紫蘇ジュース
赤紫蘇の葉を、大枝からちぎり取り、たくさんの水で、じゃぶじゃぶ洗う。
刺すような新鮮な香りが、辺りいっぱいに広がる。
幸せを感じた。
冷たいきれいな水をたっぷりと使えること、これは、人類最古最上の、幸福だ。
大鍋いっぱいの湯が、ぐつぐつと煮立った。水を切った赤紫蘇の葉を放り込む。
しばらく煮ると、お湯が黒っぽい赤に染まった。
火を止めて、ぴんと張った布巾にわっと開ける。布巾に濾し取られた紫蘇の葉は、どれも緑色に変わってしまっている。
赤紫のお湯と、緑色になった、赤紫蘇の葉。
色素を、お湯に移してしまったのだ。
いつものことながら、感動する。色が、こんなにはっきりと、葉っぱからお湯へと移っていくなんて。
しかし、最大の感動は、なんと言っても、濾した赤色のお湯に、酢を注いだ瞬間だろう。
ぱっと鮮やかな紅色に変わる。まるで、マジックのよう。あるいは、不思議でしようがない、理科の実験か。
なぜこの場に、美弥か雪美、どちらかがいないのかと、残念に思う。
しかし、仕方がない。
砂糖を入れて甘く煮詰めたジュースを、冷蔵庫で、きんきんに冷やしておかなければならないから。
暑い暑いと言って、学校から帰ってきたら、すぐに、冷たい紫蘇ジュースを飲ませてあげなくちゃならないから。
濃縮した紫蘇ジュースを、冷たい水で割って……。
いけない。水を買っておくのを、忘れてた。
小学生の子どもに、水道の水をそのまま飲ませることには、抵抗がある。
ペットボトルの水に払うお金を惜しんで、水道の水を飲み続けていたら、お腹を壊してしまった過去が、私にはあることだし。
財布をつかみ、外に出た。
わざわざ水を買いに行かなければならないのはめんどうだけど、歩いてすぐのコンビニエンスストアで売っているのは、便利だ。
不便なんだか便利なんだか、わからない。
「あら、久しぶり!」
アイスのケースを回ったところで、急に声を掛けられ、飛び上がった。
以前、ヨガのクラスで一緒だった、武藤さんだ。
「ほーんと。この頃、会わないわねえ」
嬉しくなって、つい、高い声が出た。
だが、狭いコンビニの中だったことを思い出し、慌てて、声を潜める。
「元気だった?」
「もちろん。あなたこそ、この頃、ちっともお教室に来ないじゃない」
「いろいろ大変なのよ。子どもがいると、ね」
「そうよねえ。信子さん、偉いわ」
以前、ヨガ教室に参加していた。市の体育課が主催している教室だから、月謝が安かったのだ。
しかしここのところ、PTAが忙しくて、ヨガの方は、すっかり足が遠のいていたのだ。
しばらく同じ教室の誰彼の噂話をした後(もちろん、店の人や他のお客の迷惑にならないよう、小さな声で話し合っていた。邪魔にならぬよう、この時間には、あまり売れそうにない酒売り場に移動もしたし)、武藤さんは、一段と声を潜めて言った。
「小早川さんの火事、知ってる?」
私は、今朝、乾さんに聞いたと答えた。
「なんかね、放火らしいわよ」
「聞いたわよ。でも、物置だけなんでしょ、燃えたの。おうちは大丈夫だったってね」
「それはそうらしいけどね」
なんだか残念そうに聞こえたのは、気のせいか。
武藤さんは、いっそう、声を潜めた。
「放火犯ね、見たって」
「えっ、嘘っ!」
「本当よ。小早川さん本人から聞いたのよ」
そう言えば、武藤さんは、小早川さんと同じ町内だ。
「誰よ、犯人って?」
「それがね……」
武藤さんは意味ありげに、言葉を切った。
「子どもらしいのよ」
「子ども? まっ!」
「旦那さんがね、火事だーっ、て叫んで、外を見たら、小学校低学年くらいの小さな人影が、逃げていくのを、夫婦揃って見たんだって」
「きっと男の子よ。そんな悪さするのは」
きっぱりと私は言い切った。
うちの美弥は女の子だ。だから、全然全く無関係。
武藤さんは、首を傾げた。
「さあね。小早川さんも、そこまではわからなかったみたい。でも、ほら、あそこんちも、小学生の子どもがいるでしょ? ちょうどそれくらいの背丈だったって」
「何て子かしらね。世も末よね」
本当に、どこの餓鬼だろう。しつけの悪いどころではない。親もさぞかし、凶悪であろう。
親の背中を見て子は育つ、と、言うではないか。
