モンスター……
夏休み目前の、放課後の教室で、似鳥先生は、ふんふん、と、ただ頷いている。
「ですからね、いけないと思うんです。放火魔、なんて、しかも、実際に起こった火災の放火犯人に見立てて友だちをののしるなんて」
「わかりました」
ベテラン女性教諭は一際深く頷いて、私の目線をしっかりと捉え、一言だけ請合った。
「ですが、先生も、ご存知だったんでしょ? 美弥が放火魔と言われていたこと。教室の中でも、相当からかわれていたようですから。もう少し、ご指導頂かないと、小学校1年生の女の子じゃ、やられっぱなしになっちゃいます」
「美弥ちゃんは、決して、やられっぱなしになっているような子ではありませんよ」
先生の口元が、僅かに歪んだ。笑いをこらえているようにも見える。
「とにかく、美弥ちゃんは、そんな子じゃ、ありません」
「そりゃ、うちの美弥は、言いたいことはきちんと言える子ですよ。でも、大勢に無勢、しかも、相手は男の子たちですからね。それが、うちまでくっついてきて、しつこくからかうんですよ」
「やりすぎですね。第一、宮部君の通学路は、そちら方面ではありません」
美弥をからかっていた3人組の名は、美弥から聞きだしてある。もちろん、真っ先に、先生に告げた。
「そういうことじゃ、ないんです。放火魔って、つまり、美弥を犯罪者呼ばわりするんですよ。実際に、二軒のお宅が放火されているというこの時期に」
「2番目に放火されたお宅は、うちのクラスの小早川君の家です」
「知っています。ですから、余計、いけないと思うんです。クラスメートの家が放火されたというのに、その犯人呼ばわりするなんて」
「最初に放火されたお宅のおじいちゃんから、美弥ちゃん、よく怒られてたんですってね」
「はあ?」
「もちろん、怒られていたのは、美弥ちゃんだけではありません。公園で遊んでいて、うるさいと怒鳴られた子は大勢います。このクラスの子の半分以上は、怒られてます」
「公園で遊ぶ子にうるさいと怒鳴るなんて、その人、間違ってます」
私はきっぱりと言ってやった。
先生は、鼻白んだ顔をした。
「2軒とも、美弥ちゃんの知っている家だったのが、まずかったのかもしれませんね」
「では、クラスの子の半分以上が、放火の容疑者ということになりますね」
はっとした。
「まさか、保護者の間に、美弥が放火して歩いているという噂が立っているんじゃあ?」
言ってすぐ、それは違うだろうと、思った。もし、お母さん方の間で、そんな噂が流れたとしたら、必ず、私の耳に入ってきているはずだ。
なんのための、PTAだ、ということである。
「いいえ、そんな。絶対にありません、そんな噂は」
その点だけは、先生はきっぱりと否定した。
すると、噂は、子どもの間だけということになる。
なぜ、子ども達は、美弥のことを、放火魔などと囃したてるようになったのだろう。放火された2軒について、美弥だけが、特別な関係にあったわけではないというのに。
「子ども達には、いわれのないことで、友だちをからかうのはいけないと、よく言っておきましょう。ただ……」
先生の態度には、言おうか言うまいか、迷っている様子が窺えた。
「ただ、美弥ちゃんには、前科がありますからねえ」
「前科?」
私はきょとんとした。
「塾のテストを燃やしたという……。ご近所の方から、学校へ、電話がありました」
結局、ソロバンの先生の近所の人は、学校にも通報したのだ。
「でも、あれは……」
美弥は、6年生の女の子が、自分のテストを燃やすのを見ていただけだ。
「わかっています。けれども、その場に美弥ちゃんがいたのは、事実ですから。目撃されてますからね。それで、6年生の担任の百舌先生と私とで、その方の家へ話を伺いに行ってきました」
目撃、だって。
話を伺うって、そんなの、6年生の先生だけが行けば、良かったのではないのか?
