戦闘準備
「ほうかまぁー! ほうかまぁー!」
明るい昼下がり、つい、うとうとと昼寝をしてしまっていた私は、子ども達のはやし立てる声で、はっと目がさめた。
いけない。もう、1年生が帰ってくる時間だ。
ドアの鍵を開けておかなくては。
ただいま、と帰ってくる美弥が、素早く家の中に入れるように。
マンションで鍵っ子だった頃、雪美は、鍵を、いびつに曲げてしまったことがある。
鍵が開かない、開かない、というのだが、家においてある予備の鍵を使えば、スムースに開錠できる。不思議に思って、雪美の鍵を手にとると、真っ直ぐに伸びているべき軸が、見た目にわかるほど、曲がってしまっていた。
夕方帰ってきて、ドアにとりつく雪美の姿が脳裏に浮かんだ。
友だちと別れ、一刻も早く、安全で安心な家に入りたかったのだろう。あるいは、後年の美弥のように、トイレに切迫した用があったのかもしれない。
……早く開けたい。
しかし、失くさないようにランドセルにぶら下げた鍵は、小さな体では、扱いづらい。片手で鍵を持ち、片手で重いランドセルを支えなくてはならない。
その上で、力任せに、鍵を開けようとする。
ランドセルから鍵を外す余裕はない。
だから、雪美の鍵は、曲がってしまったのだ。
子どもが帰宅して、家に入りたいという欲求は、それほど、強いものなのだ。
曲がった鍵を思い出すたび、もう二度と、雪美や美弥に、あんな思いをさせたくないと、心の底から、乞い願う。
しかし、今日の下校は、ちと早いのではないか?
子どもたちが、下校します、という、例の市の放送も入っていないし。
慌てて玄関に走り、鍵を開けていると、重いドアの向こうから、美弥の甲高い声が聞こえてきた。
「うるせぇー。違うもん。黙れ!」
続いて砂利を蹴散らす音。
敷地に入ってきた子どもらを、追い払っているようだ。
「チゲーわ。黙れ、ばーか!」
そう叫ぶ美弥の声に、僅かに、泣き声が混ざっている気がして、私はたまらず、こちらからドアを開けた。
「放火魔ぁー!」
だから、その罵りをまともに浴びた。
「チゲー、チゲー、バーカ、バーカ! 黙れぇー!」
「やーい、放火魔ぁー! 放火魔ぁー!」
私の姿を見ると、はやし立てていた男の子3人は、素早く門の外へ走り出た。
しかし、玄関先を覗き込むようにして、小憎らしい声で、がなりたてる。
「放火魔だぁー!」
「放火魔、言うなあ!」
美弥は、私に背を向けたまま、両手を握り締めて、吠えるように、叫び返している。
その小さな背中は、まるで、外部の不条理から、自分の家族と家を、守ろうとしているかのように見えた。
「放火魔ぁー! 犯罪者ぁー!」
「こらっ!」
まるで大人のような言い様に、私は、つい、かっときた。
履物をつま先につっかけ、大またで歩み寄った。男の子3人の頭を、順繰りに、ぼかすかと、殴ってやった。
うちの美弥に、「犯罪者」はないでしょ。
子どもらは、何が起こったのか理解できないようだった。
家でも学校でも、体罰というものを受けたことがないのだろう。
きょとんとした顔を見合わせて、それから、一斉に私の方に顔を向けた。
私は、腰に手を当て、できうる限りの怖い顔をして、睨み返してやった。
「パーだから」
こぶしでぶったわけではない。
子どもらは頷き、回れ右をすると、背中の黒いランドセルをぱかぱかと揺らせながら、走り去っていった。
「まったく、最近の餓鬼どもときたら、なぁんて、口が悪いんでしょ」
両手を腰に当てたままつぶやき、振り返って、美弥を見ると、こちらは称賛の目で、私を見ていた。
「つ、つよい……」
「そうよ。私の大事な美弥にイジワルしたら、タダじゃ、おかないんだから」
私は得意だったが、あいつらが、親や先生に言いつけたら、ちょっと、いや、大分、まずいことになるなぁ、と、思った。
ま、いいか。
私は、私の大事なものを守っただけだ。
美弥が、家族と自分のテリトリーを、必死になって守っていたように。
「でも、美弥も、付け入られるようなスキをみせちゃ、ダメよ。スキがあるから、イジワルされるんだから」
「スキなんてないもん。美弥、放火魔、違うもん!」
「放火魔って?」
「学校でもずうーっと、美弥のことを、放火魔だって、言うの。帰りも、ずっとついてきて、放火魔、放火魔、って言うの」
「放火魔……」
「わたる君ちの火事。それと、公園のとこの家の……。あれ、美弥が火をつけたって、言うんだよ」
「まあっ! で、先生は?」
「静かにしなさい、って言うだけ」
「それだけ?」
「それだけ」
私は、目の前が揺れて見えるほど、憤慨した。
うちの美弥が、とんでもないヌレギヌを着せられ、いじめられているというのに、先生は、静かにしろと言うだけで、知らん顔をしているというのだ。
犯罪者、とまで言われているのに。
「美弥、行きましょ」
「え? どこに?」
「決まってるでしょ。学校よ。似鳥先生のところに行くの?」
「ええっー」
その声は、明らかに迷惑そうだった。
子どものけんかに、保護者が介入するな。
そういう気持ちが、にじんで聞こえた。
しかし、私は、放っておけなかった。
実際にあった放火事件の犯人呼ばわりするなんて、陰湿ではないか。
こういう小さなこと(ちっとも小さなことではないが)が、深刻なイジメにつながるのだ。
後から後悔しても遅い。イジメの芽は、早いうちに摘み取ってしまうに限る。
「いやなら、美弥は、おうちにいなさい。とにかく、私は、行ってくるから」
家に駆け込み、イージーパンツを脱いで、ストッキングを履いた。ストッキングを履くのは入学式以来だが、とにかく、きちんとした服装をする必要がある。生足丸出しというわけには、いかない。
それからファンデーションを塗って、やや濃い目に、アイラインを引いた。
南の島の部族は、戦いに臨んで、顔に化粧を施す。
負けられない戦に備えて、入念に、口紅を選んだ。