいいものだわ……。
道路を歩きながら、レポーターが言う。
「そして、夜も……」
再び、永瀬家のリビングルーム。ピンクのセーターに、顔にぼかしの入った女性。
「せめて夜か早朝、散歩に行ければいいと思ったのですが、それも、難しい状況でした。大型犬を連れた人たちが、集まってくるんです。そりゃ、夜ですから、大きな音は、たてません。吠えないしつけもしてあるようでした。でも、気配がするんです。リードを外した大型犬たちが、たくさん、道路を走り回っているんですよ。怖くて、外へなんて、出て行けるわけ、ありません……」
……あら、夜中に、そんなことがあったの? 知らなかったわ。うちの前じゃ、ないわよね。まん前だったら、いくらなんでも、気がつくもの……。
「この家の前は、玄関を一歩出ると、明るいうちは、ボール遊び可の児童公園、夕方になったらそれにケルベロスの関所が加わり、夜になったら、ドッグランになるんです。こんなんで、外へ出られるでしょうか!」
……私の知らない間に、いろんなことが、あったのね。ところで、ケルベロスって、何かしら?……。
糾弾するようなレポーターの、重々しい声。
「こうして次第に、一朗容疑者は、ひきこもりへの道を、歩み始めていったのです……」
……その結果が、人質事件よ。私だって、ずっと家にいたら、うんざりするもの、引きこもりなんてしてたら、頭がヘンになっても、無理ないわ。それにしても、道でうるさく遊んでいた斉藤さんちの子ならともかく、なぜ、うちの雪美までもが、さらわれなくちゃ、ならなかったのかしらね。やっぱり、ユイラちゃんの顔を見ちゃったのが、まずかったのね。あの日、私が外出したせいだわ。表で、上橋さんにつかまりさえしなければ、もっと早く帰れて、雪美も、あんな目に遭わないで済んだかもしれない。全く、うらめしいことだわ。真紀子や私まで、危うく死ぬところだったし……。
……でも、雪美は、勇敢だったわ。それに、優しくもあった。年下のユイラちゃんを、身をもって、かばってあげたんですもの……。
その辺のことを詳しくやらないかと、信子は、録画リモコンを片手に待っていたが、番組は、終わってしまった。
がっかりしていると、雪美が、階段から、降りてきた。
「塾行く」
「今日くらい、休んだら? せっかく、お母さんがうちにいるのに。今夜は、お父さんも呼んで、鍋だよ」
「だって、もうすぐ、入試だもの」
「じゃ、駅まで、車で、」
「いいよ、おばあちゃん。自分で行けるから。それに、マーチ、お母さんが乗ってっちゃったじゃない」
「ああ、そうだった。気をつけて行ってくるのよ。ところで、雪美、あなた、ほんとに、専業主婦になるの?」
雪美は、にやっと、笑った。
「まずは、志望校に合格しなくちゃ。専業主婦になるのも、大変だ」
塾弁を持たずに、雪美は出かけていった。
夜遅くなっても、鍋は、そのまま食卓に出しておこう、と、信子は思った。美弥は待てないから、7時には夕食を済ませてしまう。真紀子夫婦も美弥と一緒に食べるだろうが、雪美が帰ってからも、うどんくらいなら、お腹に入るだろう。
雪美と入れ違いに、美弥が、飛び込んできた。
靴を、ばたばたはたき落とすと、トイレに駆け込む。
ざー、と、水を流す音とともに、トイレから出てくると、信子の顔を見て、ほっとしたように、目じりを下げて、笑った。
「これから、広場に行くからー」
「誰と遊んでるの?」
「ユリちゃんとヒメちゃんと、サトル君。でも、直接、広場に来る子もいるの」
「ああ、そう」
「広場にね、似鳥先生が、みゅうを連れてきてくれるって」
「みゅう?」
「ネコちゃんだよ。忘れちゃったの?」
「ああ、そうだった」
飛び立つように、駆け出していった。