かわいい赤ちゃん
「セイちゃん、えらーい。すごーい」
外で叫び声が聞こえる。
もう、30分ほど、同じ意味のことを、叫んでいる。
雪美と美弥を学校に送り出し、掃除洗濯を済ませ、ほっと一息入れていたところだった。斉藤さんの奥さんが、あまりに長時間、甲高い声で叫び続けるので、外に出てみた。
声が近いと思ったら、斉藤さんの奥さんは、うちの駐車場で、小さい子どもの手を引いて、歩かせていた。
えーと。これが、一番下の赤ん坊だったかな? ってゆーか、何か用?
だが、斉藤さんは、私になど、別に用ありげには見えなかった。
しいて言えば、子どもを見せびらかしに来た、とか?
うるさい隣人ではあるが、歩き始めたばかりの赤ん坊は、確かにかわいらしかった。
引き寄せられるように母子に寄って行き、ひとしきり、お上手を並べた。
「でも、子どもを道路で遊ばせるのは、危ないわよ」
ひとしきり、子どもをほめてから、私はさり気なく言った。
本当はそこは、道路などではなく、うちの駐車場で、現にその子どもは、うちのマーチに抱きついているわけだが、あえてそのことには触れなかった。
「大丈夫ですよ、親がちゃんとみてますから。私たち、子育てを楽しもうって思ってるんです」
斉藤さんの奥さんは、にこやかに、そうのたまった。
「子ども達を外で遊ばせるのは、大事だと思うんです。今の子は、家でゲームばっかだから」
正論だ。
子ども達という、錦の御旗を振りかざした、完全無欠の正論である。
私は、全身に力をこめて、愛想笑いを搾り出した。だがそれは、多分に、ひきつっていたと思う。
斉藤さんは、続ける。
「お宅の雪美ちゃん? 偉いですわね。うちの子たちがわいわい遊んでいる脇を、黙って通って、塾に通ってるんですもの」
愛想笑いが凍りついた。
「うちの子たちったら、ちっとも勉強しなくて。でも、子どもは、元気なのが一番」
おほほ、斉藤さんの奥さんは、一層甲高い声で派手に笑った。
ちょうどそこへ、職場へ行く幸島さんの奥さんが通りかかった。
「おはようございます」
どこか強張った笑みを浮かべて、幸島さんは挨拶をした。
30代半ばだと思うが、幸島さん夫婦には、子どもがいない。そして、犬を飼っている。大きな、毛むくじゃらの、白い犬である。おとなしい犬だし、室内で飼っているのだが、時折、鳴き声が聞こえる。
うちは、家がすぐ接しているので、万が一、不都合があると悪いと思い、お使い物を差し上げたりのおつきあいはしている。
だが、幸島さんも、他の近所づきあいは、あまりしていないらしい。時折、犬友達がやってくるのを見かけるばかりだ。
「おはようございまーす」
斉藤さんはほがらかな声で挨拶を返したが、幸島さんは、目を伏せ、軽く会釈をしたきりだ。そのまま、足も止めずに通り過ぎてしまった。
明らかに、息子をほめてもらいたかったらしい斉藤さんは不満そうだった。が、出勤の途中なのだから、仕方あるまい。
「あーら、何の騒ぎかしら」
かちゃりと玄関ドアが開く音がして、大きなゴミ袋を持った上橋さんがやってきた。
「歩き始めたんですって。ほら、かわいいわよ」
底意地の悪い上橋さんとは、ここのところ、なるべく付き合わないようにしているのだが、赤ん坊のあまりのかわいさに、私はつい、返事をしてしまった。
「あらあら、家族に先のある人はいいわね」
上橋さんは笑った。乾いた目は笑っていない。じっと私を見ている。
仕方がないので、聞いてやった。
「おばあちゃん、お元気?」
「死にそうもないわよ」
「あの、上橋さんのおばあちゃんって、ご病気なんですか?」
心配していることを表すためか、眉間に皺を寄せて、斉藤さんはそう尋ねた。
「もう、何年も寝たきりなの。だから私も、ずうーっと、家にいなくちゃならないの。仕事にも出られなくって」
わが意を得たりとばかり、上橋さんがまくしたてる。
姑介護の愚痴をこぼす、絶好の機会である。
「まあ。知らなかった」
のけぞって、斎藤さんが驚く。
あれだけ大声で、悲鳴をあげるおばあちゃんに気がつかないとは、斉藤家の騒々しさは、推して知るべし、である。
上橋さんは、苦虫を噛み潰したような顔をして、尋ねた。
「うちのおばあちゃん、うるさくはないかしら?」
「ぜーんぜん。うちも賑やかですからー!」
……上橋さん、あんたの皮肉は、通じてないよ。
私は、突っ込みを入れてやりたくなった。
とはいえ、斉藤さんの奥さんは、無防備過ぎる。
優しいおばさんを装ってはいるけど、上橋さんは、コワいヒトなのだ。
まさか、直球ど真ん中に教えてあげるわけにもいかず、私は、遠まわしに言った。
「おばあちゃん、大きな物音に怯えるんですってね」
上橋さんは、じろりと私を睨んだ。
「戦争経験者だから、仕方ないでしょ。でも、大丈夫。快適に過ごしてますよ。ま、中には神経質な人もいるでしょうけど、気にしないことよ。静かにさせてるなんて、子どもが、かわいそうだもん。ねえ、永瀬さん!」
最後の一言は、丁度、門から出てきたばかりの、お向かいさんに向けられたものだ。
私は、子どもがうるさいなんて、心で思いこそすれ、今まで、一言も言ってはいないのだが。
斉藤さんとこは、うるさい。
これが、上橋さんの、真実の叫びであろう。
自転車で、走り始めたばかりの永瀬さんは、いきなり呼びかけられて、ぎょっとしたようにつんのめって、止まった。
「お、おはようございます!」
上橋さんに声をかけられ、明らかに怯えている。
「あなたもそう思うわよねえ」
「は?」
「うちとか、斉藤さんの物音、うるさいかしら?」
「いいえ、うちにも子どもがいますから」
物音、と聞かれて、子ども、と応えた。
そりゃ、窓を開けっ放しで大騒ぎをすれば、隣や向かい合っている家は、うるさいに決まっている。
ただ、言わないだけである。
ところで、永瀬家には、お子さんが2人いる。2人とも、もう、大きい。娘さんは、この春、東北の大学へ進学して家を出たが、上のお兄ちゃんは、地元の大学を卒業後、引きこもりをしている。
「ほら、気にならないって、さ」
私の方を見ながら、上橋さんは、言い放った。
斉藤さんは、にこにこ笑って、立っている。
「あのう、私、パートに行かないと」
おずおずと永瀬さんがお伺いを立てる。
「あら、ごめんなさい。引き止めちゃったんでなければいいけど」
許可が出て、永瀬さんは、矢のように走り去っていった。
私は、非常に不愉快であった。