ピザの春巻きとゴーヤの素揚げ
鉄鍋七分目の油の中で、横長の春巻きが、いい色になって踊っている。
中身は、棒状に切ったかまぼこと、刻んだ韮、チーズ、それと、ピザソースだ。
ピザソースは、早めに使い切ってしまわなければいけないのが難だが、これが、味の決め手になる。おかげで、好き嫌いの多い雪美でさえ、韮をたくさん食べる。
中身が、生でも食べられるものばかりだから、すぐに揚がる。
薄茶に、ぱりっと揚がった美人の春巻きを引き上げると、続いて、輪切りに切ったゴーヤに小麦粉をまぶしたのを、ばらばらと揚げ鍋に、落とし入れた。
信じてもらえないかもしれないが、雪美も美弥も、ゴーヤをばりばり食べる。特にこの、揚げたゴーヤに塩をふっただけの単純な料理は、大好物だ。まるでポテトチップスのような感覚で、いくらでも食べる。輪切りに切ってあるのも、子ども心にマッチするらしい。
ゴーヤは苦いと言うが、中のわたを丁寧に取り除けば、ほんの少し残った苦味も、快楽のうちというものだ。
ビールによく合う。子どもは、ビールを飲まないけど。
勢いがついて、油の温度を下げてから、茄子をまるごと放り込む。ヘタのひらひらを取って、縦に細く切れ目が入っているので、油飛びはしないし、比較的早く揚がる。
夏の揚げ物は、短時間で済ませるに如くはない。
茄子紺、という言葉の美しさに、しみじみ思いを致しながら、まだ熱いうちに、甘く煮立てただし汁に、じゅっとつける。よーく冷やして味を染ませて、これは、明日のお楽しみだ。
油物が続くようだが、昨日で給食は終わりだ。いよいよ夏休みが始まる。
家庭でスタミナをつける時期だ。
気配にはっと振り向くと、ゴーヤを山盛りに盛ったバットの前で、雪美が、にやっ、と笑った。
足元で、美弥が、春巻きを握っている。
「こらっ!」
「塾、行ってこよー!」
「雪美、おかずばかりでなくて、お握りも食べて行きなさいっ!」
「いらねーよ、ババァ」
「ほれ、塾弁!」
塾の休み時間に食べやすいように、小さく握ってラップに包んだおにぎりや、つまんで食べられるおかずをつめたお弁当のことを塾弁と言う。
私も、雪美が塾に通うようになって、初めて知った。
それにしても、こんなもので、伸び盛りの空腹を満たすなんて。
軽快にカバンを鳴らして、雪美は外へ駆け出していった。
「おいしいね」
残された美弥が、口をもごもごさせながら、悪びれずに言う。
つまみ食いは厳禁だが、揚げ物に限っては、これを許さざるを得ない。
なぜなら、揚げたてが一番おいしいわけだし、揚げている本人が、すぐに食べたいからだ。
首にかけていたタオルで汗を拭き、私も、揚げ物を満載したバットに手を伸ばす。配膳台に背を預け、あつあつを口にする。
「うん、おいしいじゃない」
チーズとソースが口の中で、どろりと混ざり合う。
「おいしい、おいしい」
調子よく、美弥が次の春巻きに手を伸ばす。
小さい体で、この子の食欲は、まったく、底なしだ。
「ゴーヤになさい。夕御飯、食べられなくなっちゃうよ」
「はーい」
「あのね、美弥」
美弥は、立てた人差し指に、輪になったゴーヤを通している。
「美弥は、夜、一人でお外に出たことある?」
指を支点にぐるぐる回していたゴーヤの動きが、ぴたりと止まった。
「……ある」
「何してたのかなぁ」
「……」
「言えない?」
「……うん」
美弥の、秘密?
