其之六 「 三人の少年と合宿 」
八月の終わり。みんみぃんから、つくつくほうしへと、蝉の鳴き声も季節の変化を告げていた頃、神無月家のお屋敷はいつになく騒がしかった。大きな家の中ごろにある道場で合気道の合宿が開かれるため、参加する子供とその両親が庭に集まっていたからである。
その合宿に参加する人数は十五人とそれほどの規模はではなかったが、小学生から高校生まで幅広い年齢の男女が入り交じり、仲の良い兄弟姉妹が集まったような賑わいをみせていた。ある者は自分一人で元気に訪れ、まだ幼い子は両親に連れられてくる。大きな庭はいつになく人で溢れていた。
一人旅行かクラブなどの合宿で、だいたいの子供は初めて親と離れる経験をする。親から引き離された子供は、大方ものすごい不安や寂しさにさいなまれるのだが、そこで見る世界は今までとはまったく違っていて、やがて親から離れた自分というものに慣れてくる。子供は「自立」という言葉を、そうして体で憶えはじめるようである。
小学二年生の「康助<コウスケ>」という男の子は、おかっぱの頭とぷっくらとした容姿をしていて、まだ幼稚園のような幼さを全体的に残していた。ちょっと気の弱い子供で、別れようとする両親の姿を見て、泣き出しそうなぐらい顔をゆがませ、眉間にしわをよせていた。
「康助、じゃあ私達は帰るからね。頑張るのよ」
そう言い残して、両親はいっそ潔いほどそのまま帰ってしまうと、康助はすっかり泣く機会を失ってしまったが、相変わらず寂しさを必死に耐えているような表情をしていた。やがて、あきらめたがついたのか、とぼとぼと道場に向かって歩いていった。
やはり同じ小学二年生の「翼<ツバサ>」という男の子は、反対に元気一杯で、親と離れられることがいかにも嬉しそうに笑っていた。親はちょっと心配そうな表情をしていたが、子供に説得されて、そのまま家へ帰って行った。
「やっと行った。せいせいした」
と言うと、少年は道場に向かって走って行った。
二人は同じ小学2年生の、はじめて親から離れた子供達だった。
一般の小学生の参考にはならないが、神無月家三姉妹の末妹「舞姫<マイヒメ>」はその頃、食事の用意でおおわらわしていた。もっとも、手ではなくもっぱら口が動かすのに苦労をしていたのだが。
合宿参加者15人+先生1人+扶養家族3人。合計19人分の食料を作らなくてはいけなくて、台所には手伝ってくれる母親や近所の奥さんがひしめき合っていた。その中央でいつもの黒い脚立の上に立ち、
「あっ、村上くんのお母さん。魚のはらわたお願いしまぁす! 木村さんのお母さんは、パセリの方を!」
という調子で、気を許すと井戸端会議をはじめてしまうお母さん達を、必死にとりまとめている。メガホンでも欲しいものだわ、と舞姫は心の中だけで呟いた。
「舞姫ちゃん、えらいわねぇ。料理から洗濯までこなしちゃって。うちの子にもすこし見習わせたいわ」
「でも、いつかは憶えることですから、急がなくてもいいんじゃないですか? 今は他のことを吸収する時期だと思いますし」
「そうね。でも、舞姫ちゃん、成績もいいんでしょ?」
「でも、可愛げがありません」
みんないっせいに笑った。
「なに言ってるの。こんなに可愛いのに。本当に私の子と交換したいくらいだわ」
舞姫は微笑みでこたえ、そしてそっとため息をついた。自分はそんな良い子ではないと思っている舞姫は、褒められると何となく疲れてしまう。それに、それでもやっぱり自分の子が一番なのだろうし。
いくつかそんなたわいもない話を交わしていたが、その中でひとつだけ舞姫の心に残る話があった。普段から無口なとある母親が、ふと舞姫に変わった質問をしてきた。
