安いラッキョウを求めて
「あのー」
今まで勢いよくしゃべっていたくせに、妙におしとやかに田之倉さんが言う。
「私、下の子を迎えにいかなくっちゃならないから……」
「あ、私もちょっと仕事が……」
慌てたように後藤さんが言う。
下の子がいたり仕事があったりするのなら、仕方がない。
「ごくろうさま」
気持ちよく聞こえるように、私は言った。
2人は、ほっとしたような顔をして、バッグをひっつかみ、あっというまに姿を消した。
「まったく、信子さんも人がいいんだから」
下を向いて、プリントの束を数えながら、しのぶさんが言う。
「だって、仕事や子育てじゃ、仕方がないでしょ」
「後藤さんのパートは午前中。前にそう言って、午前中にあった委員会を休んだでしょ。今は午後の3時よ。それに、下の子ってさぁ、田之倉さん、子どもが4人、いるんだよ? お迎えなら、今頃、上のお姉ちゃんが帰ってるって」
「4人……」
世の中、少子化少子化と、かまびすしいが、これが意外と、3人4人という、子持ちの母がいる。
「そういうお母さんに限って、ナントカ委員長とか、本部役員とか、大変な役は逃げ切るんだよね」
「なんで?」
4人もいたら、クジを引く確率もそれだけ高くなるんじゃないか?
「上の子の時はさ、下の子のお世話でできません、って言えばいいし、下の子の時は、上の子の受験で大変っ! て言うの」
「受験って、なんで、母が大変なの?」
「知らない。とにかく、そう言うの」
「ずるい……」
思わずつぶやいてしまった。
学校に、子どもが何人もお世話になっているのなら、その分、余計に、無料ボランティアにいそしんでもいいんじゃないのか?
「受験でなくても、下の子の時にやりますから、って言うの。そして、末っ子の時に、今までのテクニックを駆使して逃げ切ればいいんだから、楽勝でしょ。かわいそうなのは、何も知らない一人っ子の親よ」
私たちが印刷している「PTA役員互選会に前向きに参加して頂く為に」には、本部役員を逃げる場合の権利について書かれている。
本人が重大な病気の場合(医師の診断書提出)
本人が妊娠中の場合
未就園児がいる場合
ちなみに仕事は口実にならない。
介護は、「義親の介護をしながらでも、PTA役員をやり遂げた!」と豪語した人が過去にいたとかで、これも口実にはならない。
こんなに厳格に定められているのに、逃げ切るテクニックがあるというのか。
「信子さんは、真面目ねえ」
しのぶさんはため息をつく。
「要するに、クジ引きの日に、来ないのよ」
「あっ、そうか」
私はそれで、失敗したというのに。
本部役員を決める互選会に出席する人は、各学年各クラスごとに選出される。
つまり、クジ引きだ。
ここを休んでしまえば、クジを主催する旧役員が、休んだ人に「当たりました」と伝える煩雑さを嫌がるので、その場に来た人だけのクジ引きになる。
そうだった。私はそれで、「互選委員」などというものになり、さらに、「委員長」に祭り上げられているんだった。
さすが、子沢山母さん。パートをしながら、巧みに厄をよけ、たくましく子育てを続けている。
ただ、私にしてみれば、どうしても、踏みつけにされているような気がしてならない。
日本には、繁栄し続ける家系と、淘汰されつつある家系が存在するのではないか。
「それにしても、医師の診断書とか、妊娠とか、これ、プライバシーよねえ」
自分が書いたプリントをしげしげ眺めながら、思わず言ってしまった。
これは、年度の数字を変えただけの、昨年度の丸写しだ。
初めてやるのだもの、前年度をそっくりそのまま踏襲するのは、やむをえない。
しかし、実は、書きながら、強烈な違和感を覚えていたのだ。
婦人科の病気なら人に言いにくいし、精神を病んでいたらもっとであろう。死病であったらどうするのか。診断書を見せられた方も、困るのではないか。