「学校や子ども達への風当たりは、年々、強くなる一方ですのでね」
私の胸中を察したかのように、先生は口にした。私はふと、似鳥先生が、もうすぐ定年だということを思い出した。
「他にも悪い条件が重なってしまって。私も気になって、子ども達に聞き取りをしたんですが」
「悪い、条件?」
「ええ」
似鳥先生は、口をつぐんだ。言葉を選ぶような表情で、こちらの様子を窺っている。
「美弥ちゃんのことで、最近、何か、お気づきのことは、ありませんか?」
「え? 普通の子です。多少活発すぎるのかもしれないけど、よく遊んで明るい……勉強はあまりしませんが……」
何を答えればいいのだ? この国は、謙譲の国だ。美弥のことを、あまり褒める訳にもいくまい。
客観的に見て、美弥はいい子だ。素直で明るい、今どき珍しいくらい素朴な子だ。
いや、褒めては、いけない。謙譲の美徳、謙譲の美徳……。
「火事の夜、美弥ちゃんが、夜、出歩いているのを見た、と……。こちらは、保護者からの話です。かなり遅い時間に、公園の方へふらふらと歩いていった、と……。最初に放火された見城さんの家は、公園の近くなんですよ」
「はあ」
「夜歩きは、その一回だけではないようです。何人かの方から、お電話を頂いております。まあ、確かに美弥ちゃんだと言い切ったのは、初めに電話してきた保護者の方だけでしたが。その後も、地域住民の方から、学校へと電話がありまして。姿形から、美弥ちゃんではないかと、副校長とも話していたのですよ」
まだ、はっきりしたことがわからないから、おうちの方には、お知らせしませんでしたけどね、と付け足した。
「でも、2番目の火事の夜は、美弥は、家の庭で、消防車を見ていただけなんですよ?」
「ご存知だんたんですね? 美弥ちゃんの夜歩き」
似鳥先生に言われ、私は、しまった、と思った。
悪いことをしていたわけではないし、ましてや、美弥が、放火などするわけがないのだから、別に言ってしまっても構わないのだが、世の中には、黙っていた方が得な情報というものもある。
その辺が、どうも、私にはうまく操れない。自分で言うのもなんだが、人が良すぎるのだ。
知っていることは、全部、しゃべってしまう。
「夢遊病とか夜驚症とかということもあるかもしれないけど、しばらく様子を見ようと思っていたんです」
慌てて言った。
環境の変化からの一時的なものだろうから、あまり騒がずに、様子を見た方がいいと思っていたのだ。
できたら、学校には内緒にしておきたかったのだが。
似鳥先生はため息をついた。
「夜歩きとか、火遊びとか、そういう噂が、ただ何となく伝わって、今度のからかいに繋がったのだと思います。子どもたちも、理由もないのに、騒ぎ立てたりは、しないものですよ」
何となく伝わった、とは、言いようである。子ども達に聞き取り調査をしたと、言ったばかりではないか。
妙な噂の大元は、先生自身だと告白したようなものである。
先生が、なんでもないことを、大げさにして、子ども達に伝達してしまったのだ。
まるで、伝言ゲームのように。
「それにしてもね。火遊びや夜歩きをご存知でいらして、少しでも、疑念をお持ちにならなかったものですか?」
「何にですか?」
「だから、その……」
「もしかして!」
卒然と、私は悟った。
「もしかして先生、先生も、放火は美弥の仕業だと思ってません?!」
言ってから、一拍遅れて怒りがこみ上げてきた。血圧が急激に上昇したのがわかる、激しい怒りだ。
「仲良しの小早川君の家への放火も? 美弥がやったと!」
こみ上げてくる怒りの、あまりの熱さに耐え切れず、思わず立ち上がった。膝の裏がぴんと伸び、椅子ががたんと倒れた。
「先生ご自身も、そう、疑ってらっしゃるんでしょ。さっきから、ねちねち、ねちねち、遠まわしに」
「落ち着いて、落ち着いて下さい」
初めて、似鳥先生の顔から、ベテランらしさが消えた。
単なる、初老の女に見える。
狼狽したように、先生も立ち上がる。
「美弥を侮辱されて、落ち着いてなんか、いられますか。冗談じゃない」
