隣家の引っ越し
寒くなる前に、突然、酒井さん一家は引っ越していった。
夜遅く、戸外で放置されているシュンスケをどうしようかと悩んでいた矢先だったので、ほっとした。
意見などしようものなら、あの、若作り酒井母に、どのような仕返しをされるかと、いまいち、食指が動かなかったのだ。
といって、虐待と通報するのもねえ。
あのお母さんも、仕事が終わってから、一応、遊んでやってたわけだし。
自分のストレス解消を兼ねてたわけだけど。
引越しの挨拶はなかった。まあ、期待はしていなかったけど。
聞いた話によると、放火で指導された息子にキレた母が、警察官の前で、手を上げたのだそうだ。
それがきっかけとなって、同じ市内の奥さんの実家で、おじいちゃん、おばあちゃんと、同居するようになったのだそうだ。
今、シュンスケの世話は、おばあちゃんが、つまり、お母さんのお母さんが、親身になってみているそうだ。
主婦《風》の噂で伝わってきた。
よかったではないか。
おはようございますを言っても、顎をしゃくるだけで返事もしない、あの尊大な父親は、マスオさん状態になったわけだ。
妻の実家で、さぞや小さくなっていることであろう。
愉快、愉快。
毎朝、うちの前に、同じ銘柄の煙草の煙草が投げ捨てられることもなくなった。
上橋さんとの賭けも、ご破算になってしまった。離婚するかどうか、その後の経過がわからなくなってしまったからだ。
「あーんたのせいじゃない? 酒井さんが引っ越したの?」
突然大きなトラックがきて、酒井家が引っ越して行った翌日。
回覧板を持ってきた上橋さんが、いやな目つきで言った。
「なんで私が?」
胸にやましいところのない私は、むっとして問いただした。
「だって、子どもが道路で遊んでいると、雨戸をびしばしって、音たてて閉めてたじゃない」
「雨戸って、暗くなったら閉めるもんでしょ。悪いわねえ、たてつけが悪くって」
「あらまあ。私はてっきり、ボールの音がうるさいぞって言いたいんだと思ってたけど?」
「いいえぇー。子どもは外で元気に遊ぶべきでしょ? 私は、外の物音なんて、気にしてないわよ」
「家の塀にボールをぶつけられても、平気?」
「あら。うちの前で遊んでいたのかしら。雨戸を閉めてしまうんで、さっぱりわからなかったわ」
さらっと流す。
「もちろん、うちも気にしてなかったけどね。聞こえないも同じこと」
上橋さんは、しゃあしゃあと言い放った。
上橋さんの家も、酒井さんの家の隣だ。うちとは反対側の隣家である。
当然、うちで聞こえている音は、上橋さんでも聞こえる筈である。
ましてや、夜、暗くなってからのボールの音は、かなり響いていたと思う。
上橋さんのご主人は、仕事の関係で、不規則な時間に寝ていることが多いし、寝たきりのおばあちゃんもいる。このおばあちゃんが、ちょっとした物音にも怯えて、大きな声で悲鳴を上げたりする。
でも、うるさいなどと言ったら、負けなのだ。
子どもをもつ母親としては、よその子どもが、外で元気に遊ぶのを批判するようなことを、決して言ってはいけない。
他人の前では。
「そうよ。道路で遊ぶくらい、なんだっていうのよ。ねえ」
上橋さんは、なおも付け足した。
なんだ。気にしてたんじゃん。これは相当、うるさかったのだな。
早々に雨戸を閉めてしまううちとは違って、家の前で遊ばれても気にしていないとアピールする為に、窓を開けたままにしていたのだろう。
いい人ぶりっこだから。
「でも、ここ、通らないようでいて、車、けっこう通るのよね。やっぱり、道路で子どもを遊ばせるのは、危ないわ」
いやにしつこい。
私は、ぴんときた。
上橋さんは、絶対、酒井さんが子どもを道路で遊ばせていてうるさいと、あちこちで言いふらしていた筈だ。
もしかして、警察か市役所か知らないが、苦情相談に乗ってくれる所へ相談して、公的な圧力をかけていたのかもしれない。
そういえば、パトカーの巡回がやけに多いなとは、感じていた。
私はそれを、小学校の通学路だからだと思っていたのだけど、他に理由があったのだ。
肩をすくめて、家の中に引っ込んだ。
私にはわかった。
酒井さんが引っ越して行った理由は、息子の放火の件だけではない。
だって、2件目のマイホームを手放したのだ。
それはきっと、さぞや、どろどろしたものであったろう。
まっこと、ご近所づきあいとはむずかしいもの。
ひとつだけ、決意したことがある。
もう、上橋さんと、おつき合いするのは、やめよう。
そもそも、酒井さん夫婦が離婚するかどうかの賭けは、上橋さんからもちかけてきたものだ。
意地悪な人なのだ。
この家に引っ越してきて、一番最初に声をかけてくれたのが上橋さんだったので、つい、親しくしていたのだが、考えてみれば、私だって、積極的につきあいたいわけではなかった。
だから、一緒にしていたウォーキングも、理由をつけて、やめてしまったのだ。
おかげで、少々、太ってしまったのだけれども。
私が同行しなくなっても、上橋さんは、早朝ウォーキングを続行している。朝早くから、近隣のゴシップを嗅ぎ回っている。
まったくもって、ご苦労なことである。
おお、そうだ。忘れていた。
例の、ユリちゃん、ヒメちゃん、美弥たちが、育てていた、捨て猫のことである。
あれから、3人の女の子と雪美とで、里親募集のポスターを作っていた。
私も手伝おうとしたら、4人そろって、怒られた。絵が下手な人は、あっちへ行ってて、というわけだ。
件のポスターを張り出してすぐ、貰いたいという奇特な人が現れた。
似鳥先生だった。
案外、いい先生なのかも知れない。