ゴールド免許
「あーら、いいじゃない。おおらかな隣人で」
国際電話で愚痴ると、真紀子はそう、言った。
むっとして、私は言い返した。
「とんでもない。これは、家族至上主義だわ。ファッショだわ。子沢山家族の暴力よ。毎日、家で6人の子どもと遊んでるなんて、専業主婦極まれりというところだわ」
「自分だって、専業主婦のくせに」
「あそこは、ご主人も一緒なのよ? いったい、どういう仕事をしているのかしら。なんだか、働いていないみたいだけど」
「ほらほら、人様のことなんか、気にしないものよ」
「子沢山なら、何をやってもいいってことには、ならないのよ」
「どうやら、専業主婦にも、ヒエラルヒーがあるみたいね」
真紀子はため息をついた。
「だいたい、いつも家にいるからいけないのよ。だからついつい、お隣のことが気になるんでしょ」
「私は、家で、遊んでるわけじゃないのよ。家のことが、いろいろあるのよ!」
「はいはい、専業主婦のヒステリーね。働いていれば、近隣のことなんか、気にとめている余裕なんてないものよ」
諭すように、真紀子は言った。
「だって、雪美がかわいそうよ!」
私は涙声になっていた。
連日、騒音爆音を聞かされ、いささか平静さを失っていたのかもしれない。
*
外のものすごい大騒ぎをものともせず、雪美は、黙々と勉強していた。
こうなってみると、ありがたいのは、塾である。
子どもの塾通いには反対だったけど、でも、こういう近隣の事情もあるのだ。自宅学習に妨害が入るのなら、もう、塾で勉強するしかないではないか。
ひょっとして、日本の住宅事情を勘案して、塾というものはあるのかもしれない。
かねがね私は、孟母三遷の教えは、親の義務である、と思っていた。つまり、子どもの為には、引っ越しをも辞さない孟子の母を例に引いた教訓……教育には、最高の環境が必要である、というアレである。
しかし、築ン十年の古家、そうそう売れるとは思わないし、今更ローンを組んで、新しい家が買えるわけでもない。
そこで、教習所である。
いや、話が先走ってしまった。
その前に、2学期に入って、雪美の成績が急上昇したことを報告しておかねばならない。
夏休みから数回行われた模試で、雪美は、常に高得点をマークした。その結果、塾側から、志望校のレベルを引き上げることを提案されたのだ。
なぜ塾は、かくまで生徒の志望校レベルを上げることに熱心か。
もちろん、少しでも偏差値の高い学校に、一人でも多く合格させた方が、彼らの評価向上に繋がるからだ。
時給払いの先生などは、給料に直結するだろう。
そのくらいのからくりは、いくら社会に疎い専業主婦の私でもわかる。が、今回ばかりは、私も、塾側に与した。
だって、雪美は優秀だからだ。
それは、もちろん、私の家系の血を引いたからだ。
伸びる要素を持った子だから、もっともっと、伸ばしてあげたい。
そう思うのは、当たり前のことではないか。
ただ問題は、今まで通っていた市内の塾では、そうした、最難関校受験に対応できない、ということだ。
その為、塾の本校に通うように言われた。そこには、あちこちから集められた優秀な子たちの為の、最難関校受験クラスがあるのだ。
ベテランの指導陣、きめこまやかなバックアップ体制や豊富な情報量に加え、優秀な子同士の切磋琢磨は、きっといい影響を雪美に与えると、塾に頼まれて説得に来た近藤は、力説した。
何より、最難関校受験クラスは、ほぼ毎日、授業がある。そして、土・日を含め、自習室は使いたい放題。
いままでの塾は、授業は週2回で、模試のある日以外は、土・日はお休みだったから、必然的に自宅学習の日が多かった。
つまり、斉藤家の脅威に晒されてばかりいた。
しかし、本校へ通うようになれば、授業が増え、その上、自習室だってある。ストレスフルな環境から逃してやることはできるというものだ。
雪美が家にいる時間が減るのはさみしいが、もっと大局的な目でみてやらないと、かわいそうである。
私たちは、優秀な子を、天から預かっているのだから。
どうせ、高価な月謝は、近藤が出すのだし。
私があっさり承諾したので、近藤は、拍子抜けしたようだった。
そうなってみると、塾への行き帰りが、心配だった。
本当は、私がずっとついていってあげられればいいのだが、うちにはまだ、美弥がいる。
夜、美弥を一人でおいていくわけにはいかない。
塾の最寄り駅は、大きなターミナル駅だった。
駅から塾までは、地下道で3分ほどの距離である。心配はいらないと、塾の先生は力説した。それに、ターミナル駅には、近藤の会社もある。
どちらかというと、家から駅までの方が、心配だった。
近藤は、バスで通わせたら、と言ったが、その後に、電車での通学が控えていることを考えると、或いは、帰りの疲労を考えると、路線バスはなんとも酷な気がする。本数が少ないから、待ち時間だって、結構長い。
これから寒くなると、バスを待っているだけでも、風邪を引きそうに思える。
せめて、最寄り駅までくらい、車で送迎してあげたい。
せつに、そう、思った。
ところで、私は、免許は、持っている。
僭越ながら、ゴールドである。
だが、もう、ここずっと、車の運転はしていない。
それは、私の運転が下手だからではなく、車社会の弊害を考えてのことである。便利さや快適さが暴力のようにまかり通っているこの国に、一石を投じたかったのだ。
いわば、スローライフのさきがけである。当たり前のことをカタカナ言葉で言うのは嫌いなのだが、わかりがいいのだから仕方がない。
車での移動に慣れてしまえば、足腰が弱って生活習慣病を誘発し、医療費の不必要な増大を招き、ひいては国家予算を圧迫する。
また、車の排ガスは、地域の住民に喘息を引き起こす。
夜中に胸をヒューヒュー言わせ、顔を紫色に変色させた子どもを、一度でも見たことがあるならば、車に乗ることをためらうのは、当然のことだ。
まして、バスや自転車などの、代替手段があるならば。
私が一向に運転しようとしなかったので、口の悪い真紀子などは、免許を返納した方がいいんじゃない、などと毒づいていたものだ。私自身も、便利なばかりが快適さではないとアピールする為に、免許なぞ返してしまった方がいいかな、と考えたこともあった。
だが、ここへ来て、状況は一変した。
木枯らし吹きすさぶ停留所で、雪美にバスを待たせるわけにはいかない。
ちなみに、雪美は、最初、今まで一緒に勉強してきた琴絵ちゃんと別れるのはイヤだと主張した。だが、塾の先生に説得されたようだ。
いくら仲良しだって、琴絵ちゃんと一生、一緒にいられるわけではない。
同じ中学を受験したとしても、試験はミズモノ、二人はライバルでもある。
同じ学校を受けて、どちらかが受かってどちらかがダメだったら、それこそ、目も当てられない。
それに、女の友情など、はかないものよ。
長く女を張ってきた経験から、そう、アドバイスしてやったが、雪美はいつものように、ふん、と、鼻を鳴らしただけだった。
最終的に、その琴絵ちゃんに、もっともっと頑張りなよ、雪美ちゃんがいい中学に受かったら、私も鼻が高いよ、と励まされて、とうとう、雪美も、本校へ移ることを決意した、らしい。
らしい、というのは、女の子二人の友情について、私は、雪美から、詳しい報告を受けていないからだ。