「舞姫ちゃん、御両親は元気?」
「はい。元気ですけど」
「相変わらず仲がいい?」
「うっとうしいぐらい」
「そう、いいわね」
その母親はそういってまた黙ってしまった。
「何かあったんですか?」
話すことが気が向かないようで、しばらくは何もいわなかった。
「……あのね。高坂さんのところ、とうとう別居したの。妹が嫁いでいるから、心配で」
それきり、また黙ってしまった。
親の方は知らないが、その一人息子はこの合宿にも参加していて、舞姫も良く知っていた。昔から暗くて落ちついた雰囲気の子(といっても、舞姫よりはずっと年長なのだが)だったのだが、最近はまたとくに暗さに磨きがかかってきたなぁ、と思っていたところだった。
それでも、合宿にはしっかり参加しているし、今もきっといつものように練習をしているだろう。
子供でも悩みありね……と、舞姫はふと道場の方をながめた。
合気道の先生は、「甲斐武人<カイ タケヒト>」という60をこえる老人ではあるが、いまだ髪も黒々としていて、それらしい雰囲気は微塵も見られない。いつでも真剣な表情と優しい笑顔しか見せぬこの先生は、小さな子供からも好かれている。隣街に住んでいるため、普段は週に一回しか教えることができない。そこでこうして、夏の休みを利用して毎年合宿が行われるようになったのだった。
練習という割には過酷さはなく、一人一人に丁寧に教えてくれるだけである。それでも子供達ははしゃぐこともなく、この時間だけは真剣に先生のいうことに耳を傾け、いわれるように一生懸命からだを動かしていた。
ただそれでも、「ご苦労さま、今日はこれまで」、という先生の静かな言葉が、相変わらずいちばん好きなのだが。
練習が終わり、わぁ、と歓声が上がり順番に着替えたり、お風呂にはいっていったりする。道場はすぐに夕食の用意がならべられ、外は夕方を迎えようとしていた。年の幼いものから、親にいたるまでみな均等に働いて、夕食はすぐにととのった。
「高坂健士<コウサカ タケシ>」はその時、ぐうぜん神無月家に居候している芳春<ヨシハル>の隣に座った。
「久しぶり。本当にここにお世話になってるんだね」
健士に話しかけられ、芳春はちょっと恥ずかしそうに笑い、うなずいた。
二人は遠縁の親戚の間柄で、ふだんは無口な健士も芳春は話のしやすい相手だった。どうも芳春とは精神的な波長が似ているようで、ぜんぜん緊張しないせいだと健士は思っている。
「萌荵さんとか、舞姫ちゃんとか。みんないい人ばかりだからね。居心地がいいだろう」
「うん」
「いいなあ」
二人の間はそう多くの言葉を必要とせず、それだけの会話だけで十分満足してしまった二人は、目の前にある夕食を食べることに専念することにした。ただ時折、健士はその箸の動きを止め、ぼぉっとしている時があった。芳春もそのことに気がついたが、とくに聞き出すことはしないことにした。
「芳春、ちょっと二人で話をしたいんだけど」
食べ終わり、芳春が食器を片づけて部屋に帰ろうとしたとき、思いきって健士は芳春に声をかけた。芳春は一度首をかしげたが、すぐににっこり微笑んで「いいよ」と答えた。
「ついてきて」、芳春にいわれて連れていかれたのは、2階からさらに梯子を上ったところ、つまり屋根の上だった。そこだけ平らになっていて、芳春は体育座りをして、健士はあぐらをかいて並んで座った。
平らな部分はそんな広くなくて、ちょっとおっこちそうな気がして、健士は下の方をちらっとながめた。庭の芝がすこし遠くに見えるけど、そんなに恐さは感じなかった。それよりも、あたりの景色のほうが目についた。
