入れ替わりの激しい隣家
その上橋さんが、うちのチャイムを鳴らしたのは、昼少し前のことである。
私は、夕食の買い物に出かけるところだった。夕方になると込むので、いつも、空いている昼の時間帯を狙うのだ。
「ねえねえ、聞いた? 斉藤さんのこと」
コートを羽織った私を、家の中へ押し込むようにして、上橋さんが話しかけてくる。
仕方なく、私は答えた。
「聞いたわよ。ユイラちゃん、帰ってないんですってね」
「その話じゃなくって」
「え? 子どもが行方不明よりも、重大な話って、あるの?」
「ユイラちゃんのことなら、知ってますよ。遅くまで一緒に探してあげて、でもいなくて、だから、ひょとしてお宅にいるんじゃないかしら、って教えてあげたの、私だもん」
「やっぱりねえ。斉藤さん、半狂乱だったわよ。私が車で跳ね飛ばして、隠してるって思ったみたいよ。警察だって、訪ねて来たんだから」
やっぱりこの人と付き合うのは、やめよう、と、本心から思った。
「あなただって、私が、酒井さん一家を追い出した、って、刑事に言ったでしょ」
恨みがましい目をして、上橋さんが言う。
酒井さんは、前に、隣にいた一家である。
子どもの放火未遂事件をきっかけに、お母さんの実家に引っ越していった。
まあ、直接のきっかけはそうかもしれない。だが……それ以前に……道路でのボール遊びについて、上橋さんが、関係各所に苦情を入れたのは、ほぼ、間違いない事実だ。少なくとも私は、そう、睨んでいる。
「あなただって、上橋さん。前に、私に向かって、同じことを言ったじゃない。しかも、メンと向かって」
上橋さんは、いいひとぶりだ。道路でのボール遊びがうるさいのは、自分も同じだったろう。むしろ、音に怯える姑がいる分、辛い思いをしていただろう。
それなのに、まるで私が、酒井さん一家を追い出したかのような物言いをした。
そのことを、私はまだ、根に持っている。
「陰で言うより、いいじゃない?」
私の皮肉も、一向に、上橋さんには応えない。
「よかないわよ。それに私は、酒井さんがうるさいって警察に苦情を言ったのは、上橋さんだって、言っただけ。追い出したとまでは言ってないわ」
「やっぱり、あなただったんだ」
「事実でしょ」
しばらく、お互いに、にらみ合った。
上橋さんが、蒸し返す。
「あなたね、車を運転しながら、悪態吐くからよ。お向かいの永瀬さんだって、聞いてたわよ」
「仕方ないじゃない。ただでさえ、運転、怖いのに、子どもらが、ちっとも、よけないんだもん」
「だったら、車になんか、乗らなきゃいいじゃないの」
「そういうわけには、いかないの」
「ふん。いずれにしろ、あれから斉藤さん、お宅に行ったんだ」
「やっぱりって、あなたねぇ! ……斉藤さんはなんでまた、ユイラちゃんがいないからって、まず、上橋さんちへ行ったわけ?」
「うちが信用できるしっかりした家庭だからよ。決まってるじゃない」
お宅と違って、とは、さすがに上橋さんは口にしなかったが、私の耳には、はっきりと聞こえた。
「あれは、7時過ぎだったかな。しばらく、一緒に、あちこち探してあげてたのよ。でも、ほら、うち、おばあちゃんがいるでしょ? あまり長く、放っておけなくて」
「それにしても、あんなにたくさん、ママ友だか親戚だかが、出入りしてるのに。なんだってまた、わざわざ、上橋さん……?」
イジワルなのに、は、口の中で言う。
「一通りは、電話をかけたみたい。でも、どこにもいなかったって」
「誰も、一緒に、探してくれなかったんだ」
「そういうことになるわね」
「かわいそう、かも……」
ゆうべ、家に戻ったら、ママ友の誰かにでも、応援を頼むのかと思たが……。
「お宅だけじゃなくて、幸島さんや永瀬さんにも聞いてみたら、って言ったのよ」
上橋さんの口調は、どこか、弁解くさかった。
