女の子が1人、女の子が2人、……
近藤雪美が塾の日曜特講から帰ってくると、大通りから、家のある通りへ曲がる角のところで、隣家の、幸島さんの奥さんが、タバコを吸っていた。足元には、大きなシベリアン・ハスキーが蹲っている。
幸島さん夫婦は共働きで、夜遅くや朝早く、家の前の道路で、シベリアンハスキーのタローと遊んでいる。リードを外して、犬の好きなように、走らせている。
犬友達が、一緒のこともある。
眠っている時間なので、雪美の家族は、誰も知らない。雪美は、受験勉強で起きていたりするから、時折、窓の外から、掛け声や、大人がばたばたと走る音、犬用のボールが、きゅっきゅっと鳴る音が聞こえたりして、気がついたのだ。
「あら、ユキちゃん、お帰り」
煙を吐き出して、幸島さんの奥さんは、言った。
「こんにちは」
雪美は、軽く会釈する。
雪美のことを、「ユキちゃん」と呼ぶのは、この夫婦だけだ。雪美は、それが、ぼんやりと不快だ。
幸島さん夫婦には、子どもがいない。休日には、大きな車で遊びに行ったり、留守なことも多い。
今日は、こんな、何もないところで、何をしているのだろう、と、雪美は、不思議に思った。
大通りからの曲がり角で、カーブミラーがある以外、本当に、何もないのだ。
雪美の心を見抜いたように、幸島さんの奥さんは、苦笑した。
「関所がね……」
「あ……」
「上橋さんと、お宅の……」
幸島さんは、言葉を濁した。
雪美は、走って逃げた。
雪美だって、外出先から帰ってきて、家の前に、上橋さんがいると、うんざりする。ましてや、おばさんたちの井戸端会議などが開催されていたりなんかしたら……。
幸島さんは、まだ若いし、内気な人なので、それだけで、休日の外出を取りやめることもあると、前に言っていた。
それに、道路で遊ぶ子ども達もいやだと、吐き捨てるように、雪美に言った。挨拶しても、無視されるし、子どものいない身には、どういう顔で、脇を通っていいか、わからない、と。
雪美は道路でなんか遊ばないので、そんなことを言われても、お門違いというものだった。きっと幸島さんには、近所の子どもは、みんな一緒くたに見えるのだろう。
だが、「関所」に関しては、ソフトな苦情だったのだろう。雪美が子どもだったから、言えたのだ。
なにしろ、「関所」には、雪美の家族も、参加しているのだから。
今日も、きっと、ユイラちゃんがいなくなったことを、延々、しゃべっているのだろう。それとも、連日の、斉藤さんの、ものすごいケンカについて?
そこを通って、家に入らなければならない。
……ああ、憂鬱。
だが、家の前には、誰もいなかった。
玄関の鍵も閉まっている。
買い物の途中で、上橋さんに捕まったのを、なんとか振り切ったのだろう。
拍子抜けした思いで、門まで戻る。
門柱の陰に、合鍵が、隠してあるのだ。
珍しく、斉藤さんの家は、窓が閉められ、しんとしている。幸島さんは、さっき、大通りにいたから、こちらも、静かだ。
門柱をまさぐっていると、呼ばれた気がした。
家の前の道路には、誰もいない。子どもたちも、背後霊のような、そのお母さんたちも。
こんなことは、初めてかも。
この辺り、こんなに静かだったんだ……。
きょろきょろしていると、お向かい永瀬さんの2階の窓で、何かが揺らぐのが見えた。
いつも締め切りの部屋だ。
白い顔が、僅かに覗いた。
あれ……?