ちょうど目の前には海が広がっていて、かなり黒くなった海面が広がっていた。海は真っ黒なわけではないのに、もしかしたら月が入ったらすべて飲み込んでしまうかな、と思えるような深い色合いをしていた。
あたりはもうだいぶ夜になり、まだ幾分青さを残した空にはてんてんと星が瞬きはじめていた。いっとう明るい星はたぶん水星で、太陽がそのかけらを落としていったみたいに、見上げたあたりで光りかがやいていた。
下からは、みんなの声が聞こえてくる。ちょうど道場の真上にあたるらしいが、こちらの声は聞こえないはずだ。ちゃんと芳春は気を使ってくれていた。
「どうぞ」
「うん、いいところだね」
「悩んだらここに来るといい、って更紗さんに教わったんだ」
「なるほどね」
健士は話し始めようと思ったが、しばらく黙って目の前にある空と海をながめることにした。こんな光景はしばらく見ていなかったし、そしてこれからも見れるかどうかは解らない。当たり前すぎる光景は、気にしないと見落としてしまうものだから。
心が落ちついて、気持ちの整理がついて、そして健士は語りだした。
「親が別居したんだ。とうとう」
「うん」
「仲が悪いのは昔からだったけど、別居するほどとは思っていなかった」
「うん」
「どうすることもできないのは知っているけど、辛くて誰かに聞いて欲しかったんだ」
二人の間に沈黙がおりた。でも、緊張感はなく、こうした沈黙がどちらかと言えば心地よいものでさえあった。この頃になると、海風もちょっとは涼しくて、二人の間を通り抜けるのが気持ちよかった。そして、とにかく誰かに聞いてもらえた解放感から、健士はいくぶん気持ちがすっきりするのを感じていた。
別に芳春に相談もちかけたわけではないことは、二人とも了解していた。芳春はそれほどの人生をまだ経ていないのだからしょうがない。ただこうして、信頼できる人に聞いてもらいたかっただけなのだ。
友人でもなく、親でもなく、先生でもなく。信頼する、血のつながりのある誰か。家族の秘密を打ち明けるのに、芳春は一番いい相手だった。そして、本当に少し楽になり、健士はそれで満足だった。
「親が両方そろっているというのも、大変だね」
芳春がふと、呟いた。健士はその言葉を聞いて、芳春の母親は彼を産んですぐ亡くなった事実を今更おもいだし、そして、自分がすべての不幸を背負っているような気持ちになっていたことを、少しだけ恥じた。
「後免。母親がいるだけ、まだ僕の方がましかも知れないね」
「そんなことないと思う。だって、僕はいま幸せだから」
「そう」
「うん」
「……有り難う、話ができて良かった」
健士は本当にそう思った。
二人の横顔に、やがて月のひかりが投げかけられ始めていた。
毎年、合宿の恒例行事は、夜中におこなわれる怪談大会と花火大会だった。今年も寝る用意のできた子供達は、円を作り明かりを消して、怪談大会を始めていた。
べつに強制はしていないので、怪談が恐い人達は違う部屋で別の話で盛り上がるのだが、つい見栄をはって怪談の方に顔を出してしまった人の中には、年長のお兄さんお姉さんと一緒にひとつの布団にくるまなければ眠れなくなってしまう子もでてくる。
今年も、何人かの女の子が舞姫の部屋へいって盛り上がっている様子だったが、怪談の方もいつにない盛り上がりを見せていた。
「ある高校でおきた話なんだけど、漫画を描いている人がね、夜中まで部室に残っていたんだ。どうしても原稿を描きあげなくちゃいけないらしくて、やむなく泊まったのだけれど、その部室はかならず幽霊がでるって有名だったんだ」