「でも、幸島さんは共働きで帰りが遅いし、永瀬さんは、灯りがついてたけど……」
幸島さんは斉藤さんと反対隣の家で、永瀬さんは、向かいの家である。
「ああ、お兄ちゃんしかいなかったんでしょ。奥さんは夜間のパートだし、あのお兄ちゃん、引きこもりだから」
私が言うと、上橋さんは、頷いた。
「そうなのよ」
「ところで、斉藤さんの、お父さんは?」
「その話よ、私がわざわざ来たのは」
「ヒマだからじゃなかったの?」
「失礼ね。忙しいわよ。寝たきりの、おばあちゃんがいるからね。あのね、穂波さんが、見たんだって」
共通の、ウォーキング友達である。もちろん、穂波さんも、今では、ウォーキングを止めている。理由は……。言わずもがなである。
「見たって、何を?」
「うふふ」
上橋さんは、不気味に笑った。
「斉藤さんのお父さんがね。女の人と歩いてたの」
この手の話に、私は、取り合わない。
「そりゃ、人類の半分は、女だからね」
「腕組んで、夜の繁華街を、しっとりと……」
「斉藤さん母だったんじゃないの?」
「違うわよ。あのお母さんが、子どもをおいて、外出できるわけ、ないじゃない」
「それもそうね」
「穂波さんが言うには、奥さんよりも、遥かに、若かったって」
「また、物好きな……」
「おミズじゃなくて、普通の感じの人だったって。かえって、タチが悪いわね。タデ喰う虫も好き好きって、やつ?」
「じゃ、ひょっとして、ゆうべも?」
「ゆうべどころか! ここ数日、帰ってないわよ」
「なんとまあ」
「隣にいて、あなた、何にも、気がつかなかったの?」
「気がつくわけ、ないでしょ。昔の長屋じゃ、あるまいし」
「長屋とおんなじよ。声、筒抜けだもん」
「斉藤さんも、窓、閉めとけばよかったのにね」
そうすれば、父親が帰らないなどという重大な事実が、隣人……しかも、意地悪な方……に、漏れることはなかったのに。
確かにうるさい一家ではあるが、しかし、私の家には、そこまで、詳細な情報は、聞こえてこなかった。
つい、言ってしまった。
「あなた、この寒いのに窓開けて、聞き耳たててたんじゃないの?」
「ま、失礼ね。そんなヒマ、ありませんよ。私は、おばあちゃんの介護で、死ぬほど忙しいんだからっ」
憤然と、上橋さんは、帰っていった。
*
夜、真紀子から電話があった。
「それは、心配ね」
ユイラちゃんの話をすると、真紀子の声が、曇った。
「でも、静かになったでしょ」
「あなたね」
私は呆れた。
「隣の子が行方不明という時に、なんて不謹慎な」
「だって、うるさい、うるさいって、相当、悩んでたみたいだから……」
「それは、雪美の勉強の妨げになるからです」
「受験には、反対してたくせに」
「あの子は、優秀だから、レベルの高い学校へやるのは、親の義務」
「ほ。凄い変わりよう」
「それにね。ちっとも静かでないの。さっきから、ほら、聞こえる?」
「そういえば、なんだか、人の声?」
「海を渡って、フランスにまで聞こえちゃうの? すごーい。大喧嘩よ。斉藤さんの、お父さんとお母さんの」
怒鳴り声、罵声。
それに、残った子ども5人の泣き声が、唱和する。
「この騒音の中で、雪美は、勉強してるの。すごい集中力よ」
「そりゃ、どんな学校でも、合格間違いなしね」
「ところであなた、何か用だったんじゃないの? あなたの方から電話してくるなんて、滅多にないことだもの」
「あ、そうだった。急に休暇が取れてね。一時帰国しようと思うの」
「へえ。いつ?」
「明日の飛行機に乗るわ」
「全く、あなたって人は、いつも、突然……。こっちの都合ってものを、考えたことはないの?」
「どうせ、ヒマでしょ? 専業主婦だもん」
「悪かったわね」
ヒマだから訪ねてきたんじゃなかったのかと言った時の、上橋さんの顔が思い出され、悪いことを言ったかな、と、ちらりと思った。