ぱすん、ぱすん
ばすん、ばすん。
夕方、6時近くになると、異様な音が、近隣に響き渡る。
初めて聞こえた時、何かと思って外へ飛び出してしまった。人が、凶器を持って殴り合う音にも聞こえたのだ。
幸い、といっていいのかどうか、それは、隣のうちの子どもが、自分の頭よりもでかいサッカーボールを、塀に、蹴り当てている音だった。
うちの塀に。
ちっとも、楽しそうでない。こわばった顔をしている。
遊んでいるのか?
ボールは時折、うちの庭にも転がり込む。
すると子どもは、表情一つ変えずに敷地内に入り込み、ボールを拾って出て行った。
ええと。
お庭に立っている、その家の人に、何の断りもなしですか? ボールは、お隣さんの、足元に転がっているのですよ?
隣は共働きで、30代の夫婦に、小学校3年生くらいの子どもが一人。この家の旦那……と言ったらだめなんだった。ああ、めんどくさい……夫婦の夫の方は、私が挨拶しても顎をしゃくるだけで、挨拶を返してこない。
奥さん……これもダメだ!……夫婦の妻の方も似たようなものだ。隣人を露骨に避けている。私が庭に出ている時に通りかかっても、決して声を掛けてこない。
隣家を中古で買って、わりと最近引っ越してきた家族なのだが、なんだか、近所づきあいを避けているみたいだ。
子どもは、美弥たちと同じ小学校で、学童保育に通っている。
シュンスケ、という名前だ。「シュンスケッ!」という母親の罵声が、夜間や休日によく聞こえてくる。
シュンスケは、学童から帰ると、誰もいない家には入らずに、家の前の道路で、力任せに、ボールを蹴りつけている。
それにしてもすごい音だ。虫歯に響くような、低くドスのきいた音。
薄暗い中、まるで何か別のものを蹴っているかのように、ボールを蹴り飛ばしている男の子は、少し、怖い。
それが、夜になっても鳴り止まない。
バスッ、ドカッ。
音の調子が激しくなる。
そっと覗いてみると、母親が一緒になって、ボールを蹴っていた。
髪を長く伸ばし、流行りなのだろうか、下着が透けるような化繊の上っ張りを着ているのが、灯火の下に来た時に見えた。
服装だけ見ると、結婚前の娘にも見える。
しかし、あちらを向いた時の背中の盛り上がり具合と、透ける洋服からふてぶてしくのぞいている二の腕は、まさしく中年の女そのものだった。
中年女を観賞していても不愉快なので、雨戸を閉める。
わざと音をたてて閉める。
こちらが不快を感じていると、わかってくれれば、御の字だ。だが、そもそもそういう感性のある人なら、暗くなってから、道路でボール遊びなどしまい。
やがて車の音がして、2時間近く続いたボールの音は止む。
お父さんのお帰りだ。
それからすぐに、RV車が、再びエンジン音を轟かせ、出て行く。
家族そろって、ファミレスやステーキハウスに出かけているのだそうな。同じファミレスで、何度も、目撃した人がいる。
子どもが、ほぼ毎晩外食。
ま、いいんですけどね。
お母さんも働いてらっしゃるんだから。
私は専業主婦だから、何も言っちゃ、いけないのよね。
「おかぁさぁーん、おかぁ、さーん」
非難がましいような、耐え難いような、子どもの声が聞こえるのは、深夜12時過ぎである。
当然、私は眠っているが、あまりの声の異様さに、目が覚めてしまう。
子どもは、暫く泣き続ける。
うぉーん、うぉーん、という、脅しつけるような大声だ。
低く、こちらの体にねばりついてくるような泣き声。
もう、ちょっと、なんでもいいから、お母さん、なんとかしてあげてよ。
再び眠れず、心の中で毒づく。
子どもは、子どもの泣き声に鈍感なのか、美弥も雪美も、目を覚まさない。だから、私も苦情は言わないのだが、いくら暑いからといって、せめて、窓くらい閉められないものだろうか。
この辺の家は古いので、防音は完璧ではない。隣の窓とうちの窓は2~3メートルほどの幅で向かい合っている。どちらかの窓が開いていると、家の中の音は丸聞こえだ。
そのことがわかっていない筈はないのだが。
「おかぁさぁーん、おかぁ、さーん」
がらがらがらっ
わざと音を立てて窓を開け、ベランダへ出る。
驚いたことに、子どもは、うちと隣り合ったベランダに出ていた。
うちの窓が開いたので、驚いたようにこちらを見る。
「どうしたの?」
さきほどまでの怒りも忘れ、問いかけた。
子どもがベランダに出ているに気がつかないで、親がうっかり鍵を掛けてしまったとか。
しかし、こんなに子どもが泣いているのに気がつかないなんて……。
いやいやいや。
共働きのご夫婦は、お疲れなのだ。暇な専業主婦と違って、ぐっすり熟睡しておられるのだ。
それとも、お仕置きで、外に出されたとか?
この子は、うちの庭にボールが入っても、黙って入って、持っていく。親も私を無視し続けている。暗い道路で、母と子が蹴るボールは、凄い威力だ。
ひえぇぇぇぇ。
触らぬ神になんとやら……
しかし。
確かに寒い季節ではない。けれど、深夜だ。
子どもの泣き声を聞いて、ヘンタイさんが駆けつけてきたらどうするつもりだ? ちゃちな戸建てのベランダなんか、よじ登るのは簡単だ。
いずれにせよ、子どもには、充分な睡眠が必要である。
直球で、私は話しかけた。
「何か困ったことがあるのなら、話してもいいのよ?」
子どもが立ち上がった。
暗いので、その表情まではわからない。
静かだった部屋の中から、ぼそぼそと女の声が聞こえた。
弾かれたように、子どもは、部屋の中に駆け込んだ。
ぴしゃんと窓が閉められた。
って。
鍵、開いてんじゃん。
お母さん、そこにいるじゃん。
寝室に戻ったが、気が立って眠れない。
ぴしゃん、って、あれはない。
親がいるのなら、心配して声を掛けてきた隣人に対して、何か一言、あっていいのでは?
ふつり。シュンスケの泣き声は、止んだままだ。
それはそれで不穏なしじまが、夜を満たす。