中学3年生、普段はどちらかといえば静かな少年だが、こと幽霊に関しては右にでるものはないと言われていて、この怪談大会にはもはや欠かせない存在になっていた。彼の話は話し方も間合いもよく、けっこう恐い。
寝巻きになって円をつくる女の子の中には、枕をぎゅっと抱きしめる姿や、となりの子の服を離さない子も見られた。
「その幽霊と言うのが毎回決まっていて、首のない幽霊がドアを叩くんだって」
女の子が、ひっ、と言って横の子の肩に目をふせた。
「その昔、ものすごく絵の上手い人がいて、等身大の人物像を描いてこの部室に残していったんだけど、何代目かの人がその顔が気に入って、顔の部分だけ切りとって家に持ち帰ってしまったらしいんだ。その幽霊は、その顔をもとめて、部室にさまよいでるようになったんだって」
少年の口はよりいっそう、静かに真剣味をましていった。
「それでその子は、描きあげたらすぐに家に帰ろうと思っていたんだけど、ついつい遅くなってしまって、気づいたら夜中の2時になっていたんだ。『あっ、もうあの幽霊のでる頃だ』と思ったとき、ドアがドンドンと叩かれた。もし部員や用務員のおじさんだったら、そのまますぐに入ってくる。幽霊がきたってすぐに解った。それで無視し続けたんだけど、ドアの音がどんどん大きくなっていく。開けて入ってくればいいのに、ドアの叩く音だけがどんどん大きくなっていく。ドンドンッ!! ドンドンッ!!……って。しばらくは耐えていたんだけど、ドアの音はもう耳を必死に閉じていても耐えられないほど大きくなっていったんだ。出口は一つしかない。もうその子は逃げ出したくなって、とうとう自分でがらってドアを開けた。……………そして、そこに立っていたのは、首の断面がきれいに見える幽霊だった」
一人二人、泣き出してしまった。
翼でさえだいぶ元気をなくしていたが、逆に康助はいくぶん平気そうだった。
健士は隣の同じクラスの女の子に抱きつかれた。女の子はすぐに気を取り戻して、「あっ、後免」と顔を赤くして離れる。健士が「大丈夫?」と訪ねると、その女の子はさらに顔を真っ赤にしてぶんぶんと顔を縦に振った。健士にはその反応がどんな意味を持っているかは解らず、すぐに元のように顔を戻した。
ちなみに、芳春と萌荵はいたって慣れた様子であった。このぐらいは、日常茶飯事とでもいいたげである。
「その子はもうたまらなく恐くなって、その幽霊を押し退けるようにして外に飛び出して、死にものぐるいで家に帰った。そして、二度と泊まる人はいなくなったんだって」
一時間ほども続いた怪談大会もこの話でお開きとなり、年長組は幼い人達を便所に連れていき、わいわいと騒ぎながらも道場でみんな眠る用意を始めた。
「康助くん、一緒に眠らない?」
たぶんこの子は一人では眠れないだろうと思った、合宿参加メンバーでは年長組になる萌荵<モエギ>は、自分から声をかけた。こういう子は、まだ自分からは誘うことができないはずだから。
康助はちらっと萌荵を見て、少し考えるように下を向き、やがて首を横に振った。やっぱり恥ずかしいらしい。
「うん、解った。じゃあ、一つだけいいこと教えたげる。眠れないときは、無理に眠ろうとしないこと。その方があとでよく眠れるの。お休みね……」
こくんと康助はうなずくと、萌荵は微笑んで、代わりに別の女の子に声をかけにいった。その女の子は恥ずかしそうにうなずいて、二人は一緒の布団で寝ることになった。
そして、闇が訪れた。
2時間後、やはり康助は眠れなかった。
どうも布団の居心地が悪くて、落ちつかない。でも、怪談のせいではないようだった。自分でも意外なのだが。
今ではもう、ぱっちりと目を開けてしまっていて、しばらくは眠れそうになかった。萌荵の「無理に眠ろうとしないこと」という言葉を頭の中で反復すると、康助はむくりと体をおこした。