妊娠も、垂れ下がるくらい腹が突き出てきたらまるわかりだが、2ヶ月、3ヶ月の、気持ちも体も不安定な時期に、いわば家族だけでひっそりと見守っている大事な秘密を、なぜ、アカの他人に打ち明けなければならないのか。
無事に生まれればいい。もし、流産や死産であったら、周りの人が、不用意に話題にしないという信頼があるのか。
「つまりそれだけ、要領よく、逃げる人が多いってことよ」
諦めきったように、しのぶさんは言った。
「でもさ。実際の話、これだけ活動があれば、フルタイムで働いている親は無理よねえ」
キャリアウーマンで働く母親、真紀子の顔が頭に浮かぶ。
先日、電話で、互選委員の委員長になった話をしたのだ。
真紀子は、激怒していた。
なぜ、そんなものを引き受けたのか。
ヒマな専業主婦の寄り合いではないか。仲良しランチでも、食べるつもりか。
そう言われて、つい、私がやることだから、いいじゃないのっ! と怒ってしまった。
まあ、私自身も、PTAなどなくてもいいんじゃないか、と、強く思ってはいるのだが。
パートや専業主婦など、時間のある人でさえ、なんとか口実をつけて、さぼろうとするし。
みんながそんなにやりたくないのなら、PTAなんてなくしてしまえばいいのに。
そう思いつつも、「ヒマな専業主婦の寄り合い」と言われれば、やっぱり、反発する。
何度も言うようだが、私は、専業主婦ではあるが、ヒマではない。
今は、1円でも安いラッキョウを求めて、地元のスーパーを渡り歩いている。
もちろん、伝統の健康食、ラッキョウ漬けを作る為だ。
PTAは、私がやるんだから、と言うと、真紀子は、急におとなしくなったっけ。
「私も、働きたいと思うのよねぇ」
不意に、しのぶさんが、小さい声で言った。そういえば、さっきも、履歴書がどうのこうのと言ってたっけ。
「ずっと正社員で働いていたの。でも、子どもが生まれて、会社を辞めてしまって……。だから、働き続けているお母さんに、すごく、コンプレックスを感じてるの」
「何言ってるの。主婦も、立派な仕事よ」
「でもさ、結局、自分の、自分の家族の為のことしかやってないわけじゃん」
「下の、タクちゃん、まだ、一年生でしょ。焦ることないって」
私は、後藤さんのように、そんなとこに勤めちゃダメ、なんて、差し出がましい口は利かない。
育ちがいいのだ。
しのぶさんは、言い募る。
「お金も、欲しいのよ。仕事を辞めてから、私、自分の服は、2000円以上のもの、買ってない。この頃は、1000円以下よ。今に、子どもの教育にもお金がかかるようになるし。働きたい、って、強く思う」
そういえば、働こうとしても、正社員の口はない、とも言っていた。
「でも、だからといって、子どもに淋しい思いをさせてまで、半端な仕事はしたくないのよ。パートの収入なんて、子どもを預けたり、食費なんかで、消えちゃうもん。働く生活を維持する為に稼ぐのは、なんか、違うと思う」
しのぶさんは、主婦が外に出れば、クリーニングや外食、買ってきた惣菜など、勢い、家事の外注が増えると説明した。
また、小学校の間であれば、親が勉強をみてやることも可能だが、親に時間がなくなれば、これも、塾という外注産業に頼らざるをえない。
子どもがいない時間にひと稼ぎ、と思っても、所詮は、主婦不在の家事育児の外注分を賄うので精一杯なのだ。
「近く、働き出すの?」
「まさか。こんなオバサン、どこも雇ってくれはしないわよ。履歴書出しても、断り状も来ないわ」
「それはひどいわね。失礼よ」
「そうね。でも、交通費使って、会う前から、断るつもりの面接も、行きたくないよ。それに……」
しのぶさんは、笑った。疲れたような、薄い笑みだった。
「私はやっぱり、家族には、時間が経てば、ちゃんと腐る物を食べさせたいの。夫のお弁当も作ってあげたいし」
