手作りのジャム
夜、また、火事があった
早寝なので私は熟睡していた。
迫り来る消防車のサイレンがけたたましくクレッシェンドしてくる。さすがに、私も飛び起きた。
とりあえず部屋を覗くと、寝ているのは、雪美だけだった。
美弥の部屋は、もぬけの殻だった。
狭い家の、どこにも、美弥はいなかった。
心臓を冷たい手で、ぎゅっと、つかまれたような感じがした。
外へ探しに行こうとしていると、かちゃっ、とドアが開いて、美弥が帰ってきた。
「美弥……」
安堵のあまり、息が詰まり、私は一度、言葉をとぎらせた。
呼吸を整える必要があった。
「美弥、あなた、こんな時間に、どこへ行っていたの?」
「消防車、見てた」
「どこで? お庭の外へ出たの?」
「ううん。門のところで、消防車、見てた」
嘘を言っている様子は感じられなかった。
何の罪悪感も、その小さな体からは、漂ってこない。
本当に、門のところで消防車を見ていたのだろう。
或いは、どこかから帰ってきて、そして、立ち止まって、振り返って。
そう、消防車を見ていたのは、嘘偽りなく、門の中なのだ。
その一点で、真実を語っていた。
その一点のみ。
美弥は、眠そうにあくびをした。
美弥が歯磨きに立った後、また、朝ごはんを抜こうとしている雪美を、なんとかダイニングテーブルの椅子に座らせて、聞いてみた。
「夜、美弥が部屋を抜け出してるの、知ってる?」
めんどくさそうに、パンにイチゴジャムを塗る雪美の手が、ぴたりと止まった。
「知らない」
知らない? ふん。
「ゆうべ、外へ出てたみたいなのよ」
「消防車がうるさかったからじゃない」
「前にも、そういうこと、あったのよ」
「そう?」
「そう? って、同じ二階にいるのに、何も気がつかないの? 夜遅くまで、勉強してるんでしょ?」
雪美は、こちらをじろりと見ると、すぐに目をそらせた。
こうなってしまったら、もう、駄目だ。氷のような沈黙が、テーブルの向こうの、小6女子から、漂ってくる。
「妹が夜、外へ出て行くのよ。心配じゃないの?」
私は言い募る。
変質者に会ったら?
誘拐犯に会ったら?
通り魔に出会ってしまったら!
この物騒な世の中で、子ども達は、常に危険と隣りあわせなのだ。
だが、雪美にとって私は、すでに、透明人間となってしまったようだ。
姿だけでなく、声さえも消えた、透明人間。
それって、いないのと同じことだ。
だが、私はまだ、ここにいる。
私は息をすうーっ、と吸って、語調を変えた。
「どうでもいいけど、雪美、そのジャムには、お砂糖を300グラム、入れたのよ。それを、あなたたちが2人で、3日で食べちゃうわけだから、単純に計算して、1人1日、ごじゅ……」
ジャム付き食パンの最後の一切れが、すでに口の中に消えているのを確認して、言ってやった。
「ごちそうさま」
雪美は、言葉の途中で私を遮った。
まるで、全部聞いたら、それだけの砂糖が即、脂肪に変わってしまう、とでもいいたそうな、性急さだった。
そして、私を、じろりと睨む。
目から殺人ビームが飛んできそうな感じだったが、律儀にごちそうさまを言うところが、子どもっぽくて、おかしかった。
「美弥のことは、ほっといてやれよ、ババァ」
「だから、ババァじゃなくて……」
雪美が、私のことを「ババァ」と呼ぶのは、仕方のないことだと思っている。私が、悪かったのだ。面と向かって「ババァ」と呼ばれると、彼女が幼い日のことが思い出され、辛くなる。
捨て台詞を残して、雪美は、食卓を立った。
2人を送り出し、ゴミ捨てに出た時、乾さんに、ばったりとあった。乾さんのところには、中学生の息子さんが2人いる。
子ども達もそうだが、乾さん自身も、いつも気持ちよく挨拶して下さる。隣の酒井さんをはじめ、道端で会っても、知らん顔を決め込む人が多い中で、常に安らぎの光を放っている、貴重な人だ。
だから、乾さんと会えると、嬉しくてしようがない。
元気よく挨拶すると、乾さんの方から、ゆうべの火事の話を持ちかけてきた。
ちょっと、強調しておくが、乾さんから、この話を始めたのだ。
何が言いたいのかというと、私は、忙しい人を、誰彼構わず、強引に引き止めて、べちゃくちゃおしゃべりしているのではない、ということだ。
先に挨拶をしたのは私だけれど、おしゃべりを始めたのは、乾さんだもんね。
もちろん、私の方だって、相槌を打つのに、やぶさかではない。
ご近所づきあいは、大切です。
乾さんは、お兄ちゃんが、火事を見に行ったと話してくれた。
家ではなく、庭に置かれた簡易倉庫が燃えただけ、ということだった。
放火、という噂だそうだ。
そして最後に、枇杷坂の、小早川さんの家だと、付け足した。
春に、美弥が噛み付いた、さとる君の家だ。