ペーパードライバー教習
教習所では、ペーパードライバー講習というのを、受講した。
あまりに久しぶりの運転なので、最初は、教習所の中を走ることにした。
随分長いこと、運転席に座っていない。それで、どちらがアクセルでどちらがブレーキか、忘れてしまっていた。
? もう一つ、ペダルがあった筈だが?
いろいろあって、なんとか車は走り出した。
「ふむ」
教官がうなった。
何日も何日も、教習所の中を、ぐるぐる走り回るばかりなので、いいかげん、あきあきした。
ここの教習所では、ペーパードライバー講習に、自分の車も使えるという。職場やスーパーなど普段よく行く場所まで、運転の練習をさせてくれるのだ。
もちろん、助手席には、教官が座ってくれる。
私の場合、家から駅まで行ければ、それだけいい。普段の買い物などは、今まで通り、自転車で十分、事足りる。
ようやく、構内教習が終わったので、私はさっそく、それを申し込んだ。
「いや、助手席にブレーキがついていないことですし、あなたの場合は、自家用車は、ちょっと……」
まだ若い教官は、頬を赤らめながら言った。
「自分の車に傷をつけたくないでしょ?」
「あら、少しの傷くらい……。それに、私の車じゃなくて、夫の車だから」
「それは……けど、ベンツは、ほら、丈夫ですし」
言い忘れたが、ここの教習所の売りは、練習車に、ベンツを使っていることである。
「だって、ベンツってお高いんですよね?」
そんな高級車に傷でもつけたら、教習所が大損すると、私は思った。
結果、このイケメン教官の給料が減らされたらかわいそうだし?
「断然、ベンツがいいです。頑丈だし、他の車とぶつかっても、負けません」
必死な目をして、教官は言い張った。
さっきから、ベンツベンツ、言っている。
高級車に乗りたいのは、彼の方なのかもしれなかった。
だったら、その願望に協力してやるくらいの優しさは、私も持っているつもりだ。
それにちょっと、「ベンツ」ってドイツ車に乗ってみたかったし?
なにしろうちのは、ぼろぼろのマーチである。
結局、ベンツで、教習を受けることになった。
*
路上に出てからは、わりとすんなりと運転できている。
ほらね。
一度取ったキネヅカ、ってやつよ。
ただ、私は左折が苦手である。得意な人もいないと思うが。
左は、運転席から見えにくく、距離感がつかめない。
これはもう、カンで、えいっ、と曲がるしかない。
「ちょっと!」
教官が呼び掛ける。
「だいじょうぶ、こすってませんから」
即座に私は応えた。
突っ立っている電柱を、車はうまく回り込んでいた。
我ながら、大した腕前である。
しかし、いつになったら我が国は、全ての電柱を地中に埋めるのだろう……。
カーブで減速したスピードを、再び上げる。
「うおぉぉぉ」
妙な雄叫びを、教官が挙げた。
胸の前を横切るシートベルトにしがみついている。
「あの、ですね! これは、ゴーカートじゃないんですよ!」
「わかってますって、それくらい」
路上に出るまでに、いったい、いくらかかったと思っているのか。
ゴーカートに、そんなお金がかかるわけがない。
あ?
それとも、これは、教官からのお誘い?
一緒に遊園地に行きたいとか?
ダメよ。
私には夫がいる。
別居中だけど。
次の左折がやってきた。左側はガードレールである。電柱よりマシと思われたのだが……。
大きな音がした。
金属のこすれるいやな音である。
それ以上に、この音の源が、自分であるということが、普段、物静かに暮らしている私には堪えられなかった。
思わず、悲鳴をあげてしまった。
「落ち着いて」
教官が、教習車の補助ブレーキを踏んだようである。
車はカーブの真ん中で停車した。
後続の車がクラクションを鳴らす。
「アクセル! アクセル!」
「踏んでますって」
「いや、それじゃなくて、右の、右、右!」
教官は「右」を連呼し、さすがに私も慌てた。
後ろからのクラクションはいよいよたけり立つ。
「だから、左じゃなくて、右のペダル!」
「ちょっと待って!」
私は、教官を制し、運転席側の窓を開けた。
後ろを振り返る。
窓から体を乗り出した。
「ブーブーうるせーんだよ、このタコ! 教習車だってのが、わからねーのか、ボケ! 静かにしやがれ!」
後続車の運転手が、がくんと口を開けたのが見えた。
満足して私は、顔を引っ込めた。教官に言われた通り、右のペダルをぐっと踏み込む。
車は、急発進した。
「……」
重力でぐっと背もたれにおしつけられ、教官は無言である。
きっと私の素晴らしい語彙に、感心しているのだろう。
快適なドライブが続いた。
大通りに出た。
教官は、路肩へ寄って止まるように指図した。
私は、素直に指示に従い、2度ブレーキを踏んで、静かに停車した。
芸術的な停止だった。
欅の大木が、豊かに葉陰を落とすしていた。ここは、のどかでロマンティックですらある、市の目抜き通りだ。
「運転は、止めたほうがいい」
教官は言った。
真剣な口調だった。
「少なくとも、免許を持っている人を隣に乗せてでないと、運転しちゃダメだ。信子さんご自身のためだから」
青い顔をした私より若い教官は、まるで恋の告白のように、真心をこめて、囁いた。
「そもそも、なんで、いまさら、車の運転をしようなんて思い立ったんです?」
「だって、小学校6年生の女の子に、夜、駅から自転車で帰らせるわけにはいかないでしょ!」
塾が終わり、最寄り駅に着くのは、すでに10時を回っている。夜は、かなり寒い。 暗く寒い夜道を、雪美に、自転車で帰らせるわけにはいかないではないか。
教官は、わけがわからないという顔をした。
この教官は、独身らしい。薬指に指輪をしていない。子どものいない人には、わからなくても無理はなかろう。
無言で、教習所まで帰り着いた。
*
ペーパードライバー教習には、オプションで、高速教習もついていた。教習車で、最寄りの高速道路を突っ走る、あれである。
……高速。
もしかしたら、塾あるターミナル駅まで、雪美を迎えに行く事態が出来しないとも限らない。
地震。スト。テロ。大雪。
何が起こって、電車が止まってしまうか、わからない。
そうしたら、私が雪美を、迎えに行かなければ!
高速教習を申し込むと、件の教官の顔が、みるみる青ざめた。
気の早い冬の風邪が、はやりつつある。
お大事に、と言って、私は、教習所を出た。
翌週の高速教習には、教習所の所長が同行した。
いつもの教官は、この春、結婚予定だからと、所長は言った。
「ここで死にたくない、って、泣いて頼まれてねえ」
白髪の所長は、がははと笑った。
言ってることが、意味不明である。これだから年寄りは!
普通は、行きと帰りで、違う教習生が高速道路を走らせる。高速教習には、教官の他、教習生が2名、同乗する。往路と復路で、2人分の教習を行う為である。
私は往路を運転したが、後部座席に乗る教習生は、いなかった。
復路は、所長が運転した。
まあ、これなら、と、しぶしぶ、ペーパードライバー教習が終了した頃には、冬の気配が、街を覆っていた。
冬に間に合った。これで、雪美を駅まで、送り迎えができる。
最後に教習所へ行った時、件の教官が出てきた。
私のことが心配だと、真摯に、彼は言った。
これからは毎日、新聞を見て、事故の記事に気をつけていると、彼は、約束してくれた。