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専業主婦!  作者: せりもも
第2章 半径2キロの暗闘
20/45

紫蘇ジュース


 赤紫蘇あかじその葉を、大枝からちぎり取り、たくさんの水で、じゃぶじゃぶ洗う。


 刺すような新鮮な香りが、辺りいっぱいに広がる。


 幸せを感じた。


 冷たいきれいな水をたっぷりと使えること、これは、人類最古最上の、幸福だ。


 大鍋いっぱいの湯が、ぐつぐつと煮立った。水を切った赤紫蘇の葉を放り込む。

 しばらく煮ると、お湯が黒っぽい赤に染まった。


 火を止めて、ぴんと張った布巾にわっと開ける。布巾に濾し取られた紫蘇の葉は、どれも緑色に変わってしまっている。


 赤紫のお湯と、緑色になった、赤紫蘇の葉。

 色素を、お湯に移してしまったのだ。


 いつものことながら、感動する。色が、こんなにはっきりと、葉っぱからお湯へと移っていくなんて。


 しかし、最大の感動は、なんと言っても、濾した赤色のお湯に、酢を注いだ瞬間だろう。

 ぱっと鮮やかな紅色に変わる。まるで、マジックのよう。あるいは、不思議でしようがない、理科の実験か。


 なぜこの場に、美弥か雪美、どちらかがいないのかと、残念に思う。


 しかし、仕方がない。

 砂糖を入れて甘く煮詰めたジュースを、冷蔵庫で、きんきんに冷やしておかなければならないから。

 暑い暑いと言って、学校から帰ってきたら、すぐに、冷たい紫蘇ジュースを飲ませてあげなくちゃならないから。


 濃縮した紫蘇ジュースを、冷たい水で割って……。


 いけない。水を買っておくのを、忘れてた。


 小学生の子どもに、水道の水をそのまま飲ませることには、抵抗がある。

 ペットボトルの水に払うお金を惜しんで、水道の水を飲み続けていたら、お腹を壊してしまった過去が、私にはあることだし。



 財布をつかみ、外に出た。


 わざわざ水を買いに行かなければならないのはめんどうだけど、歩いてすぐのコンビニエンスストアで売っているのは、便利だ。


 不便なんだか便利なんだか、わからない。



 「あら、久しぶり!」

アイスのケースを回ったところで、急に声を掛けられ、飛び上がった。

 以前、ヨガのクラスで一緒だった、武藤むとうさんだ。


「ほーんと。この頃、会わないわねえ」

 嬉しくなって、つい、高い声が出た。

 だが、狭いコンビニの中だったことを思い出し、慌てて、声を潜める。

「元気だった?」


「もちろん。あなたこそ、この頃、ちっともお教室に来ないじゃない」

「いろいろ大変なのよ。子どもがいると、ね」

「そうよねえ。信子さん、偉いわ」



 以前、ヨガ教室に参加していた。市の体育課が主催している教室だから、月謝が安かったのだ。

 しかしここのところ、PTAが忙しくて、ヨガの方は、すっかり足が遠のいていたのだ。



 しばらく同じ教室の誰彼の噂話をした後(もちろん、店の人や他のお客の迷惑にならないよう、小さな声で話し合っていた。邪魔にならぬよう、この時間には、あまり売れそうにない酒売り場に移動もしたし)、武藤さんは、一段と声を潜めて言った。


