月夜話、番外編 「秋の夜長に」
十月の初めにしてはいくぶん寒い夜のこと。芳春の部屋に置かれた炬燵はもうすでに電気がつけられていた。
芳春にあてがわれている部屋は、とても広い。さらにすきま風もあって、部屋の中はだいぶ寒かった。
更紗のお古の半纏を着て、炬燵に足をつっこむ。万全の体勢をととのえて、芳春は眠たくなるまでの時間を勉強にあてていた。
夜の十時過ぎ−−この頃になるとあたりはもの凄く静かになっていて、鉛筆のカリカリする音だけが聞こえてくる。
秋の夜だけはきっとほかの季節よりも長いのじゃないかな、そう思ってしまうのはこんな瞬間である。
そして、こんな静かな時にはたいてい、更紗が邪魔をしに来るのだった。
「炬燵に入れさせてぇ!」
ノックと同時に扉が開き、パジャマ姿の更紗が飛び込んできた。芳春の向かい側を陣取ったかと思うと、体まで炬燵にもぐりこむ。
「うぅん、ゴロゴロ」
芳春が、「ねぇこぉは炬燵でまぁるくなるぅぅ」という言葉を思いだしていると、ぴょっこりと更紗の顔があらわれた。
「芳春君、なにしてるの?」
「あっ……寝るまでのあいだ、勉強をしようかと思って」
「勉強? 健康的じゃないなぁ」
芳春はおもわず苦笑した。
「じゃあ、何が健康的なんですか?」
「誰かの家に遊びに行ったり、ファミコンしたり、漫画読んだり、舞姫と恋を語らったり」
ちょうどその時、舞姫が大きな盆を持ってあらわれた。その盆の上には、二組の紅茶がほのかな湯気をあげていた。
「誰が恋を語るって」
「あら、舞姫ちゃん。聞いてたの?」
「聞こえただけよ。余計なことは言わないの」
「照れちゃってっ!」
更紗がぽんっと舞姫の肩をたたく。いつもなら舞姫が反撃に転じるのだが、今日は静かだった。そっと、芳春の前に紅茶をおくと、ほのかな甘い香りが漂った。
「あっ、いつもすみません。言っていただければ、僕も手伝うのに」
「いいのよ、私にとっての気晴らしだから」
舞姫はそう言って、もう一つの紅茶を自分のもとに置き、盆を机からおろした。
そして、一瞬の沈黙。
「……私のは?」
更紗の問に、舞姫は冷たく一瞥する。
「働かざるもの食うべからず、よ」
「働いて食わしているのは私じゃん?」
「学生は勉強が仕事。しかるに更紗はいま何をしているの?」
「うっ……」
芳春も二人の問答には慣れてきて、くすくすと笑いながら、口をつけた紅茶をそっと更紗の前に置いた。
「更紗さん、良かったら少しどうぞ。美味しいですよ」
「優しさが心にしみる。少しだけいただくわ」
舞姫が作ってくれた紅茶は、ダージリンのミルクティー。しかも水をいっさい使っていない牛乳だけでこしたものだった。
普段ならちょっとくどいかも知れない紅茶も、こんな寒い夜にはちょうどいい甘さと濃さになっていた。
「インド風ミルクティーよ。頭を使うと、お腹がへるからね」
ちょうどその時、ドアがノックされた。
かちゃりとドアが開くと、萌荵がひょっこりと顔を出した。短い髪の下で瞳が優しく笑っている。
何かと芳春が思うと、ドアの影から電話が出てきた。
「芳春くん、お父様からお電話」
萌荵はそう言うと中に入ってきて、そっと芳春の耳元に受話器をあててくれた。
しばらく聞いていなかった父の声と、二こと三こと交わすうちに、萌荵は炬燵に入りこんでいた。
三人の瞳が見つめる暖かな視線と雰囲気につつまれながら、芳春は嬉しそうに電話口にむかって語りかけていた。
舞姫が電話の邪魔をしないように、自分の紅茶をそっと萌荵に渡すと、萌荵はにっこりと微笑んで口をつけた。
電話が切れる。あたりは夜らしい静寂を取り戻したが、前よりはずっと温かかだった。
「お父さん、何だって?」
「今度の授業参観。遅れるかも知れないけど、必ず来るそうです」
「良かったね」
「はい」
四人はお互いに顔を見合わせて、微笑んだ。
部屋もだんだんと暖かくなり、萌荵は換気のために少し窓を開けた。
その隙間から冷たい空気が入りこんでくる。
胸を冷たくする空気は、吸い込むと意外にも甘い温かな香りがした。
金木犀の香り。
紅茶の香りと重なって、それは不思議な温かな匂いとなってあたりを漂い始めていた。
その空気を胸にいっぱい吸い込んだとき、ふと更紗が呟いた。
「そういえば、芳春君が来てもう三ヶ月もたつのね」
「そうですね。本当にお世話になってばかりです」
芳春はあらためてまわりを見渡す。
「舞姫さんには、いつも食事を作ってもらって有り難うございます」
「どういたしまして」
舞姫は、可愛らしく首をちょこっと曲げておじぎした。
「萌荵さんには武道の相手をしてもらって、だんだん力がついてきました」
萌荵は、それはそれは嬉しそうに微笑んだ。
「ねぇねぇ、私は?」
更紗の言葉に開いた芳春の口は、何かを言おうとしたまま止まった。
しばらくの静寂が続き、そして舞姫と萌荵が腹をかかえて笑いだした。
「いいんだ。どうせ私なんか、単なる邪魔者だもんね」
「そっ、そんなことありません。ただ、どういったらいいのか解らなくって」
誰よりも感謝をしているのに、芳春にはどうしても言葉が見つからなくて、更紗をなぐさめるしかなかった。
そのとき舞姫は、更紗がいてくれたおかげで寂しくはなかったのよ、と芳春の言いたかった言葉を正確に把握していた。
舞姫の両親が引っ越してしまったとき、更紗の邪魔なほどのちょっかいがどれほど寂しさを紛らわしたか。
そして、芳春が父から離れて暮らすことになっても、それほど途方にくれることがなかったのも、やはり更紗がいてくれたからなのだろうな、と舞姫は思っているのだった。
とは言っても、舞姫は口に出して更紗を褒めようとは、まったく思っていなかった。
そうして、舞姫と萌荵は笑い、芳春はすねてしまった更紗をなぐさめ続けるのであった。
空には満ちた月。
金木犀には橙色の花。
月からの冷たい光を一身に浴び、
金木犀はいつまでもほのかな香りを漂わせていた。
月夜の晩の、そんなお話。