虎の巣へ乗り込む
希望が丘北交番は、大騒ぎになった。
三日も行方不明だった少女が、自ら、やってきたのだ。
「私のおうち、誰もいなかったの」
少女は、泣きながら言った。
「置いてかれちゃったのかな」
泣きじゃくる少女を宥めるのには、時間がかかった。
……おうちの人はね、ちょっと、お留守してるだけなの。すぐに迎えに来るよ。
婦人警官が、優しい声で慰めた。
斉藤ユイラ。
名前を聞かれ、女の子は答えた。
間違いない。
3日前から行方不明になっていた、小学校3年生の、女の子だ。
今までどこにいたのか。誰といたのか。何があったのか。
聞きたいことは、山ほどあった。
しかし、少女は、著しく、混乱していた。
何を聞いても、はかばかしい返事が返ってこない。ただ、家に家族がいなかったと、泣くばかりだ。
ユイラは、一枚の、A4の紙を持っていた。
その紙には、大きな字で、
「斉藤ユイラは返す。代わりに、近藤雪美を預かった。次は、雪美の母と交換だ」
と、印字されていた。
*
真紀子は、久しぶりに、日本に帰ってきた。
10ヶ月ぶりの日本である。成田に降り立った途端、肌の露出した部分が、湿気を含んだ重い空気に、潤されるのを感じた。夏なら不快に感じた筈だが、今の季節は、懐かしさを感じるほどに、ほっとした。
一刻も早く、家に帰りたかった。海外から帰国した時の、望郷の思いは、格別のものがある。
それなのに、手違いがあったとかで、なかなか、荷物が到着しなかった。
待合コーナーで待つことにした。大きなテレビがあったからである。
その、映像の、クリアな精確さに、真知子は、驚嘆した。薄い、垂れ幕のような画面が、宙に浮いている。まるで、動く映像を写す、掛け軸のようだ。
古式ゆかしい日本の、最新技術だ……。真紀子は、誇らしく思った。
大きな平たい画面に、突然、何の前触れもなく、見知った顔が映った。
つばを飛ばし、地団太を踏みつつ、しゃべりまくっている。小柄な体に、怒りが満ち溢れているのがわかる。
信子だった。
向かいの家の窓を指差し、決死の形相で、入っていこうとしている。警官が、何人も、よってたかって、引き止めている。
真知子の手から、荷物引換券が、ぱらりと落ちた。
画面右上には、「スクープ! 誘拐・拉致監禁事件中継中」という、大きいテロップが入っていた。
飛行機が着陸し、スイッチを入れたばかりの携帯電話が、ブーブーと、激しく振動し始めた。
*
「しかし!」
大急ぎで立てられた、少女連続誘拐事件本部の警部は、唾を飛ばして叫んだ。
相手は、本部長である。
「危険ではないですか? 少女の母親を犯人の元へとやるなんて! 虎の巣に送り込むようなもんです!」
「女の子を、見殺しにするわけにはいかんだろうが。マスコミが、大勢、取り巻いているんだぞ。ったく、なぜ、マスコミが押し掛けてくるんだ!」
「雪美ちゃんがいなくなったと、こちらが把握する前に、マスコミは知ってたんです。どうやら、斎藤ユイラちゃんがいなくなった晩、母親と一緒になって探した上橋という隣人が言いふらしたようで……。この上橋という人物は、雪美ちゃん一家とも、頻繁に行き来があったみたいです」
「上橋……」
「近所関係が入り組んでますねえ。斎藤家を挟んで、西隣が上橋家、そして、東隣の家が、雪美ちゃんの家。ユイラちゃんと入れ替わりに、誘拐された子の家です」
「帳場《捜査本部》が立ったばかりの頃は、その、東隣の家の女が怪しいということだったが……」
「今時、包丁を研いでたり、非常に危ない、車の運転をしたりしていたものですから。実際、雪見ちゃんが受験ということで、斉藤家の賑やかさを、よく思っていなかったようです」
「騒音トラブルか。よくある話ではあるな」
「スギさんとツルヤマが話を聞きに行きました」
「だが、そのセンじゃなかったな。焦らなくてよかった。雪美ちゃんは、時間差で第2の被害者になっている。彼女の家族を誤認逮捕などという事態になっていたら、目も当てられないところだった……」
解放された斎藤ユイラの証言から、犯人は、この三軒と通りを挟んで向かいにある永瀬家の二男、一朗の犯行とわかったのである。
永瀬家の周りは、今、マスコミが、びっしりと取り巻いている。
「じゃ、その、上橋という人物が、マスコミにリークしたというのか?」
「リークというか、ご近所の広告塔らしいですよ。その上、有名なクレームおばさんで、交番にもしょっちゅう、苦情を申し立てていたようです。ボールがうるさい、犬がうるさい、死にかけた猫がいる……」
「死にかけた猫?」
「三丁目に、三味線の師匠がいるんです。渋皮の剥けた、ちょっといい、年増です」
「……。では、情報漏洩は、警察の責任ではないな」
「永瀬一朗の両親は外出中でした。つかまえて、任意で、警察署に同行してもらい、息子に、説得の電話をかけさせました。何度かかけさせ、ラインやメールもさせました。しかし、一朗からの応答はありません」
「同じ家に、ユイラちゃんが、三日も監禁されてても、気がつかなかった親だ。説得なんて、無駄だ」
「もう少し、時間を下さい。手順を踏まないといけません。両親にしたって、全く知らなかった、なんて、ありえない。あんなに狭い家なんですよ?」
「知らなかったは、言い訳だろうな。両親は、屈服させられているんだ。ひょっとして、家庭内暴力もあったのかもしれん」
「だとしたら、ますます、危険じゃないですか」
「その危険な中に、少女が一人、監禁されているんだぞ」
「だからって、母親まで送り込むことはないでしょうが!」
「本人が、行くと言っているんだ。実の母親だ。任せようじゃないか……」
*
テレビカメラは、狭い私道を、ゆっくりゆっくり歩く、母親の姿を捉えていた。
娘の為に、自ら志願して、囚われの身になりにいく、母親。
濃茶のスラックスに、ベージュのコートを羽織っている。ゆっくり、ゆっくり、歩いている。
永瀬家裏側の家の、ベランダを借りた、テレビ局のカメラが、ズームになった。
母親の顔が、アップになる。
近藤真紀子の顔が、全国に流れた。