基本的に、子どもに罪はないのかもしれないが、あまりに自己中心的な親や、善悪の基準が著しくズレている親に育てられた子とは、うちの子は遊ばせたくない、と思う。
親が悪い、親の顔が見たい、と言うと、親が追い詰められるとか言う馬鹿者もいるが、しかし、大のおとなである。
自分の子どものことで、精神的に追い詰められて、どうする。
武藤さんも、激しく頷いた。
「いたずらにしたって、悪質よねぇ。放火は、犯罪だもんねぇ」
「そうよ、そうよ。いくら子どもだって、人んちを燃やしちゃ、ダメよ。そもそも、子どもが火遊びなんてねぇ」
言いながら、脳の一部が、不快に反応した。
火遊び……。でも、美弥は、年上の子がテストを燃やすのを、見ていただけだ。火遊びをした、と言うのも、憚られる。いいとこ、上級生の遊びに巻き込まれて怒られた、といったところだ。
不快感はすぐに消えた。
で、構わず、続けた。
「火遊びはダメだ、って、それくらい、親が、日頃から、ちゃんと言っておくべきよねえ」
私は美弥に、ちゃんと言ったことだし。
武藤さんの目が、鈍く輝いた。
「実はね、うちもね、ひどい目に遭ってるのよ」
「ええっ!」
「いえね、放火じゃないけどね。ほら、チャイムを鳴らして逃げてくの」
「ああ、ピンポンダッシュ」
「ピンポンダッシュっていうの? さすがに、子どもと暮らしている人は違うわね。言葉が豊富。そりゃ、放火に比べれば、大したことじゃないかもしれないけど、毎日やられる身としたらねえ。その親も、また……」
武藤さんは、最近の子どもの悪辣ぶりと、その親の無責任ぶりについて、ひとしきり述べ立てた。
「前にも、近くで火事があったわよね」
話がモンスターペアレントと給食費未払いにまで一般化されたところで、私は、武藤さんのおしゃべりを遮った。
以前にも、深夜に、近くを走る、消防車のサイレンを聞いたことがあった。
そのことが、さっきから、心の内に引っかかっていた。
「ああ、見城さんのことね。あの、公園の裏のうちでしょ。公園で遊んでいる子らに、うるさいって、怒鳴り散らしてる、おじいさんち……。あすこんちのボヤも、同じ子どものいたずららしいわよ。警察も消防署も、そう見てるって」
「ボヤだったの」
それは残念。あやうく、そう言いそうになった。
「そう、ボヤだったの。燃えたのは、犬小屋だけだったそうよ」
公園の裏の、その家のおじいさんのことは、よく知ってる。
美弥と友だちも、公園でドッジボールをしていて、しょっちゅう、怒られているそうだ。
別に、その家にボールが入ってしまうわけではない。
ただ、うるさいと、怒られるのだそうだ。
公園で元気に遊んでいる子を怒鳴るなんて、ひょっとして、その人、変質者?
心配になって、唯一のママ友、しのぶさんにメールで聞いてみたところ、見城さんという名を教えてくれた。口うるさいことで名高い、近隣の有名人なんだそうだ。
……公園でさえ、遊んじゃいけないって、ことなんでしょうかねぇ。
しのぶさんのメールには、淋し気なコメントが付け加えられていた。
しかし肝心の子ども達は、あまり気にしている様子はなく(公園で遊んでいるだけなんだから、当たり前だ)、気が向くと、また、その公園へ出かけ、見城さんに怒鳴られている。
「でも、ここだけの話、あの、小早川ママだって、ソウトウのものよね」
「ほほぅ」
その件に関しては、こっちも、随分、言いたいことがある。
息子が美弥に噛まれた、と苦情を言ってきた件については、実際に、何人かの友達にしゃべって、鬱憤を晴らしたものだ。
みんな、私に同情してくれたし。
こちらの言い分を聞こうともせず、一方的に美弥のことを責め立てたんだから、当然といえば、当然。
「子ども同士のケンカで、どこを叩かれた、どこを蹴られたって、しょっちゅう、学校に苦情を言いに行ってるらしいわよ。ちっちゃな青あざくらいで、病院の時間外診療に連れて行って、医者も呆れてたらしいわ。友達の友だちに、聞いたんだけど」
「ふふん。やっぱりね」
「やっぱりねって、あなた、どういうこと?」
私は、武藤さんにも、この春の出来事を話してあげたが、さすがに、何度も話しているし、時間も経っているので、いささか、臨場感に欠けたのも、否めない。
にもかかわらず、
「モンスターペアレントよね」
武藤さんは、自信たっぷりに判定を下した。