深夜のアフリカ太鼓
夜、テレビのドラマを見ていると、インターフォンが鳴った。
最近では、宅急便の夜間配達などもあるが、夜の来客には、やっぱり不安を感じる。
「はい」
「斉藤です。開けて」
さしせまった女の声がした。
斉藤? お隣さんのお母さん? 子だくさんの。
でも、なんだか、違う人の声のようだ。
斉藤さんはすでに、庭を抜け、玄関先に立っていた。
私がドアを開けるのを待ちかねたように、家の中に入り込んでくる。
「うちのユイラ……。ユイラ、いるでしょ」
「ユイラちゃん?」
最も多く、母親が怒鳴りつけている、一番上の女の子だ。
確か、小学校の3年生……。
「いませんけど。まだ、帰ってないんですか」
もう9時近い。びっくりしてそう尋ねた。
「うそ。ここにいるはずよ」
「なんで……」
「隠してるでしょ、ユイラのこと!」
「斉藤さん、落ち着いて」
「まさか……。まさか、車ではね飛ばして……」
「なんてこと言うの!」
むっとするというより、むしろ驚愕して叫んだ。
「そんなことあるわけないでしょ。第一、今日は、車に乗ってはいませんよ。うちの車は一日駐車場に止めてあったの、お宅からだって見えてたでしょ。滅多なことは、言うもんじゃないわ」
一気にまくしたてた。
だって、私は、ゴールドライセンスのドライバーだ。その上、毎日、あんなに慎重に運転しているというのに。
特に、家の周りでは。
「上橋さんが……」
斉藤さんは不明瞭な言葉を発した。
私には悪意の源がだいたい見えた気がした。
その上で、当面の問題点を洗い出した。
「ユイラちゃんが、いなくなったのね?」
「ユイラ……」
「お友だちの家とか、電話してみた?」
斉藤さんは、きっとした目つきで、私を見返した。
「うちの子はいつも、家の前で遊ばせています。必ず、私の目の届くところに置いておくんです」
「今日も、外が賑やかだったけど。あなたの楽しそうな声も聞こえてたわ」
斉藤さんの顔が、歪んだ。
「私も一緒に遊んでたのに。いつの間にか、ユイラだけ、いなくなってた。他の子たちはみんな、いるのに。お友達だって……」
「その、お友達の家には、聞いてみたの?」
「もう、電話をかけてみました。でも、ユイラは、どこにも、いない」
「うちにも、いませんよ」
「もう、ここしかないのよ。隠しているに決まってる。きっと、車にはねられて、大怪我をさせられて……。かわいそうな、ユイラ! ユイラ!」
突然、斉藤さんは、私を押しのけて、家に上がりこもうとした。
「ちょっと、斉藤さん、ちょっと!」
私は驚いて、斉藤さんの後を追った。
斉藤さんは、土足だったのである。
ユイラ、ユイラ、と叫びながら、斉藤さんは、一階を走り回った。
トイレや風呂場はもちろん、和室の押入れまで開けてみる徹底ぶりである。
キッチンのシンクの下の戸棚を開けられた時は、この人、正気でないな、と感じた。
1階を見尽くすと、斉藤さんは、2階に駆け上がろうとした。
「斉藤さん!」
2階には、美弥と雪美がいる。私の声にも、それなりの迫力があったはずだ。今頃2人は、さぞや怯えているだろう。
何があったのか知らないが、あの子たちは無関係だ。
いなくなった自分の子どもが心配なのはわかる。だが、少しは配慮してほしい。
階段に足を掛けたまま、般若のような形相で、斉藤さんは振り返った、
血走った目で私を見据える。
「靴、脱いでもらえます?」
いや、私の言いたいことはそんなことではなかったのだが。
心のどこかで、ここは、家中を見せた方がいいような気がした。
家中を見せて、子どもがここにはいないことを、はっきりと確認させたほうがいい。
相手は、子どもを見失った母親である。言わば、手負いの獅子のようなものだ。
斉藤さんは、素直に玄関まで戻り、靴をたたきに脱ぎ落とした。
「ユーイーラー!」
悲鳴のような声で叫びながら、階段を駆け上がっていく。