「小早川さんの火事、知ってる?」


私は、今朝、乾さんに聞いたと答えた。


「なんかね、放火らしいわよ」

「聞いたわよ。でも、物置だけなんでしょ、燃えたの。おうちは大丈夫だったってね」

「それはそうらしいけどね」


 なんだか残念そうに聞こえたのは、気のせいか。

 武藤さんは、いっそう、声を潜めた。


「放火犯ね、見たって」

「えっ、嘘っ!」


「本当よ。小早川さん本人から聞いたのよ」


 そう言えば、武藤さんは、小早川さんと同じ町内だ。


「誰よ、犯人って?」


「それがね……」

武藤さんは意味ありげに、言葉を切った。

「子どもらしいのよ」


「子ども? まっ!」


「旦那さんがね、火事だーっ、て叫んで、外を見たら、小学校低学年くらいの小さな人影が、逃げていくのを、夫婦揃って見たんだって」


「きっと男の子よ。そんな悪さするのは」


 きっぱりと私は言い切った。

 うちの美弥は女の子だ。だから、全然全く無関係。


 武藤さんは、首を傾げた。


「さあね。小早川さんも、そこまではわからなかったみたい。でも、ほら、あそこんちも、小学生の子どもがいるでしょ? ちょうどそれくらいの背丈だったって」


「何て子かしらね。世も末よね」



 本当に、どこの餓鬼だろう。しつけの悪いどころではない。親もさぞかし、凶悪であろう。

 親の背中を見て子は育つ、と、言うではないか。


 基本的に、子どもに罪はないのかもしれないが、あまりに自己中心的な親や、善悪の基準が著しくズレている親に育てられた子とは、うちの子は遊ばせたくない、と思う。


 親が悪い、親の顔が見たい、と言うと、親が追い詰められるとか言う馬鹿者もいるが、しかし、大のおとなである。

 自分の子どものことで、精神的に追い詰められて、どうする。



 武藤さんも、激しく頷いた。

「いたずらにしたって、悪質よねぇ。放火は、犯罪だもんねぇ」


「そうよ、そうよ。いくら子どもだって、人んちを燃やしちゃ、ダメよ。そもそも、子どもが火遊びなんてねぇ」


 言いながら、脳の一部が、不快に反応した。


 火遊び……。でも、美弥は、年上の子がテストを燃やすのを、見ていただけだ。火遊びをした、と言うのも、憚られる。いいとこ、上級生の遊びに巻き込まれて怒られた、といったところだ。


 不快感はすぐに消えた。

 で、構わず、続けた。


「火遊びはダメだ、って、それくらい、親が、日頃から、ちゃんと言っておくべきよねえ」


 私は美弥に、ちゃんと言ったことだし。

 武藤さんの目が、鈍く輝いた。


「実はね、うちもね、ひどい目に遭ってるのよ」

「ええっ!」


「いえね、放火じゃないけどね。ほら、チャイムを鳴らして逃げてくの」

「ああ、ピンポンダッシュ」


「ピンポンダッシュっていうの? さすがに、子どもと暮らしている人は違うわね。言葉が豊富。そりゃ、放火に比べれば、大したことじゃないかもしれないけど、毎日やられる身としたらねえ。その親も、また……」


 武藤さんは、最近の子どもの悪辣ぶりと、その親の無責任ぶりについて、ひとしきり述べ立てた。



 「前にも、近くで火事があったわよね」



 話がモンスターペアレントと給食費未払いにまで一般化されたところで、私は、武藤さんのおしゃべりを遮った。


 以前にも、深夜に、近くを走る、消防車のサイレンを聞いたことがあった。

 そのことが、さっきから、心の内に引っかかっていた。


 「ああ、見城けんじょうさんのことね。あの、公園の裏のうちでしょ。公園で遊んでいる子らに、うるさいって、怒鳴り散らしてる、おじいさんち……。あすこんちのボヤも、同じ子どものいたずららしいわよ。警察も消防署も、そう見てるって」


「ボヤだったの」


それは残念。あやうく、そう言いそうになった。


「そう、ボヤだったの。燃えたのは、犬小屋だけだったそうよ」



 公園の裏の、その家のおじいさんのことは、よく知ってる。

 美弥と友だちも、公園でドッジボールをしていて、しょっちゅう、怒られているそうだ。


 別に、その家にボールが入ってしまうわけではない。

 ただ、うるさいと、怒られるのだそうだ。


 公園で元気に遊んでいる子を怒鳴るなんて、ひょっとして、その人、変質者?


 心配になって、唯一のママ友、しのぶさんにメールで聞いてみたところ、見城さんという名を教えてくれた。口うるさいことで名高い、近隣の有名人なんだそうだ。


 ……公園でさえ、遊んじゃいけないって、ことなんでしょうかねぇ。


 しのぶさんのメールには、淋し気なコメントが付け加えられていた。


 しかし肝心の子ども達は、あまり気にしている様子はなく(公園で遊んでいるだけなんだから、当たり前だ)、気が向くと、また、その公園へ出かけ、見城さんに怒鳴られている。



 「でも、ここだけの話、あの、小早川ママだって、ソウトウのものよね」

「ほほぅ」


 その件に関しては、こっちも、随分、言いたいことがある。


 息子が美弥に噛まれた、と苦情を言ってきた件については、実際に、何人かの友達にしゃべって、鬱憤を晴らしたものだ。


 みんな、私に同情してくれたし。


 こちらの言い分を聞こうともせず、一方的に美弥のことを責め立てたんだから、当然といえば、当然。



 「子ども同士のケンカで、どこを叩かれた、どこを蹴られたって、しょっちゅう、学校に苦情を言いに行ってるらしいわよ。ちっちゃな青あざくらいで、病院の時間外診療に連れて行って、医者も呆れてたらしいわ。友達の友だちに、聞いたんだけど」


「ふふん。やっぱりね」


「やっぱりねって、あなた、どういうこと?」



 私は、武藤さんにも、この春の出来事を話してあげたが、さすがに、何度も話しているし、時間も経っているので、いささか、臨場感に欠けたのも、否めない。


 にもかかわらず、


「モンスターペアレントよね」


武藤さんは、自信たっぷりに判定を下した。










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