「腐る? 食べ物なら、当たり前じゃない?」
「ところが、そうじゃないのよね」
しのぶさんは、遠い目をした。
「たとえば、化学調味料は腐らないでしょ?」
「あっ、そうか……」
「レトルト食品なんかは、封を切らない限り、変質はしても腐りはしない。冷凍食品も、凍っている間は、大丈夫」
「そういえば、家で作った炒め物は、次の日には水っぽくなっているけど、買ってきたお惣菜は、何日も味が変わらないわよね」
それに感心した日もあったが、よく考えれば気持ち悪い。味も、なんとなくなじまないし。
しのぶさんはうなずいた。
「防腐剤が入っているお惣菜もあるよ。あのさ、防腐剤って、食べ物? 補助食品で栄養を補う人もいるけど、あれも腐らない。栄養補助食品は、薬局で売ってるよね? でも薬局って、薬を売るとこだよね、食べ物じゃなく」
「だけどさ。腐るって、いやよね。食中毒も怖いし。あ。でも、腐りかけの桃はおいしい。じゅくじゅくの柿も、黒くなったバナナも」
「腐るって、当たり前のことじゃん? 生き物は、最後は腐って、土にかえるんだよ。だから、命の元になる食べ物は、腐るものでなきゃ、いけないの」
「はあ。確かに、レトルトやサプリばかり食べさせるのは心配よね」
「そういうモノを食べ続けても、平気な人もいるでしょ、そりゃ、中には。でも、私は、自分の家族には、食べさせたくない。少なくとも、毎日は」
珍しく饒舌になって、しのぶさんは続けた。
「食べることって、生きる楽しみでしょ? 家族には、おいしいものを食べさせてあげたいよ。知り合いのキャリアママにね、すごい料理をする人がいてね。とにかくレンジでチンチンチン、たまに、肉や魚をトースターで焼く、トースターは洗わず、数ヶ月で使い捨てね。煮物の基本は、めんつゆ。もちろん、化学調味料ばりばりのやつ。そりゃ、仕事、頑張ってるんだなあ、その上家事もって、たいへんだなあ、って思うけど、私は、そんなモノを家族に食べさせるのは、絶対、いや」
「おだしは、煮干やこんぶでとりたいわよね」
私も同調した。
しのぶさんは、なおも言う。
「私ね、電子レンジって、嫌い。火を使わない調理って、生理的になじまなくて」
「あれね。どういう仕組みなのかしらね」
「細胞の水の分子をぶつけあって、摩擦熱を引き出すのよ」
「細胞……? 分子……?」
「化学変化よ。そのキャリアママはね、野菜をゆでる代わりに、レンジでチンするんだって」
あまり使ってはいないのだが、うちにも電子レンジはある。しかし、解凍すれば、外側は変色しても中は半分凍っていたなんて、日常茶飯事だし、温めすぎて、ラップを外す時にやけどをしたこともある。
どうにも、私にはうまく使いこなせない。
「あのね、私、思うのよ」
真紀子の怒りを思いつつも、私は、ゆっくりと口にした。
「世の中には、きちんと家事をする女性にしかわからない真理があるって」
「家事をする女性にしかわからない真理? 家事と女性を結びつけた時点で、信子さん、NGだよ」
「いいのよ。真理だもの」
「強引ね。ま、いいや。教えてよ」
「それはね、家族のことを一生懸命考えて、料理する人にしか、わからないのよ」
「なにそれ。ずるい」
「今にわかるから。それは多分、代々の女に、ずっと受け継がれてきたものだと思うの」
「母から娘へ?」
「女から女へ、よ」
「石垣りんの詩みたいね」
「なにそれ?」
今度は私が、きょとんとする番だった。
「『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』っていう。昔、国語の教科書に載ってたの。でも今は、女と料理を結び付けているっていうんで、教科書には載せなくなったみたいよ」
「つまらない国よね」
「滅びるわね」
私としのぶさんは、顔を見合わせて、くすっと笑った。