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専業主婦!  作者: せりもも
第3章 隣の道路族
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ペーパードライバー教習


 教習所では、ペーパードライバー講習というのを、受講した。



 あまりに久しぶりの運転なので、最初は、教習所の中を走ることにした。


 随分長いこと、運転席に座っていない。それで、どちらがアクセルでどちらがブレーキか、忘れてしまっていた。


 ? もう一つ、ペダルがあった筈だが?



 いろいろあって、なんとか車は走り出した。


「ふむ」

教官がうなった。



 何日も何日も、教習所の中を、ぐるぐる走り回るばかりなので、いいかげん、あきあきした。



 ここの教習所では、ペーパードライバー講習に、自分の車も使えるという。職場やスーパーなど普段よく行く場所まで、運転の練習をさせてくれるのだ。


 もちろん、助手席には、教官が座ってくれる。


 私の場合、家から駅まで行ければ、それだけいい。普段の買い物などは、今まで通り、自転車で十分、事足りる。



 ようやく、構内教習が終わったので、私はさっそく、それを申し込んだ。




「いや、助手席にブレーキがついていないことですし、あなたの場合は、自家用車は、ちょっと……」

 まだ若い教官は、頬を赤らめながら言った。

「自分の車に傷をつけたくないでしょ?」


「あら、少しの傷くらい……。それに、私の車じゃなくて、夫の車だから」


「それは……けど、ベンツは、ほら、丈夫ですし」


 言い忘れたが、ここの教習所の売りは、練習車に、ベンツを使っていることである。


「だって、ベンツってお高いんですよね?」


 そんな高級車に傷でもつけたら、教習所が大損すると、私は思った。

 結果、このイケメン教官の給料が減らされたらかわいそうだし?


「断然、ベンツがいいです。頑丈だし、他の車とぶつかっても、負けません」


 必死な目をして、教官は言い張った。

 さっきから、ベンツベンツ、言っている。

 高級車に乗りたいのは、彼の方なのかもしれなかった。


 だったら、その願望に協力してやるくらいの優しさは、私も持っているつもりだ。


 それにちょっと、「ベンツ」ってドイツ車に乗ってみたかったし?

 なにしろうちのは、ぼろぼろのマーチである。



 結局、ベンツで、教習を受けることになった。







 路上に出てからは、わりとすんなりと運転できている。

 ほらね。

 一度取ったキネヅカ、ってやつよ。



 ただ、私は左折が苦手である。得意な人もいないと思うが。

 左は、運転席から見えにくく、距離感がつかめない。

 これはもう、カンで、えいっ、と曲がるしかない。


 「ちょっと!」


 教官が呼び掛ける。


「だいじょうぶ、こすってませんから」


 即座に私は応えた。

 突っ立っている電柱を、車はうまく回り込んでいた。

 我ながら、大した腕前である。

 しかし、いつになったら我が国は、全ての電柱を地中に埋めるのだろう……。


 カーブで減速したスピードを、再び上げる。


「うおぉぉぉ」


 妙な雄叫びを、教官が挙げた。

 胸の前を横切るシートベルトにしがみついている。


「あの、ですね! これは、ゴーカートじゃないんですよ!」


「わかってますって、それくらい」


 路上に出るまでに、いったい、いくらかかったと思っているのか。

 ゴーカートに、そんなお金がかかるわけがない。


 あ?

 それとも、これは、教官からのお誘い?

 一緒に遊園地に行きたいとか?


