闘志
話は、少し前、まだ、ユイラちゃんが解放される前まで、さかのぼる。
嗅がされた薬品の影響で、雪美は、なかなか手足に力が入らなかった。それを見抜いたのか、男は、拘束しようとはしなかった。それどころか、ユイラちゃんと2人、2階に残して、自分は、階段を下りていった。
ユイラちゃんも、拘束されてはいないが、泣くばかりである。
雪美は、窓を検めた。窓は、二重になっており、レールに不思議な形の器具が取り付けてある。
器具の穴にあう、ネジがなければ、開かないようになっているのだ。
「ベランダは駄目だ。下へ行こう」
ユイラちゃんは、ぎょっとしたように、いやいやをした。
声を励まし、雪美は言った。
「あんな奴、大丈夫だよ。こっちは二人だよ」
だが、ユイラちゃんは、がたがた震えながら、両目から、ぽろぽろ涙をこぼしているだけだ。
声をたてないのが、不思議だった。
これでは、足手まといになる、と雪美は思った。だが、ユイラちゃんを置いて逃げるわけにはいかない。
こんなに怯えているから。
道を挟んで向かいの、雪美の部屋では、外からの音が、非常によく聞こえることを、彼女は、思い出した。
この部屋も同じだとしたら……。
「た・す・け・てー!」
窓に寄り添い、大声で叫んだ。
「だ・れ・かー!」
「無駄だよん」
階下から、含み笑いが聞こえた。何か食べているのか、妙にくぐもっている。
「この家の窓は、ペアガラスなのさ。うるさい隣人達がいるから、引っ越してすぐ、おやじが、全部、付け替えたんだ。一財産かかったってさ。おまえんちと、上橋んちのババアの立ち話も、うるさかったよ。ケルベロスだな、あれは」
「関所じゃないの?」
小さな声で、雪美は毒づいた。
「でも、おかげで、防音は、完璧さ」
「くそっ」
雪美は、舌打ちした。
下から、どら声が続ける。
「ユイラちゃんは、いい子だから、逃げたりしないよ。言いつけは守るよね、ユイラちゃん」
ユイラちゃんは、びくんと振るえ、がくがくと頷いた。
それにしても、ユイラちゃんの様子は、異常だった。ものすごく、怯えている。
雪美は、ユイラちゃんの方へいざっていった。隣に並び、体育座りで、壁にもたれた。
「大丈夫だよ。あんなやつ、怖くないから」
ひそひそと、雪美は話しかけた。
「逃げよう。ユイラちゃんのおうちは、すぐ、お向かいじゃん」
「おうち、……」
「うん。お父さんもお母さんも、ユイラちゃんが帰るの、待ってるよ」
「マリン、エレナ、ハルン……」
「アムト君とセイヤちゃんもだよ。お姉ちゃん、早く帰ってきて、って」
「お父さん……、お母さん……」
「だからさ、逃げようよ」
声を励まし、雪美は言い募る。
ユイラちゃんは、ますます縮こまった。
「凄い声で、怒ってた」
「あんな奴、怒っても、怖くないよ」
「違う。お父さんとお母さん……」
「怒ってなんかいないよ。ユイラちゃんがいないって、すごく、心配してるよ」
「だって、毎晩、怒ってるのが、聞こえる」
「は?」
「お兄さんが、窓を開けるの。そうすると、聞こえる。お父さんとお母さんの、けんかする声……」
「……」
それは確かに、雪美の部屋にも聞こえてきたが……。
「ユイラが悪い子だから。だから、お父さんとお母さんは、けんかするの。リコン、しちゃうって、お兄さんが」
「ユイラちゃん、それは、違う」
「ユイラ、帰る家が、もう、ないの」
「それも、お兄さんが?」
「そう」
「そんなことないから。ユイラちゃんのお父さんとお母さんは、きっと、仲がいいから、けんかするんだよ。だって、エレナちゃんやマリンちゃん、バルン君やアムト君、それに、セイヤちゃんもいるんだよ? そんだけ子どもがいたら、離婚なんて、できるわけ、ないよ」
「子どもが多すぎて、ユイラは、じゃま?」
「違う。離婚したら、お父さん、養育費、払いきれないでしょ。小さな子どもの親権は、母親に行きやすいんだよ。上の子達を引き取ったとしても、その子らを育てながら、別の所帯に、幼児や赤ん坊の養育費を送金するなんて、それは絶対、無理。この場合は、慰謝料もあるだろうし」
ユイラちゃんには、よく、わからないようだった。雪美は、なおも、続けた。
「いいじゃん、お父さんとお母さんなんて、どうだっていいよ。ユイラちゃんには、きょうだいが、5人もいるんだよ? 今の日本で、恵まれてると思わない? 6人で力を合わせれば、親なんて、どうとでもなるから。私なんて、美弥しか、いないんだよ」
「そうだね。6人いれば……」
「とにかく、ここを出よう。ね」
「でも……」
ユイラちゃんは、煮え切らない。
雪美は、じれてきた。
「もしかして、お兄さんに、何か、された?」
「何かって?」
「パンツの中に手を入れられたり、おちんちんをくわえさせられたり、おしっことうんちの穴の間に、強引に、突っ込まれたり……」
ユイラちゃんは、また、別の種類のショックを受けたようだった。
その時、上から声が降ってきた。
「よく知ってるな」
雪美は、ユイラちゃんを説得するのに夢中で、お兄さんが階段を上ってきたのに、気がつかなかったのだ。
だが、彼女は、怯まなかった。
「塾で聞いたのよ」
「最近の塾では、そんなことも、教えるのか?」
「この辺の塾じゃないわ。大きな町の塾よ。教えてくれたのは、先生じゃないけど」
「マセたガキは、嫌いだ」
……あたしだって、あんたなんか、大っ嫌いよ。
心の中で毒づきつつ、重ねて、ユイラちゃんに聞く。
「どう? 何か痛いこと、された?」
「塀から落ちたとき、痛かった」
「他は?」
ユイラちゃんは、目にいっぱい涙をためて、首を横に振っている。
「何もされてないのね。でも、されてても、全然、平気。その時は痛くて気持ち悪いみたいだけど、大したことじゃないし。まだ子どもだから、妊娠する心配もないし、こいつ、引きこもってるから、変な病気も持ってないだろうし」
「うるさい!」
お兄さんはいきなり、雪美の頭を張り飛ばした。
「何するのよ! もうすぐ、受験なのよ! 図形の定理を、忘れちゃうじゃないのっ!」
怒り心頭、雪美は叫んだ。
「お前、俺が、女を知らないと思ってるな。馬鹿にするな。ちゃんとできるぞ」
お兄さんは、ものすごい目で、雪美を睨んだ。
雪美も、負けじと、睨み返す。
お兄さんが、目をそらせた。
「お前はもう、ババアだ」
そして、いきなり、ユイラちゃんに襲い掛かった。
ユイラちゃんを仰向けに押し倒し、のしかかっていく。
「ババアですって? この、ロリコンが!」
雪美は、逆上した。
手近にあったもので、一番重そうなのは、ノートパソコンだった。
雪美は、それを持ち上げると、ユイラちゃんの上にのっかった、そいつの頭の上に、力いっぱい、振り下ろした。
……。