タイヤ公園
雪美が向かったのは、タイヤ公園だった。
遊んでいるとうるさいとどなるおじさんのいる公園へ行く途中の、小さな公園だ。
コンセプトは、「タイヤ」だ。大人の背丈ほどのタイヤが半分地中に埋まって立っており、あちこちに、転がして遊ぶのに適当な大きさのタイヤが置いてある。
今の季節、スズカケの木が、こんもりと葉を茂らせていた。
風雨を遮る、大きな木の根元にタイヤが一つ、横倒しに置かれており、その上に覆いかぶさるようにして、美弥はいた。
「美弥!」
思わず叫んで、走った。
美弥は、ぼおーっとした声で言った。
「あれ……。なんで来たの?」
「なんでって。夜、一人で出歩いちゃいけないって、あれほど言ったでしょうがっ!」
情けないことに、第一声が、叱責だった。
それほど、心配していたのだ。
私は、まだまだ、修業が足りない。
「おねえちゃん」
私の後ろにいた雪美に気がついた。
「教えちゃったんだね」
「そうね」
すまして雪美が答えた。
美弥の腹の下と思しき辺りから、小さな毛の塊がもぞもぞ出てきた。
情けない声で、みゃー、と鳴いた。
私は、悲鳴をあげた。
「バレちゃった。あーあ、あした、ユリちゃんとヒメちゃんに、怒られちゃうよ」
「ネコ、ネコ!」
「だから、家に連れて来れなかったんだよ」
ため息をつきながら、美弥は言った。
そう、私は、猫アレルギーなのだ。同じ家に、この種族がいるだけで、発熱する。
だが、夜の公園で大騒ぎをするわけにはいかない。ぐっと自制し、美弥の話を聞いた。
ところどころ、雪美が補う。
子猫は、捨て猫だった。ユリちゃんの家の裏に捨てられていたらしい。ユリちゃんの家に遊びに行った時、ユリちゃん、ヒメちゃん、美弥の三人が見つけた。
ユリちゃんちは、ネコを飼ってるんだよ、ネコ好きと見込まれたんだね、と、雪美が付け加えた。
でも、ユリちゃんちでは、これ以上ネコを飼うわけにはいかない。ヒメちゃんの家には、小さな妹がいて、やはり、ダメ。
うち? うちも、ダメに決まってる。
子猫は、ひとりでエサを食べられるくらいの月齢で、飼い猫だったものか、人懐こかった。
そこで、3人で飼うことにしたのだ。
スズカケの木が雨風を遮ってくれる、この、公園で。
エサは、ユリちゃんが持ち出してくれた。
「昼間はいいの。3人でお世話してあげられるから。でも、夜はね、ユリちゃんもヒメちゃんは、都合が悪いの」
「あなただって、都合が悪いのよ!」
「へ?」
「だからぁ、子どもは、夜は、みんな都合が悪いのっ! 一人で外へ出てはいけないのっ!」
「でも、夜、一人だったら、みゅうが悲しむよ。寂しがりなんだ、この子」
「ネコは夜行性だからいいの!」
「明日さあ、ポスター描いてあげるよ。ネコ差し上げますって。明日なら塾、休みだから。ユリちゃんとヒメちゃん、うちに来れる?」
雪美が口を出した。
「うん、予定、聞いてみる」
どうせ、毎日、一緒に遊んでいるのだろうに、美弥は、重々しく言った。
「明日がダメなら、木曜日ね」
雪美が自分のスケジュールの調整をし、アポの指定をする。
姉妹が相談する様子を、私は脱力して眺めていた。
何度もみゅうに別れを惜しむ美弥を連れて、公園を後にした。
ネコの毛がついていそうで、今度ばかりは、美弥と手をつなぐのがためらわれた。
なかなか歩き出さない妹の手を、雪美が握った。
「人に、あげちゃうのかぁー」
未練がましく美弥が言う。
「保健所に連れてかれるより、マシじゃない」
「そうだよね」
「近くなら、会いにいけるよ」
「いい人がみつかるといいね」
それでも、うちで飼いたい、とは、最後まで言わなかった。
姉妹が仲良く会話している姿を見るのは、久しぶりのような気がした。
雪美が塾に通い出してからというもの、2人の年齢差が、ぐんと開いてしまったような気がしてならなかった。
雪美だけが、大人の世界に足を踏み入れてしまったような……。
それが、こうして同じ話を話している。
夜だからだろうか。妹と手をつないで歩いているからだろうか。
雪美まで、小さな女の子に戻ったように見える。
塾に、行く必要があるのか? 中学受験なんて、本当に雪美の為になるのか?