 ダメよ。

 私には夫がいる。

 別居中だけど。



 次の左折がやってきた。左側はガードレールである。電柱よりマシと思われたのだが……。

 大きな音がした。

 金属のこすれるいやな音である。


 それ以上に、この音の源が、自分であるということが、普段、物静かに暮らしている私には堪えられなかった。


 思わず、悲鳴をあげてしまった。


「落ち着いて」


 教官が、教習車の補助ブレーキを踏んだようである。

 車はカーブの真ん中で停車した。


 後続の車がクラクションを鳴らす。



「アクセル! アクセル!」

「踏んでますって」

「いや、それじゃなくて、右の、右、右!」


 教官は「右」を連呼し、さすがに私も慌てた。

 後ろからのクラクションはいよいよたけり立つ。


「だから、左じゃなくて、右のペダル!」


「ちょっと待って!」


 私は、教官を制し、運転席側の窓を開けた。

 後ろを振り返る。

 窓から体を乗り出した。


「ブーブーうるせーんだよ、このタコ! 教習車だってのが、わからねーのか、ボケ! 静かにしやがれ!」


 後続車の運転手が、がくんと口を開けたのが見えた。

 満足して私は、顔を引っ込めた。教官に言われた通り、右のペダルをぐっと踏み込む。

 車は、急発進した。


「……」


 重力でぐっと背もたれにおしつけられ、教官は無言である。

 きっと私の素晴らしい語彙に、感心しているのだろう。



 快適なドライブが続いた。



 大通りに出た。

 教官は、路肩へ寄って止まるように指図した。


 私は、素直に指示に従い、2度ブレーキを踏んで、静かに停車した。

 芸術的な停止だった。



 欅の大木が、豊かに葉陰を落とすしていた。ここは、のどかでロマンティックですらある、市の目抜き通りだ。



「運転は、止めたほうがいい」


 教官は言った。

 真剣な口調だった。


「少なくとも、免許を持っている人を隣に乗せてでないと、運転しちゃダメだ。信子さんご自身のためだから」


 青い顔をした私より若い教官は、まるで恋の告白のように、真心をこめて、囁いた。


「そもそも、なんで、いまさら、車の運転をしようなんて思い立ったんです?」


「だって、小学校6年生の女の子に、夜、駅から自転車で帰らせるわけにはいかないでしょ!」


 塾が終わり、最寄り駅に着くのは、すでに10時を回っている。夜は、かなり寒い。 暗く寒い夜道を、雪美に、自転車で帰らせるわけにはいかないではないか。


 教官は、わけがわからないという顔をした。

 この教官は、独身らしい。薬指に指輪をしていない。子どものいない人には、わからなくても無理はなかろう。


 無言で、教習所まで帰り着いた。







 ペーパードライバー教習には、オプションで、高速教習もついていた。教習車で、最寄りの高速道路を突っ走る、あれである。


 ……高速。


 もしかしたら、塾あるターミナル駅まで、雪美を迎えに行く事態が出来しないとも限らない。


 地震。スト。テロ。大雪。

 何が起こって、電車が止まってしまうか、わからない。

 そうしたら、私が雪美を、迎えに行かなければ!



 高速教習を申し込むと、件の教官の顔が、みるみる青ざめた。

 気の早い冬の風邪が、はやりつつある。

 お大事に、と言って、私は、教習所を出た。


 


 翌週の高速教習には、教習所の所長が同行した。


 いつもの教官は、この春、結婚予定だからと、所長は言った。

「ここで死にたくない、って、泣いて頼まれてねえ」

 白髪の所長は、がははと笑った。


 言ってることが、意味不明である。これだから年寄りは!


 普通は、行きと帰りで、違う教習生が高速道路を走らせる。高速教習には、教官の他、教習生が2名、同乗する。往路と復路で、2人分の教習を行う為である。


 私は往路を運転したが、後部座席に乗る教習生は、いなかった。

 復路は、所長が運転した。




 まあ、これなら、と、しぶしぶ、ペーパードライバー教習が終了した頃には、冬の気配が、街を覆っていた。

 冬に間に合った。これで、雪美を駅まで、送り迎えができる。




 最後に教習所へ行った時、件の教官が出てきた。

 私のことが心配だと、真摯に、彼は言った。

 これからは毎日、新聞を見て、事故の記事に気をつけていると、彼は、約束してくれた。










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