サバのミラノ焼き
サバの頭を取り、内臓を抜いて、三枚に下ろす。
夫とは、別居している。だから、夕食には、子どもの好きなものを作っていい。
しかし、だからといって、ハンバーグやカレーやカラアゲや、そんなものばかり食べさせていたら、将来が心配だ。全ての保護者は、幼い者の体への責任を、全身全霊で果たさなければならない。
とはいえ、サバの味噌煮よりは、チーズを混ぜたパン粉をたっぷり塗りつけて、オリーブオイルで焼いてやるくらいの甘やかしは、許されるであろう。青魚は健康にいいが、まずは、食べてもらわなければ話にならない。
サバのミラノ焼き、というそうだ。料理の本に書いてあった。いかにもイタリアのママンが作りそうな手料理である。
専用の毛抜きで、丁寧にサバの小骨を抜いていると、六年生になったばかりの雪美が帰ってきた。
妹とは反対に、つぶやくような「ただいま」と共に、ドアが開閉される、静かな音がする。
「お帰り。おやつ……」
「太るからいい」
私がうるさく言うので、キッチンに顔を見せには来るが、そのまま自室に直行しようとする。
「そんなこと言わないで。少し食べてみたら」
「いらない」
まあ、いつものことだ。わかってはいる。けれども、毎日、美弥の分と共に、雪美のおやつも用意してしまう。見向きもされないそれは、結局、私のお腹に納まるのだけれども。
「学校、どうだった?」
もう少し雪美と話したくて発する、いつもの問い。
「フツー」
「雪美、」
「今日、塾だから」
言い置いて、さっさとキッチンから出て行ってしまう。
「塾なんて……」
雪美はこの春から、週に3日、進学塾に通い始めた。
中学受験をするというのだ。
私は、受験はもちろん、塾通いにも反対した。
塾へ行くには、交通量の多い道を自転車で通わねばならない。帰りはなんと、夜の9時過ぎ。私に言わせれば、夜中だ。自動車で送り迎えする保護者もいるようだが、私は車に乗れないし。
春とはいえ、夜はまだ肌寒い。ライトをつけ、重いペダルを踏みしめ踏みしめ、よろよろと帰ってくる雪美を思うと、涙が出そうになる。少なくとも小学生のうちは、夜になったら、暖かい安全な家で守られているべきだ。
「お父さんが、塾へ行ってもいい、って、言ったから」
そうなのだ。塾に行きたいと言い出したのは、雪美本人なのだ。それなら金は出すと、近藤も賛成した。
繰り返すが、私は反対だった。今でも、塾という選択は誤りだったと思っている。
小学校の国語・算数くらいなら、私にだって、充分教えられるのに。
塾では、中学入試を前提に、志望校の入試問題に類似した問題を、マシーンのように、無機質に詰め込まれるという。小学生の今から、そんな勉強法をしていたら、大学受験の前に、燃え尽きてしまうのではないかと、大変心配だ。
だいたい、なぜ、地元の公立中学ではいけないのか。この地域の公立中学校は、授業ができないほど荒れているわけでもないし、通っている子ども達は、おおむね、礼儀正しい。近藤は、みそくそ一緒の公教育の弊害をえんえんと述べ立てたが、そんなに公立学校が信じられないのなら、小学校から私立へ放り込めばよかったのだ。そこまでの資力はないくせに、半端に中高一貫校なぞ、片腹痛い。
暖かいキッチンを出た雪美が、部屋から塾カバンを取って来て、そのまま出かけようとする気配がした。
慌ててエプロンで手をふきふき、玄関へ走る。
鼻先でドアが閉まろうとしていた。
「気をつけて行ってくるのよ!」
ドアの透間に身をこじ入れるようにして叫ぶ。心配で心配で、仕方がない。
「慌てて行っちゃ、駄目だからね。少しくらい遅れてもいいから、焦って走ったらだめよ」
雪美を追ってスリッパのまま外へ飛び出し、慌てて戻ってきて、サンダルに履き替える。自転車をずるずると引き出している雪美の傍らにぴったりとくっついて、なおも言い募る。
「帰りは暗くなるからね。必ずライトをつけて、歩道を走ったってかまわないから、車にぶつかるよりは、歩行者をはねた方が、まだ……」
「うるせぇよ、ババァ」
雪美は自転車にまたがり、走り去っていった。