真打ち登場
真紀子は、警察から渡されていた鍵で、玄関のドアを開けた。
中は、しんとしている。
「来たわよ。雪美の母親よ。雪美を、返して!」
背後で、バネの力で、ばたんと、ドアが閉まった。
「雪美! 雪美!」
「お母さん……」
弱々しい声が聞こえた。
2階からだ。
黒のローファーを脱ぎ捨て、真紀子は、ためらわずに、階段を登っていった。
2階の、南向きの、一番いい部屋に、雪美はいた。
だがそれは、想像していたのとは、およそ、かけ離れた姿だった。
雪美は、回転椅子に後ろ向きに座り、背もたれに顎を乗せて、足をぶらぶらさせていた。
拘束されている様子は、全くない。
「来てくれたんだ」
意外そうに、雪美は言った。
「あ、当たり前、じゃない……」
真紀子は絶句した。
雪美の足元では、両手両足を、ガムテープでぐるぐる巻きにされた男が、転がされていた。
口にも、大きく、ガムテープが貼られている。
何の説明をするでもなく、雪美は、言った。
「今まで、私の用事で来てくれたことなんて、なかったじゃない?」
条件反射のように、真紀子は、答えた。
「仕方ないじゃない、仕事があったんだから」
「そうそう、仕事、仕事」
歌うように、雪美は言った。
「いっつも、いっつも、仕事があるんだよね」
「あなた達の為に、働いているのよ。お金を稼ぐのは、あなた達の為。少しでもいい教育を、つけさせてあげたいの」
「そのコート、プラダだよね」
雪美は意地悪く笑った。
「指輪はブルガリ。小学校の友達のお母さん達は、そんなの、持ってないよ」
「それは、公立だからよ。世の中にはね、雪美。もっと違う世界もあるの。そりゃ、専業のお母さん方よりは時間は取れないけど、私は、いつだってあなたのことを考えているのよ」
「やめてよ」
初めて、雪美の声に感情がこもった。
深くこもった、怒りの声だった。
「何を言っても、仕事、仕事。私のことも美弥のことも、放りっぱなし。ご飯も作ってもらえない。服も、何日も、洗ってもらえない。だから、小学校4年の時から、臭いって、いじめられてた。知らなかったでしょ?」
「そんな……」
初耳だった。
「勉強を見てくれたこともない。参観日に来てくれたこともない。運動会も文化祭も、ちょこっとのぞくだけ。雨が降って延期になると、もう、来ない。……なぜ私が、中学受験したいと言ったか、わかる?」
「それは、やりたい仕事に出会う為。よりよい人生を歩む為」
「ばっかみたい」
雪美は噴き出した。その拍子に、ぶら下げた脚が、転がされた男の頭を蹴り、男は、うめき声を上げた。
「ね、雪美、その人……」
「私が受験をするのはね」
焦る母に、取り合う気配もない。
何かに操られるように、雪美は話し続ける。
「それはね。専業主婦になる為だよ。お金をたくさん稼ぐ男を捕まえて、楽して暮らす為。いい学校、いい職場を選ばないと、そういう男は、いないからね」
「許さない!」
異様な状況も忘れ、真紀子は、叫んだ。
自分の母親のようなつまらぬ人生を歩ませるために、専業主婦として家庭に埋もれさせてしまう為に、この子を塾に通わせ、お金をかけてきたわけじゃない。
その費用を捻出する為にも、自分は、一生懸命、仕事を続けてきたのだ。
「自立しなきゃ、だめよ。そんな、男の腕にぶら下がって生きるような娘に、育てるつもりは、ない」
「お母さん、仕事、辛い辛いって、言ってたよね。子どもの為に、頑張って働いてるって。……なぜ、そんな辛い道を、自分の娘に歩ませようとするわけ?」
「辛いばかりじゃないわ。仕事がうまくいった時の達成感。大勢の人とバランスをとって付き合っていく、充実感。仕事って、素晴らしいものよ」
「やっぱり、楽しいんじゃん。子どもといるより」
真紀子は、咄嗟に、返す言葉が出なかった。
「ピン、ポーン」
その時、場の空気にまったくそぐわないチャイムの音が、のどかに鳴り響いた。
一瞬の間も空けずに、階下のドアが、ガチャリと開く音がした。
こんなせっかちな人を、真紀子は、一人しか知らない。
雪美も同じだった。
ふたりして、はっと振り返る。
その人物は、もう階段を上りきり、開けたままのドアの向こうに立っていた。
両手に、大きなレジ袋を、いくつも提げている。
「ちょっと。なぜ、この大事な局面に、祖母を差し置いて、母親を呼ぶの! 雪美の世話をしてきたのは、この、私なのよ!」
「ババァ」
「お、お母さん!」
雪美と真紀子が、同時に叫んだ。
雪美の足元で、ガムテープでぐるぐる巻きになった男が、絶望的なうめき声を上げた。