庭に面するカベは障子になっていて、月明かりがその白い紙をとおして道場の布団の群れを照らし出していた。布団はぴくりと動きもせず、青や赤の色彩をいろどっている。障子の方に目をやると、白いスクリーンとなった障子には、庭の木々のこまやかな葉の様子が揺れながら映し出されていた。
だれ一人おきていない。自分一人しか意識がない。でも、それはあまり寂しいものではなかった。耳をすませば、庭からかすかな虫の鳴き声も聞こえてくる。
ちーーーぃ、ちーーーぃ……りりりり………
「……なんだ、やっぱりお前も起きていたのか」
横で寝ていたはずの翼が声をかけてきた。彼も眠れなかったらしい。翼の場合は、あの怪談の話が頭のなかから離れてくれなくて、どうしても眠れなかったのだが、恥ずかしくてそんなことは言えなかった。ただ二人して、外を見つめた。
「ちょっと、外にでようか」
「うん」
そのまま寝てもしばらく寝つけないだろうと思い、翼はせっかくだから外にでて涼もうと考えた。他の人を起こさぬように布団の間をそぉっとすり抜け、障子までたどりつくと自らその障子を音をたてぬように開けた。
そして、閉めた。
「どうしたの?」
不審に思った康助がそうたずねたのだが、振り返った翼の顔はかなり深刻なものだった。眉をよせ、泣き出してしまうのを必死にこらえているような表情だった。
「ゅっ……ゅぅ霊……」
「えっ、幽霊?」
康助はいたっておとぼけた様子で聞き返すと、障子をあけ外を見渡した。そして欅の下に、更紗<サラサ>と幽霊らしきぼんやりとした光をみた。しかし、それほど恐くはなかった。むしろ、翼が恐がっている様子をみて、少しだけ勇気がでて、「更紗さんがいる。行ってみよう」と言い出した。この神無月家の長女である更紗は、霊能力が非常に長けた人物であることはふたりともよく知っていた。
それでも、翼には恐いようで、「やだっ! 恐い!」と体一杯に拒絶をしめす。
「じゃあ、僕一人で行ってくる」
康助は戸惑いもせず、外にでていってしまった。翼はそのままじっとしていたが、一人でいる方がもっと恐いことに気づくと、康助のあとを追って飛び出していった。
庭にでると虫の鳴き声が、よりいっそう大きくなる。そして、風が吹いていた。芝生がゆらゆらと揺れるなか、二人は寄り添うように更紗のもとへ近付いていく。
更紗がすぐにこの幼い冒険者達に気がつき、手招きして呼び寄せる。二人は霊を避けるように遠回りして、更紗の近くへよっていった。
「そんなに恐がらなくてもいいから。近くにいらっしゃい」
そう言われても、近寄れるものではなかった。
「この幽霊、見える?」
かなり奇妙な質問に、二人はこくんとうなずいた。
「どんなふうに?」
「ぼんやりと光ってしか……」
「かっ、顔が見える!」
「やっぱり見え方が違うのね」
更紗がうなずくと、その光はすぅっとかき消す雲のように輪郭をなくしてゆき、そしてなくなってしまった。二人の少年はぼうぜんとして、その一部始終をぽっかり口をあけたまま見つめていた。
「いっちゃったの?」
康助の声は落ちついていた。横にいた翼は、小刻みに体がふるえているようで、合宿に参加するときとはすっかり逆の立場になっていた。
「うん、成仏しちゃった」
「じょうぶつ」
「神様のところへ帰っていった、ということ」
康助はこくんとうなずいた。真剣な眼差し。更紗はふふっと笑うと、その細い指をゆっくり空に向かってあげていった。その指先を追うように顔をあげていくと、漆黒の闇に広がる星たちが視界一杯に映し出された。
ざわっ……! ざわっ……!