呆れたことに、この大騒ぎにも関わらず、美弥は、眠っていた。
常夜灯を点けたほの暗い室内に、美弥の甘い香りが漂っている。
斉藤さんは、構わず電気をつけたので、私は、殺意さえ覚えた。
「ここには、ユイラちゃんはいないでしょ。美弥が目を覚ましちゃう。電気を消して」
怒りを抑え、やっとのことでささやいた。
部屋に踏み込まれ、クローゼットを開けられでもしたら、本当に美弥が起きてしまうと思った。
斉藤さんは、黙って電気を消した。
雪美は、こちらに背を向け、机に向かっていた。
イヤーマフをつけ、一心に、計算問題を解いている。
イヤーマフは、私が、四苦八苦して、人生初の、海外インターネット通販で、購入したものだ。スウェーデン製で、人の声の周波数も、ある程度は、シャットアウトしてくれるという。
もちろん、隣家の騒音対策である。暑いころは、汗ぐっしょりでイヤーマフをしていた雪美が、哀れであった。
雪美は、斉藤さんが近づく気配に、ぎょっとしたように振り返った。
「ユイラ、知らない?」
男女の別さえ感じられない固い声で、斉藤さんが尋ねた。
雪美は、わけがわからぬという顔で、ぽかんと、斉藤さんの顔を見ている。きっと心はまだ、計算の森にでもいるのだろう。
斉藤さんは、猛禽のように雪美の部屋に踏み込み、ベッドの布団を剥ぎ取ったりしている。
「ユイラ! ユイラ!」
イヤーマフをつけたまま、雪美は、身じろぎもしない。
閉められた窓の外から、今夜は、ディズニーのアフリカ太鼓の音が、暴力的にどんこどんこと流れ込んできていた。
隣家の、斉藤家からの騒音である。
斉藤さんの様子は、なんだかおかしいけど、この際だと思って、私は言った。
「ねえ、斉藤さん、聞こえる? お宅でかけてる音楽ね、この子の勉強部屋まで聞こえるのよ。ちなみに、うちの窓は、閉まってるから。防音のカーテンもしてある」
「ほんとだ」
斉藤さんはうつろな目で、私を見つめた。
「道で遊ばせる子どもらの声もね。雪美の勉強の妨げになるのよ。お互いさま、と言ったって、うちは、ここまでのことは、お宅にしてないはずよ」
もっともっと言いたかったが、斉藤さんは、聞いていないようだった。
だが、これだけは、斉藤さんの耳に手をかけて穴を広げてでも、言って聞かせたかった。
「雪美は、もうすぐ、受験なのよ」
「ババァの方が、うるさいんだよ。毎晩毎晩、うるさくないか、って聞きにきて」
それまで黙っていた雪美が、ふいにつぶやいた。
「なんだ。雪美。聞こえてるじゃないの」
「当たり前でしょ」
「ひどい耳当てね。高かったのよ、それ」
「……」
「勇気を出して、初めて、海外との取引をしたのよ? クレジット払いにしたけど、品物が届くまで、どれほどはらはらしたことか」
雪美は、黙って肩をすくめた。
部屋に子どもがいないとわかったからか、斉藤さんは、さっきとは別人のように、ぼーっとしていた。活動的な凶暴さは、すっかり陰をひそめている。
私は、斉藤さんを促した。
「さ、行きましょう」
「セイヤ!」
突然、斉藤さんが低くつぶやき、窓をがらりと開けた。
アフリカ太鼓の音が、たちまち大音量となって部屋の中に流れ込んできた。それに負けじと、赤ん坊の泣き声が重なる。
真向かいの窓は、相変わらず開けっ放しである。
私は咳払いをした。
「斉藤さん。ね? ユイラちゃんはうちにはいないわ。あなた、ご主人はどうしたの? セイヤ君は、一人で置きっぱなし?」
「お兄ちゃんとお姉ちゃんたちがいる」
斉藤さんは、床に崩れ落ちた。
「いない。いない。ユイラは、ここでもなかった……」
悲痛な声で泣き出した。
「ママー!」
隣家の窓に、小さな頭が五つ並んだ。
「マーマァ!」
母と赤ん坊を含む子どもたちと、合わせて6人の泣き声が合わさり、凄いことになった。
私と雪美は、目を見合わせた。