ズボンの裾上げ
「でも、信じてもらえて、良かったねー」
明るい口調で、美弥が言う。
「当たり前じゃん、美弥は、いい子だもん」
ライトをつけて、小さな子ども用自転車を追いかけながら、私は言った。
「明日先生が、みんなにも、言ってくれるよ。もう、美弥ちゃんのこと、悪く言ってはいけませんって」
「宮部君たちも、わかってくれるかな」
「わかるわよ。止める人がいれば、止まる程度の悪口だもん」
心軽く、自転車をこぐ。夏の空気が、甘く香る。
家の前まで来た時だった。
「もおおおおーっ! どーして、そーなのっ! いっつも、そうっ!」
山姥を思わせる、猛烈な怒鳴り声がして、隣家のドアが開いた。突き飛ばされるようにして、男の子が吐き出された。
「おかあさん、おかあさん、おかあさんっ!」
連呼する男の子を無視するように、ばたんと乱暴にドアが閉ざされる。
「おかあ、さーん!」
子どもの泣き声が、あたりの静寂を破る。
高い声ではなく、おおん、という、低い、地を這うような長い泣き声が、不気味だった。
泣き叫ぶ子どものいる玄関の前を、私たちの自転車は、そっと、通り過ぎた。
赤外線センサーが反応して、明かりがぱっとつく。
逃げるようにして、自分の家の敷地に入った。
「いっつもだよ」
ぼそりと美弥が言った。
「あの子、いっつも、夜、締め出されてるの」
「知らなかった……」
わが家では、暗くなると雨戸を閉じてしまう。それでも、母親の罵声と子どもの泣き声は、しょっちゅう聞こえていた。ベランダへ締め出された子どもに、声を掛けたこともある。
ぴしゃりと窓を閉められ、憤慨した。
それ以来、母親は、外に出ていても、遠目に私の姿を見ると、すぐに隠れてしまうようになった。
PTA情報によると、隣家の酒井さんは、子どもを愛する幸せ家族をアピールしたいのだという。やりぎて、イタイ母親になっているだけだ。
毎晩の外食は、虐待ではなくて、贅沢だと教えられたし。
それに、最近では、挨拶するだけでキレる人もいるらしい。
なんだかいろいろ怖くなってしまった。
が、まさか、子どもを家の外に追い出していたなんて。
しかも、夜。
それも、しょっちゅう。
「けっこう遅くまで、入れてもらえないみたいだよ」
苦労人じみた口調で、美弥が言った。
*
こちらの言いたいことを言い、担任の先生に、美弥は、とても素直ないい子だと納得させることができたので、私は、いい気分だった。
美弥を寝かせ、雪美が塾から帰るのを待っている間、懸案だった、ズボンの裾上げにとりかかった。
最近のお母さんたちは、子どもにジャストサイズの服を買う、と言うが、私は、そんなムダは、許さない。
子どもは大きくなるもの。ズボンはすぐに短くなるのだから、大きめのを買って、裾を上げ、2シーズンくらいははかせる。
大きめの衣類を買うのは、子どもが、このサイズになるまで、無事に育てという、願掛けみたいなものだ。小さくなったら、また、大きめの服を買う。
モッタイナイ、とか、エコ、とかカタカナ言葉で言って、ナイロン製の、安っぽいぺらぺらした袋をマイバッグとかなんとか呼ぶ前に、子どもに服を買うなら、針と糸を持って、大きめのを買え、と言いたい。
言葉だけではない、昔からの、知恵だ。
一手間かけて、初めて、物は生きる。
この暑さで、さすがに裁縫箱を開ける気力が出なかったが、今夜は、さわやかに、針仕事ができそうだ。
玄関が開いた。
「おかえりぃ!」
私は叫んだ。
時刻は9時二20分。こんな時間まで、小学生が塾通い。
絶対間違っている。
塾なんか、やめてしまえ。
そう、思うのだが、何分、本人が行きたがっているのだから、仕方がない。
塾に行きたがる。塾で、勉強をしたがる。
昼間、学校へ行った後で。
疲れ果てていても、追い立てられるように、塾へ行き、しかもそれを、自分の意志だと言い通す。
つまり、日本の教育の何かが、根本的に間違っている、ということだ。
「タダイマ」
幽かに聞こえた気がするが、定かではない。
足音は、子ども部屋に向かう。
すぐに、戻ってきた。
「美弥がいない」
「えっ!」
頭がフリーズしてしまった。
「部屋にいない」
雪美が繰り返す。
私は慌てて美弥の部屋へと走った。
布団には寝た跡があり、けれども、美弥の姿はなかった。
「こっち……」
雪美が呼んだ。階段を駆け下りると、夕食の後、確かに閉めた筈の、勝手口のドアの鍵が開いている。
「お風呂の時ね……」
美弥を寝かせ(たと思い)、お風呂に入っていた時。
禁じられたので、そうーっと裏口から出て行く、パジャマ姿の小さな女の子の姿が、幻となって見えた。
「なんてこと……。あれほど、夜は、外へ出るなって言ったのに」
「美弥は、嘘をつかない。人を騙したりしない」
鋭く、雪美が咎めた。
美弥は、私を騙したわけじゃない。
そもそも、あの子は、「もう、夜、一人で外へ出ません」などとは、ちらっとも、言ってはいない。
美弥は、やっぱり、嘘などつかなかった。
納得しなかっただけだ。
「そうよ。美弥は、決して、私を騙さない」
「ふうん。信じてるんだ」
雪美は、一瞬、微妙な表情をした。だが、すっかりうろたえていた私には、それが何を意味するのか、考える余裕は、なかった。
雪美が玄関へ向かう。
「ど、どこへ行くの?」
決然とした背中に、慌てて尋ねる。
「美弥のところ」
「え?」
「ついてこないの?」
「行く! 行くわよ!」
私は慌てて、サンダルをつっかけた。