修羅場
真紀子が、足元の男を指差した。
「じゃ、この男の手足にガムテープを巻いたのは?」
「私しかいないじゃん。ユイラちゃんなんて、猫の手よりも、役に立たなかったもん。こいつ、伸びちゃってたから、簡単だったわよ」
「あの、『次は、雪美の母と交換だ』っていう文書は?」
「私が書いたの。そこのデスクトップで。それを、ユイラちゃんに持ってってもらったの」
机の上を指さす。
信子が割り込んだ。
「聞くけどね。なぜ、『雪美の母』なのよ。『雪美の祖母』じゃなく?」
「私の為に、お母さんが来るかどうか、試してみただけだよ。しつこいよ、ババァ」
雪美の言う「ババァ」は、女性の蔑称「ババア」とは違い、語尾が、尻上がりに発音されている。祖母を表す幼児語「バーバ」に近い。幼児が、遠くにいる祖母に、力いっぱい呼びかけたら、こんな発音になるだろう。
「ババァはやめなさいって、言ってるでしょ。あなたが、小さい時のことを思い出して、辛くなるから。ほんとに、もっと早く、うちに引き取るんだった」
信子が言うと、間髪入れず、娘の真紀子が言い返す。
「勝手なことを、言わないでよ。だいたい、なんでお母さんが、ここに来るの!」
「大事な孫の一大事に、のほほんと家にいられるもんですか」
「警察に、止められたでしょ。お母さん、来年、80歳になるんだよ? こんなとこに来ちゃ、駄目じゃない。全く、お母さんといい、お父さんといい……。お父さんは、まだ、南米に?」
「さあ、どこだったかしら。シニアボランティアとかいって、あちこち、飛び回っているわよ。仕事人間だったんだから、定年後くらい、一緒にいてくれると思ってたのにね」
「人生を、有意義に過ごすのは、いいことだけど……」
「ま、あの人のおかげで、私も、専業主婦をやっていられるわけだから」
はっとした表情が真紀子の顔に浮かんだ。
「ちょっと。この子、将来専業主婦になるって言うのよ。いったい、どういう教育をしてくれたのよ、お母さん」
「まあ。家のことをきちんとこなすのは、立派なことよ」
「そうよそうよ」
と雪美。
かっとなって真紀子が叫んだ。
「専業主婦なんかになって、いざという時、就職なんて、絶対、できないんだからね!」
「おい。女3人で、何を勝手なことを、くっちゃべってるんだ」
雪美の、テープの巻き方が、甘かったのであろうか。
足元で、大きな芋虫のように身をくねらせていた永瀬一朗が、不意に立ち上がり、口のガムテープをもぎ取った。
いつの間にか、手足のテープは、剥ぎ取られてる。
あっと言う間もなく、雪美の首根っこを左手の肘で抱え込んだ。そのまま、じりじりと後じさる。
右手には、おおぶりの、カッターナイフが握られていた。
「みんな、道連れだ」
一朗は、足元のガスストーブの元栓を開いた。
しゅーぅ!
気体が漏れ出る音とともに、独特の臭気が、その場にいた全員の鼻をついた。
真紀子が叫んだ。
「なにするの!」
「どうせ俺は、犯罪者だ。これから先、ろくな人生じゃないからな」
一朗は、顎でテレビを指した。
そこには、ロープで囲まれた、永瀬家が移っていた。
「真紀子さんに続いて、家に入った祖母、信子さんの様子は、全く、わかりません。小学6年生の、近藤雪美ちゃんは、無事なのでしょうか?」
緊迫した様子の女性レポーターが、煽るように、しゃべり立てている。
「機動隊の突入はまだです。繰り返します。機動隊の突入は、まだの模様です」
しゅーしゅーと、不気味な音を立てて、ガスが充満していく。
「俺は、ただ、静かに暮らしたかっただけなのに。それを……。おい、お前、ドアを閉めろ」
一朗は、真紀子に顎でしゃくった。
「い、いやよ」
「こいつが、どうなってもいいのか!」
カッターナイフを、雪美の喉に突き立てる真似をする。
「おやめ!」
信子が叫んだ。
「人質を取るなら、私にしなさい。私は、もう、充分生きたから。そんな小さな女の子を人質に取るより、罪は軽くなるわ、きっと」
「だめよ。私を人質にして、雪美を解放して。私はこの子の、母親なんだから」
負けじと、真紀子が両手を差し出す。
「よかったねえ、雪美ちゃん」
一朗が、不気味に笑った。
「お母さんや、おばあちゃんからも、大事にされてて。さっきは、随分、心配してたもんねえ。警察にお手紙、書いてるとき……」
雪美は、こぼれるように大きな目を見開いている。
「お母さん、来なかったら、どうしようって、言ってたよねえ。よかったねえ。おばあちゃんまで来てくれて。3人一緒に、死ねるよ」
「あなたなんかに……誰が死ぬもんですか!」
「そうよそうよ。私の大切な子よ! その手を離しなさいっ!」
「とりあえず、雪美と真紀子を外へ出すのよ!」
「お母さんは黙ってて!」
「うるさいっ! ぎゃーぎゃー、わめくなっ」
一郎が叫んだ隙に、信子が、ガス栓に駆け寄ろうとした。
「動くな!」
一朗は、雪美の頸に巻きつけた左手に、ぐっと力をこめた。
「こいつが、どうなってもいいのか!」
さらに一朗は、カッターナイフを握った右手を前に突き出して、威嚇した。
「3人とも、俺と一緒に、死ぬんだよ。運がよければ、近所の家も、吹っ飛ぶだろうよ」
信子が、何か喚いた。真紀子の悲鳴が先だったか。
ボンッ
まるで、拳銃の暴発のような音が、鳴り響いた。
「キャァーッ」
そして、真っ赤なゲル状のものが、全てを覆った。