「夜外に出るなんて、危ないじゃない」
思わず、強い口調になった。
夜、と言っても、先日、私が佇んでいる美弥に気がついたのは、9時か10時頃のことだ。まだ、人通りはある。
だが、小さな女の子が一人で外へ出るのは、やはり問題ではある。
それこそ、放火魔がつかまらずにのさばり歩いているような、物騒な世の中だ。
「子どもは、夜は、外に出ちゃ、いけないのよ」
「だって、おねえちゃんは、出てるじゃん」
「雪美は、塾だから」
「塾よりも近いよ、美弥の行くところ」
「でも、夜はダメなの。危ないの」
ほんとうに、こんなに小さい子が、一人で夜歩きしていたかと思うと、今更ながらに胸がどきどきした。
「夜、むやみに出歩くもんじゃありません。夜は、用もないのに外へ出てはいけないんだから」
「コンビニは、一晩中開いてるのに?」
「あれは、おかしいの。」
「おかしいって?」
「知りません。とにかく、だめなものは、だめ。昔から、そう、決まっているの」
「だって、人、大勢歩いてるよ?」
「うちは、だめ」
「おねえちゃんはいいのに?」
「だめと言ったら、ダーメッ!」
論理破綻しながら、とにかく、だめ、を繰り返した。
美弥は、とうとう、わかった、と言わなかった。
この子は、理屈が通らなければ納得しない、強情なところがある。
その点は、明らかに、父親似だ。
「で、夜、お外で何をしていたの?」
「言えない」
「言えない? どうして?」
「どうしても」
「ふうん。ま、いいや。でも、今後、一人で夜、外に出ることは、禁じます」
「ええーっ!」
「だめよ」
私はガンを飛ばす。
「大事な御用があるのよ……」
美弥が一人ごちたが、無視した。
しばらく、沈黙が訪れた。
美弥は、承知していない様子だ。
私は、ゴーヤに振った塩の味を舌に感じながら、どうしたものかと思案していた。
「ねえ、美弥に、放火した? って、聞かないの?」
不意に、美弥が聞いてきた。
「なんで?」
心底意外に思って、私は聞き返した。
「だって、似鳥先生と話したんでしょ? 先生、美弥が放火魔だって、疑ってるよ?」
「うん、だから、文句、言ってきた」
「文句?」
「うちの美弥は、悪い子じゃありません、いい子です、って」
「そう言ったの? 似鳥先生に?」
美弥は目をいっぱいに見開いた。
「言ったよ」
他にもいろいろ言ってきたが、まあ、それは、子どもが知らなくてもいいことだ。
「いい子、って言ったの?」
「言ったよ」
美弥は、ちょっと嬉しそうだった。
それから、にわかに心配そうな顔になる。
「でも、先生に文句言って、怒られなかった?」
「怒るのは、こっちよ」
私は、美弥の両肩に手を置いた。
「いい? 自分のことを不当に悪く言う人がいたら、たとえそれが力のある人であっても、怒らなくっちゃ。かなわないとわかっていても、怒らなくっちゃ、だめ。心で思っているだけでは、誰もわかってくれないもの」
「でも、先生、怖いもん。言うこときかないと、大変なことになる」
「だからって、放火魔と呼ばれたら、はいといいなさい、わかりました、ってわけにはいかないでしょうが」
こんなに追い詰められて。かわいそうな、美弥。
そもそも、クラスの子ども達が美弥のことを放火魔などと言い始めたのは、似鳥先生の責任である。
ソロバンの帰りに、上級生の火遊びを見ていたこと、夜、(理由は話そうとしないが、美弥には美弥の都合があるのだろう。もう少し待てば、必ず教えてくれる筈だ)、外を歩いている姿を目撃されたこと。
1と1をかけて、勝手に2にしてしまったのは、似鳥先生だ。
先生がそんなんだから、敏感な子ども達が反応してしまうのだ。
おまけに、聞き取り調査をやったとか。生徒を個別に呼んで、一体、何を聞き取ったのやら。
どんどん、腹が立ってきた。
「大丈夫。私がついているから。私は、どんなことがあっても、美弥の味方だよ。世界中の人が美弥が悪いと言っても、私は、美弥の側に立つ。……そうだ。これから、似鳥先生のところに行ってこよ」
「ええっ!」
「美弥、はっきり言っちゃいなさい。私は放火魔じゃありません。侮辱しないで下さい、って」
「ええー、それは、ちょっとー」
「ぶじょくしないで、は、言いにくい? でも、放火魔じゃないって、ちゃんと先生に言おう。私が一緒に行って、証人になってあげる」
「でもー。先生にサカラッたら、どんなメに遭うか……」
かわいそうに、こんなに怯えて。
