安売りスーパー
いつも行くスーパーで、小早川サトル君のお母さんを見かけた。
げっ、まずい。
美弥、傷害冤罪事件の捏造犯だ。
近所のスーパーで、しかもこんなに暑いのに、アンサンブルのニットを着て、フレアスカートをはいている。靴は、おしゃれなミュールだ。
まさかこんなところで遭遇するとは。ここは、安売りスーパーである。
今日は、学校が早く終わるから、急いで食べ物を仕入れとかなくちゃと思ったのが、裏目に出た。
そうーっと逃げ出したのだが、どうしても、豆腐と牛乳、それから肉か魚、主菜の材料を買わなくてはいけない。
気をつけていたのに、お早めにお食べ下さいのパンコーナーで、鉢合わせしてしまった。
「あら、こんにちは」
「こ、こんにちは」
私の声は、掠れていたかもしれない。
「暑いですわねえ」
「ほんとに」
一通りの挨拶の後、やはり、大人として避けては通れないだろうと思い、聞いてみた。
「その後、サトル君の具合、どうです?」
「は?」
小早川さんは、きょとんとした顔で、こちらを見返した。
「その節は、美弥が、大変なことをしてしまいまして」
「ああ、噛み付いたこと? 春のことでしょ、それ。もう、平気ですよ」
けろっとして言う。
まさか、忘れてた?
人の家のことを、きちんとした家庭ではないと言い切ったくせに、それはないんじゃない?
意地悪な気分になった。
「でも、サトル君も、災難ですねえ。うちの時は、保健室くらいで済んで良かったんですけど。なんでも、他の子にやられて、病院の夜間外来にいらしたこともあるんですって? 悪い子がいるものねえ」
いつかコンビニで聞いた武藤さんの話の受け売りである。青あざができたくらいで、病院に行って医者に呆れられたという、あの話である。
「え? 何の話かしら」
「いえね、私もちょっと、聞いた話ですから」
「病院の夜間外来? 上の子が赤ちゃんの時以来、行ったことないですけど。それに、サトルは、他のお友だちに何かされたことなんて、ありませんよ。お宅の美弥ちゃんに噛み付かれた以外に」
「は?」
「いやあね。勘違いですよ。他の誰かと間違えてるんじゃない?」
「そ、そうかも、しれない……」
ひょっとして……、
ひょっとして、元ネタは、私がバラ撒いた話?
美弥の冤罪は明らかだった。それなのに一方的に苦情を言ってきた小早川さんに対して、猛烈に腹が立った。
だから、彼女の不条理を、あちこちで話しまくってやった。
若干は、そのう、背ビレ尾ヒレがついていたかもしれない。
小早川母の、ヒステリックさについて。
だが、子どもの青あざで大騒ぎをして、「病院の時間外診療に連れて行って、医者も呆れてた」とは、一言も言ってないぞ。私は!
いったいこの話を、どこで拾ってきたんだ? 武藤さんは!
そういえばコンビニで話した時、「友達の友だちに聞いた」と言っていたが、その辺りがすでに怪しい。
全身を、冷や汗が流れた。
「そうね。お姉ちゃんのクラスの誰かと間違えたんだわ。なにしろ暑いから、ホホホホホ……」
笑ってごまかす。
小早川さんが身を乗り出した。
「それより、聞いた? 放火魔のこと」
ぎくりとした。
「大変でしたねえ」
警戒しながらお見舞いを述べた。まさか、美弥の仕業と言う気ではあるまいな。
「うちは、ほら、物置のボヤですんだから。それより、お宅のお隣に、酒井さんっているでしょ? どうやら、そこの子らしいのよ、放火して歩いてたの」
「ええっ」
大げさにのけぞってみせた。
「ここだけの話、服部さんのお父さんが見たんだって。追いかけたんだけど、逃げられたみたい。でも、確かに、娘のクラスメートだったって言い切ったんですって」
「服部さん?」
あの礼儀知らずのスーツ男か。
あの時は、逃げていったのは娘のクラスメートだなどとは、口に出さなかったが、なけなしの分別が働いたということか。
「服部さんのうちも、最近、放火されたのよ。あ、未遂か。うちと見城さん……御存知でしょ、公園の裏のうち。犬小屋を燃やされただけらしいけど……の後で」
「見城さんって、えっと、おじいさんのいるうち?」
公園で遊んでる子どもを叱り付ける怖いおじいさん、とは言えない。
「見城さんのところは、3世代同居なの。それでね、見城さんとこのカコちゃんとうちのルリ、それから服部マミちゃんは、幼稚園の頃から、仲良しなの」
「はあ」
「同じクラスに、酒井シュンスケ君がいてね、女の子たち3人と、仲、すごく悪いのよ。前に、お前らんちなんか、火ィ、つけてやるって、凄まれたことがあったくらい」
「シュンスケ君が?」
「そう。3年生の間じゃ、凄い噂になってるわよ。あ、お宅は1年生と6年生か。知らなくても無理ないかも」