ちょっと引っかかったが、たいして気にしなかった。
不意に、甘酸っぱい、強い匂いがした。
鼻が冷たい、と思った。
雪美の全身から、力が抜けた。
*
斉藤ユイラは、泣いていた。
御飯は、ちゃんともらえる。永瀬さんのおばちゃんは、ユイラのママよりも、料理が上手だった。冷凍食品やレトルトなど、チンするだけのおかずなど、一度も出てはこない。
「ごめんね、ごめんね」
2階の、ユイラの所に食事を運んで来るたびに、おばさんは、謝った。
けれども、決して、ユイラを外に出してくれようとは、しなかった。
そんなおばさんを、お兄さんは、時々、ひどく殴った。
それが、ユイラには、一番、怖かった。
お兄さんは、いつも、ユイラと一緒の部屋にいた。眠るときも、だ。
けれども、決してユイラに話しかけようとはしなかった。それどころか、ユイラの方を、見も、しなかった。
手足を縛っていた縄は、3日目には、解かれた。
その頃には、ユイラの体は、恐怖に凝り固まってしまって、逃げ出すことなど、到底、考えることさえ、できなくなっていた。
あの日。
ママと、マリンと、マリンの友達と、ハルンとアムトと、アムトの友達と、エレナとセイヤと、もっといたかもしれないけど、みんなで、楽しく遊んでいた。
そのうち、思いついてユイラは、お向かいの永瀬さんの塀の上に登ってみた。
塀は、2メートルほどの高さだった。けっこう、スリルがある。幅は、ちょうど、ユイラの片足くらいの広さだ。
ゆっくり歩いてみる。学校の平均台のようで、楽しかった。学校のより、高さがずっとあったので、スリルがあって、おもしろい。
すぐに、妹のマリンが真似をしてよじ登る。よろよろしていて、ろくに歩けない。マリンの友達は、下で見ていた。
一番下のセイヤが、ユイラを指差して泣き出した。
自分も、あの上に上りたい、と言っているのだ。
あんまり泣くから、ママが抱き上げ、永瀬さんの塀の上に登らせた。もちろん、下から支えている。
得意そうなセイヤは、ちょっと、憎らしかった。
へっぴり腰のマリンは、登った場所で立ち往生していたし、つまらないので、ユイラは、一人で、塀の上を、ずんずん歩いていった。
すぐに塀は、かくっと曲がり、敷地の奥の方へと続いていった。
ちらとママの方を見たが、セイヤにかかりきりだったので、ユイラは、そのまま、奥へ進むことにした。
初めて見る、永瀬さんの庭だ。
草ぼうぼうで、どっかその辺の、荒地のように見えた。
家も古く、窓は締めっきりである。
誰もいないようだ。
平均台歩きにもだいぶ、慣れた。
随分、早く歩ける。
庭の奥まで行き着いた。
そこでまた、90度の曲がり角があり、家の裏手へと、塀は、続いている。
家の陰になっていて、ちょっと、寒かった。でも、もう一回曲がったら、道路へと戻れるのだろう。
誰かの視線を感じた。下から見上げているような……。
まさかね。
ユイラは、スカートを上から押さえつけた。
日陰の塀は、ちょっと、湿気っていた。
あ、と思った時、ユイラは落ちていた。
初めて見るお兄さんが、そこにいた。
お兄さんは、言った。
「空から、女の子が落ちてきた」
そのままユイラは、家の中へと、連れ込まれた。
*
誰かの泣き声が聞こえる。
初めは、猫の声かと思った。にゃーにゃー、にゃーにゃー、うるさい。
いいかげん、静かにしてよ。漢字が覚えられない……。
そう思った時、だんだん焦点が合ってきて、雪美は、知らない部屋にいるのに気がついた。
無造作に、安物のカーペットの上に投げ出されている。なぜ安物かというと、体の下に、フローリングが痛かったからだ。掃除もろくにされていないとみえて、立て続けに、くしゃみが出た。
わ。喘息の発作がでちゃう。
一気に、意識が戻った。
雪美の隣の猫は、人間の女の子だった。うつむいて、泣いている。
「ユイラ、ちゃん?」
女の子は、ぱっと、顔を上げて言った。
「死んでなかったの?」
「……ここは?」
頭がぼんやりしたまま、雪美は尋ねた。
「永瀬さんち。お向かいの」
「ああ、そうだった」
雪美は、永瀬さんの家の、いつもは締め切りの窓から、白い顔が見えたのを、思い出した。
その時、ちょっと引っかかった。
いつも覗いてる、引きこもりのお兄さんの顔じゃなかったから。
……あれは、ユイラちゃんの顔だったんだ。
思わず雪美は尋ねた。
「何してんの、こんなところで」
「連れてこられたの。おうちに帰りたい」
「帰ればいいじゃん」
「外に出られないの」
「なんで?」
ユイラちゃんは、必死に考えているようだった。
雪美は体を起こした。少し、頭がぼんやりするが、どこも痛くない。
「帰ろ。私、勉強しなくちゃならないし」
ユイラちゃんの体が、固くなった。
雪美の背後を、じっと見ている。
雪美は、振り返った。
そこには、若い男が立っていた。
白い四角い顔、まばらな無精ひげ、四角く切った、奇妙な髪型……。
「誰……?」
男は言った。
「永瀬一朗。ここんちの、お兄さんさ。この辺のババアどもには、引きこもりって、言われてるだろ」
男は、不気味に笑った。いやな匂いがしそうな、脂じみた笑いだ。
「女の子が、2人になったね……」