これは是が非でも、私が立ち会って、美弥自身にの無実を伝えさせておかねばならない。
それも、なるべく早い方がいい。
今日だ。今、しかない。
私は時計を見上げた。
7時近い。もう、学校にはいないだろう。
私は下校時間過ぎまで学校にいたし、あの後、先生も帰宅するようなことを言っていた。
というより、自分は帰宅するから早く帰れと、言われたのだ。
とすると、御自宅へ伺うしかなかろう。
「モンスター……」。
つい先ほどの真紀子の言葉が蘇る。
学校に怒鳴り込むのがモンスターなら、先生の自宅に乗り込むのも、正真正銘のモンスターだと、真紀子は言うだろう。
まったく、腹立たしい。
そんな風にきめつけることで、保護者の権利を封じ込めることなど、できるわけがない。
子どもを守る、という当然の権利が。
子どもが侮辱されたら、学校へ怒鳴り込むくらいのことをしなくて、どうする。
私はリベラルな方だから、本当なら、学校の指導方針への口出しなど、まず、滅多にしない。
だが、謂われなく子どもが侮辱された時と、戦争を賛美するような言動があった時、誰かを差別するような指導があった時は、すみやかに学校へ乗り込む。
これは、義務だと考えている。
モンスターペアレントというのは、自分かわいさを、子どもへの愛情だと履き違えているバカ親のことを言うのだ。
彼らが侮辱されたと感じるのは、自分自身であって、子どもではない。
こうしたモンスターペアレンツ対策か、最近流行の個人情報保護の観点なのかは知らないが、生徒や保護者には、受け持ちの先生の住所も電話番号さえも、教えられていない。
年賀状が書けないではないか。
でも、大丈夫。私は、似鳥先生の家を知っている。
教員というものは、定年が近くなると、なぜか、自宅の近くに勤務できるものらしい。
例外に漏れず、似鳥先生も、市内に住んでいた。
となると、主婦の連絡網を甘く見てはいけない。
大分前のことだが、近所の和菓子屋で、和菓子製造のパートをしていたことがある。
薄いビニールの手袋をして、団子を串に通したり、饅頭に餡を入れて丸めたりする仕事だったのだが、とにかく家から自転車で5分という近さだったし、時間が短くて、働きやすかったのだ。
で、そこで知り合った人で、脇立さんという人がいる。娘さんが、市内の違う学校でだが、似鳥先生に受け持たれたと言っていた。脇立さんは、私とは違って、気分転換になるし、知っている人がいない方がいいと言って、家から離れた職場を選んでいたのだ。
この春、美弥が似鳥先生のクラスになったと知った時、私はすぐに、脇立さんに電話した。
「ああ、あの、男の子には甘いけど、女の子には厳しい先生ね」
脇立さんは、すぐに思い出してくれた。
そして、先生の家の場所を教えてくれたのである。
似鳥先生は、目を丸くして、玄関から出てきた。
花柄の前掛けを締めた、ごく、普通のおばさんだ。
「先生、美弥が言いたいことがあるそうです」
どうぞ、中へ、と言いかける先生を制して、私は言った。
この上、家の中へお邪魔したら、食事の支度を邪魔することになり、すると、これは空気が読めなくて、ひょっとして、軽いモンスターにあたるのかもしれない。
たくさん、気遣いをしなければならない。
ああ、めんどうな、世の中だ。
「先生、」
美弥が、思いきったように言った。
「私、放火魔じゃありません」
練習してきたような口調だ。
棒読みで、明らかに言わされているとわかるが、まあ、仕方あるまい。
「わかってるわよ。私は、美弥ちゃんを、信じているもの」
美弥の視線に合せるように屈んで先生は言い、その誠実な口振りに、私も、ホントかな、と、信じてもいいような気になった。
こんないたいけな、純情無垢な女の子に、まさか、嘘をついたりはしないだろう。
いやしくも、教職者なのだし。
「私、自分を信じてくれる人を裏切ったりはしない」
出し抜けに、すごくなめらかな口調で、美弥が言った。
「だって、自分を信じている人をダマすのは、すごく、カンタンなことだから。自分を信じている人をダマすことができても、そんなの、シャカイに出たら、ツウヨウしないもの」
すらすらと美弥は言い、私と似鳥先生は、思わず、顔を見合わせた。
「そ、それは、誰かが、そう、言ったの?」
「うん、おねえちゃんが」
「ええと、美弥ちゃんは、私に、嘘はついていないのよね?」
「美弥は、誰にも、嘘はつきません」
今度は自分の言葉で、美弥が答えた。