私の頭の中は、すでに真っ白だった。
ただ、美弥が、可哀そうでならなかった。
こんな、偏見にみちた初老の女が、担任だったなんて。
「美弥ちゃんが放火犯だなんて、それは、クラスの中の噂に過ぎず、私は、一言だって……」
「言ってるようなものじゃないですかっ! 先生がそんなんだから、クラスのみんなが、図に乗るんです。放火魔だと囃し立てられて、あの子が、どんなに辛い思いをしたか……」
怒りが、奔流のように口から迸る。
「美弥に、謝罪して下さい。あんないい子、他にいないというのに……。いいえ、先生だけではダメです。学年主任を出しなさい! 校長は、どこですっ!」
私は、当然の怒りを表明し、明らかな権利を主張した。
*
「それじゃ、まるで、」
国際電話のせいか、妙に弱々しく、真紀子の声が届く。
結局、「学年主任」からのお詫びはなかった。似鳥先生が、学年主任だったからである。
ならば、副校長を出せ、校長はいるか、と意気込んだが、残念なことに、2人とも留守だった。
飛び出した鼻先をぽきんと折られたような気分で帰宅し、怒り覚めやらず、時差も考えずに、真紀子に電話した。
真紀子は、歩いていた。フランスとの時差は8時間だと言っていたから、朝の通勤の途中ででもあったのか。
真紀子の「現在」を聞いても、私の言葉の奔流は止らなかった。
ひとしきり、美弥の担任の横暴を訴えた。
フランスにいる真紀子に訴えたって、仕方がないんだけど。まあ、小なる爆発は、大なる暴発を防ぐってやつ。
「モンスター……」
言い掛けた真紀子に、私は割って入った。
「モンスターペアレントっていうのはね、小早川さんのようなオヤのことを言うのよ!」
「はあ? 小早川さん? 誰、それ?」
「美弥の友達のお母さんよ。友だちとけんかして、ちょっとした擦り傷ができたと言って、診療時間外の病院に駆け込んで、学校へ怒鳴り込むようなヒト! 前に話したでしょっ!」
美弥が因縁をつけられた話は、まだホットなうちに、セビレ・オヒレをつけて話したはずだ。
聞いてなかったのか。
今回はそれに、コンビニで武藤さんから仕入れた情報が新たに加わった。
静かに聞いていた真紀子は、冷静にのたまった。
「似てるじゃない、その、小早川さんって人と。っつーか、学校に怒鳴り込むところは、モンスターと、まおんなじ」
「あのねえ」
私は言ってやった。
「言うべきことは、ちゃんと言わないと。モンスターだかなんだか、勝手に名前つけられちゃうから言わない、なんて、相手の思うままじゃない。こちらの品位を逆手に取られて、正しいことも言わせてもらえないなんて、冗談じゃない。そんなの、姿を変えた恫喝よ。ま、子どもたちの為だったら、私は何と言われようと平気だけどね。あなただって、美弥が放火魔だなんて思わないでしょ?」
「はあぁぁぁぁー」
電話の向こうで、長いため息が聞こえた。雑踏の音が混じる。
不意に思い出した。
「あなた、通勤の途中でしょ。遅刻するわよ。第一、周りをよく見て歩かないと危ないし。そこは、安全な日本じゃ、ないんだから。もう切るわね」
言うことを言ったので、すっきりした。それで、相手の返事を待たずに、受話器を置いた。
真紀子は、キャリアウーマンだ。
インテリア関係の仕事をしているとかで、今は、フランスの事務所にいる。アンティークの家具やなんかを買い付けに、あちこち飛び回っているようだ。
仕事のことは、私には、よくわからない。だが、1年か2年、フランスでのお勤めを無事果たせれば、日本に栄転が約束されていると言っていた。
順調にキャリアを築き上げているようだ。
彼女は、専業主婦の私とは、根本的に違う生き方をしている。
それなのに、うっぷんがたまると、すぐに真紀子に電話してしまう。
今回のことなど、しのぶさんにメールしてもよかったのに。
ま、知り合って間もない人に、学校への罵詈雑言を吐き散らすより、真紀子相手に気炎を上げておいたほうが、無難ではあろう。
私だって、今回の件を、似鳥先生の退職金が危なくなるような大問題にするつもりはない。