少女を、無理やり、大人へと追いやっているような気がする。
月夜の白い道を、私は2人から少し離れて、歩いた。
静かな、不思議な時間だった。
大通りをわき道に逸れた時だった。
ぱたぱたと軽い足音がしたと思ったら、姉妹と私の間を、通り魔のように、小さな影が駆け抜けていった。
私の脇にぶつかり、ぼんやり歩いていた私は、たまらずよろけた。
「サカイ・シュンスケ……」
雪美が、隣家の家の子の名を、フルネームでつぶやく。
少年は、ふりむきもせず、弾丸のように走り去っていった。
私たち3人は、ひどくぼんやりとして、それを見送っていた。
「おおい!」
大人の乱れた足音が背後から響いてきた。革靴の硬い音だ。
「こっちに、男の子がこなかったか?」
息を切らせながら、スーツ姿の中年の男が聞いた。汗にまみれ、ネクタイは横になびいている。
中年……。しかし、走れる程度には若いのだろう。
「え?」
すぐに答えるわけにはいかない。変質者かもしれないではないか。
変質者がサングラスや黒っぽい服の、いかにもそれらしい格好をしているわけではない、ということは、子ども安全教室の常識だ。
乱れたスーツ姿というのは、いかにも、怪しい。
3つ揃った不審顔を見て、男は、鼻白んだようだ。
「放火だよ。うちの庭に忍び込んで、カミさんが声を掛けたら、ライターと、テンプラ油をしみこませたテッィシュを落として逃げてった」
男は息を整え、再び、尋ねた。
「こっちに来なかったか?」
「来なかったわよ、ねえ」
なんだかひどく間の抜けた声で、私は答えていた。
「変だな。大通りを折れた所までは見てたんだがな」
「でも、こっちじゃないわね」
「誰も来てない」
「うん」
私が言うと、雪美と美弥が唱和した。
「もう一本先の道を折れたんじゃない? あそこ、街灯がなくて暗いから」
私がダメ押しをした。
男は、切らした息の合間に、不審か、不平か、ぐちゃぐちゃと独り言のように言って、立ち去っていった。
知らないと言われても、話に応じてもらえたお礼を、きちんと言える大人だったら、私たちの返事も、違ったかもね。
よろよろと歩き去る背中を見ながら、心の中で、そう、つぶやいた。
申し合わせたように、3人、歩き出した。
「放火魔、シュンスケだったんだね」
ぽつんと、美弥が言った。
「なんで、あんたたち、さっきの男の人に、誰も来なかった、なんて言ったの?」
雪美も美弥も、シュンスケと仲がいいわけではない。隣に住みながら、互いに無視し合っているという感じだ。
学年も性別も違うし、小さい頃から一緒だったというわけでもないから、仕方のないところであろう。
互いの家は、付き合いがないし。
「ババァにつきあっただけだよ」
雪美が混ぜ返す。
実のところ、私自身にも、なぜシュンスケを逃がしたか、わからなかった。
スーツ男への反発、というわけではない。あの程度の無礼な男は、掃いて捨てるほどいる。
専業主婦をやっていると。
シュンスケという子のことだって、かばってやりたいほど、よく知っているわけではない。
ただ、母親によく叱られている、ということだけは、知っている。
強いて言えば、その母親への反感だろうか。
両手に、酒井さんの家に持っていった破竹の包みの感触を、まざまざと思い出す。
……「なんでくれるんですか?」
投げつけられた奥さんの言葉。丁寧語以外の敬語を一切排した、下賎な言い回し。
毎朝、8時に車で出勤し、午後6時に帰宅する、酒井ママ。
あまり、楽しそうには見えない。
専業主婦の私は、確かに、目障りな存在であろう。
夜中でも開いたままの窓から、それが、びしびしと伝わってくる。
その夫は夫で、毎朝、ゴミ捨ての途中、うちの前に、煙草を投げ捨てていく。
共働きの余裕を見せ付けたいのだろう、フィルターまでまだ、だいぶ残っているのが、踏みにじられて落ちている。
毎朝同じ銘柄の煙草を家の前で発見し、ほんとに、不愉快だった。
つまり、同じ人が、毎朝落としていくわけで、不気味なことこの上もない。
誰かの恨みでも買ったのか?
すると、酒井・夫がうちの前に煙草を投げ捨てる現場を目撃したと、上橋さんが教えてくれた。
上橋さんは、近所の主婦仲間で、一緒に、早朝ウォーキングをしていた。私の方は、今は挫折しているけど。
ははん。
納得した。
働く妻のイライラを、隣の呑気な専業主婦にぶつける手伝いをしているわけね。だから、毎朝、うちの前にタバコの吸い殻を捨てることを日課にしているわけだ。
夫婦円満で、およろしいこと。
この夫婦が離婚するかどうか、上橋さんと私は、賭けている。
私は、ためらわずに、離婚する方に賭けた。
煙草のポイ捨てが、誰の仕業か知ったばかりだった。妻のストレスを夫が晴らすという、この婦唱夫随ぶりを熟考し、判断材料に加える時間が、なかったのだ。
賭けとしては、失敗したと思っている。
しかし、個人的には、他人の不幸は蜜の味、あらまほしき結果に賭けたといえよう。
現在、長期定点観察中である。
そのイヤミな母親が、仕事のストレスだか稼ぎの少ない夫への不満だか知らないが、うっぷんをぶつけている。
隣人と同じように、自分の産んだ子どもにも。
だったら、味方してあげる。この場は、逃げるがいい。
スーツ男にシュンスケのことを教えなかったのは、強いて言えば、そういう気持ち……、かな。
他に特に理由なんてない。
隣がどうなろうと、知ったこっちゃないもの。
「なんでかなあ」
間が抜けた声で、美弥が言った。
目をこすっている。眠いのだ。
「あの子ね。夕飯、食べさせてもらえない夜も、けっこうあるみたい」
ぽつんと雪美が言った。
美弥は、シュンスケと家が近いせいで、あらぬ疑いをかけられたのだ。本来なら、今から、隣家へ怒鳴り込んでもよいくらいのものだ。
だが、雪美の一言で、こみ上げてきた怒りが、すうーっと、消えていった。
「怒られて外へ出されて、塾から私が帰ってくる頃、まだ、外にいるよ」
夜の、9時過ぎまで。
全然、知らなかった。
「それって……」
……虐待じゃない?
言いかけた言葉を、私は飲み込んだ。
「夏が終わったら寒いだろうね」
雪美が言う。
私も、そう思う。