私が教えてあげたからね、と、得意そうな表情である。
とういうことは……。
美弥つながりで、見城じいさん、小早川わたる君の家が狙われたわけではなかったわけだ。
真相は、酒井シュンスケつながりの、見城カコちゃん、服部マミちゃん、それに、小早川ルリちゃん宅が、狙われたわけだ。
全くの、冤罪ではないか。
ルリちゃんが、わたる君の姉で、見城じいさんが口うるさいジジイだったせいで、美弥は、ひどい目にあったわけだ。
しかし、ここで、怒りを露にするわけにはいかない。美弥のクラスの保護者は、美弥に掛けられていた冤罪を、知らないのだ。
こちらを窺いながら、小早川さんが言った。
「私、酒井さんって、よく知らないのよね」
今度は、隣人である私から、情報を引き出そうとしている。
「うちも、おつき合いないから」
なんとか、逃げようとした。
「そうよね。お母さん、働いてらっしゃるんでしょ?」
働く母と専業主婦はきちんと住み分けている、だけど、お互い理解し合うことは大切よね。小早川さんは、そう、言いたいわけだ。
「あのね、」
根負けして私は声を潜めた。
ま、どちらかというと、私も話したいわけだし。
「けっこう、子どもの泣き声が聞こえるんですよ。お母さんの怒鳴り声も」
「ああら、うちも、つい、子どもを怒鳴っちゃうわ。気をつけなくっちゃ」
「それでね、シュンスケ君、夜、よく外へ出されてるの」
「おしおきね」
「そう。7時くらいから、夜10時くらいまでかな」
「まあ! 夜でしょ? 信じらんない!」
「でも、別に、放置されてるわけでもないんですよ。お母さん、ずっと家にいらっしゃるみたいだし。シュンスケーッ、って怒鳴り声、うちまで聞こえるもの、夜中に」
小早川さんも私も知っている。
ハレの公共の場、スーパーで、他の母親の悪口を言うわけにはいかないということを。
しかし、これで、酒井家に関する情報は、確実に、他の保護者の元を駆け巡るであろう。
「ところで、知ってます?」
今度は小早川さんからの情報返しだ。
「なになに?」
「似鳥先生のところに、怒鳴り込んでいった親がいるんですって」
「まあ!」
「合唱コンクールで独唱をやらせてもらえないとか何とかって。放課後、学校に押しかけてね。一度は帰ったらしいけど、その日のうちに、今度は子どもを連れて、先生のお宅に乗り込んでったらしいわよ」
「ひどい親よねえ。常識ってものがないわ」
「まったく。庭で大騒ぎしてたんですって。で、お家に上がりこんで、夕飯まで食べてったらしいわよ」
「庭で大騒ぎ? 全く、常識がないわ」
合唱コンクールは、まだ先、2学期だ。
だが、1学期末に、指揮者などさまざまな人選が行われる。
1学期末。つまり、数日前だ。ちょうど、美弥が男の子達から、放火魔と罵られた頃だ。
思い出すだけでも、腹が立つ。
「つい2~3日前のことよ。1学期の、給食最後の日。たまたま、隣の人が見ていてね。その人、私の知り合いなの」
給食最後の日?
私が、学校へ行った日だ。その後、似鳥先生のお宅へも。
あの後、誰か、苦情を言いに学校へ来たのだろうか?
私の後に?
でも、下校時刻まで学校にいたけど、保護者は誰も来なかったし、もう帰宅すると似鳥先生は言ってた。
まさか、それ……。
でも、私はお家には、上がりこんでいない。夕飯どころかお茶一杯だってご馳走になってはいない。
確かに美弥は、合唱コンクールで独唱をやらせてもらえないが、そんなことで文句を言った覚えもない。
そもそも1年生は、全員で校歌を歌う。校歌に、独唱パートなんてあったのか。
でも、微妙に、先生の家の庭で、話していたかも。
しかも、子連れで。
ちょっと、声、大きかったかも。
だから……。
それって、ひょっとして……?
美弥がサトル君に噛みついた話が、病院の時間外診療と学校怒鳴り込みにまで発展したことから考えると、一抹の不安が胸を過ぎる。
しかしまあ。
品位ある私を、そのような非常識人と間違えるような人はいないだろう。
きっと私の後で、同じクラスの誰かが、苦情を言いに来たに違いない。
「モンスターペアレントよね」
「ほんとにねー」
小早川さんと私は、頷きあった。
ラインの着信音がした。
私は小早川さんと別れ、スマホを開いてみた。
しのぶさんだった。
「信子さんちの近所で、子どもたちの頭を、ぱんぱんはたいて歩く、変質者が出るそうです。しかも女性らしいわよ! グーじゃなくて、パーでたたくらしいの。怪我をした子はいないけど、怖いわ。気をつけてね。あ、でも、そいつが狙うのは、低学年の男の子だけなんだって。美弥ちゃんと雪美ちゃんは、大丈夫。念の為ってことで」