広い庭を、二度ほど大きな風が駆け抜ける。そして少年たちをとりまき、去っていった。木々がまるで笑うかのように、さざめく。
寂しいような、きれいなような、二人はじんっとする不思議な気持ちに包まれて、恐さはもうどこかへいってしまっていた。
小さい頃というのは、どうしたものか辛いと思っても、辛い、とそれだけで終わってしまう。もっともっと大きくなると、「もう、やめてやる」とか、「今までで一番つらい」とか、他の気持ちが心にわいてきて、実際よりももっともっと辛くなってしまう。
「辛い」ことに対して本能的に「辛い」と思う以外の、余分な知恵がその時にはなかったためらしい。知恵というものは、生きていくうえに非常に大切なものではあるが、先入観をもたせる余分な側面も持っているのだと知ったのは、ずいぶんあとになってのことである。
そんなわけで、次の日、少年少女達は無邪気に午前中の練習に励んでいた。親の別居の辛さも忘れ、怪談の恐さも忘れ、親と離れている寂しさも忘れて、ただもう一生懸命に相手に向き合っていた。
もともと合気道というのは、「盾」と「矛」でいえば「盾」にあたる武術で、防御の術なのである。そしてさらに「気」の概念や、人間の構造の概念を取り込むことによって、小さな力で大きな力を受け流すことができる武術になっている。だからこそ、女、子供にも有効な数少ない武術として、世間にも受けとめられているのである。
朝の練習が終わると、昼食になり、そしてその後は昼寝の時間になる。小さいときに何よりも大切なのは、睡眠だとよくいわれる。何しろ、起きている間は頭も体もめいいっぱい動かしまくっているのだから、休む時間だってたくさんいる。夏の昼過ぎは暑いが、風通しのよいすだれのかかった道場は、すごしやすい程度にすずやかで、みんなは心地よい眠りをしばらくとった。
そして、午後の練習、夕食。その日も烏の鳴き声とともに終わろうとしていた。
夕食をかたずけた後、萌荵はひとりの女の子に声をかけられた。
「なに?」
「ちょっと相談にのってほしいんです」
中学2年生の、ちょっと大人っぽい顔立ちをした綺麗な女の子だった。昨日、怪談大会の時に健士に抱きついてしまった子で、あの時のように顔を少し赤くしていた。
萌荵の部屋へいき、二人っきりになっても彼女はしばらく何も言わず、ただ座り込んでいた。
「健士くんのこと?」
萌荵が単刀直入に口にすると、彼女はびっくりしたように顔をあげ、そしてこっくりとうなずいた。
学校にいるとき、健士は他人という存在でしかなかったのに、一緒に合気道をやり始めてから、いつも一生懸命で、格好よくて、何となく一人でたえている健士にひかれる自分に気がついた。
そして昨日、彼が横に座っているだけで心臓が信じられないぐらいドキドキして、抱きついてしまってからはもう、彼の顔も見られなくなっている。
「どうしたらいいのかな……」
萌荵は優しい笑顔で、この恋する女の子に近付いた。
「これから、二度と顔も合わせないでいることはできる?」
女の子はまたびっくりしたような顔をして、そしてぶんぶんと顔を横にふった。
「ずっと、仲のよい友達でいられる?」
ちょっとだけ考えて、やっぱり首を横にふった。
「じゃあ、告白する?」
これにも、激しく首を横にふった。
「友達でいるのが、この中ではいちばん楽みたいね。でも、いつかは自分の思いを知ってほしい」
女の子は真剣な瞳で、じっと萌荵を見つめた。
「好きという気持ちって、凄いよね。大きくて、溢れてきそう」
女の子はこっくりとうなずいた。
「だから友達でいれば、きっとその溢れる思いは言葉や態度にのって伝わるはず。その時に相手をしっかり見つめて、相手の気持ちと自分の気持ちを考えて、自分が後悔しないようにね」
女の子は少しだけ微笑んで、またうなずいた。萌荵はつられて微笑んで、くしゃくしゃと女の子の髪をかきあげた。
「友達になるのには、ちょっと勇気が必要だけど、できる?」
「頑張ってみる。有り難う、萌荵さん」
うん、と静かにうなずいた。
二人が降りていくと、もう庭では花火大会が始まっていた。外は夕暮れすぎ、薄紫の色に染め上がり、その中で花火だけが明るく光りかがやいていた。
縁側でたたずむ人は西瓜<スイカ>をほうばり、種を一生懸命とっている。女の子達だけで輪をかこみ、小さな花火の火をつけるところもあれば、年長の男が大きな花火に火をつけ、大空に光の花をあげていた。
その光に浴衣姿の子供達や、草木や、家がうかびあがる。子供達の顔はどれも、花火を一心に見つめる笑顔ばかり。子供の中には、その花火をふりまわして闇のキャンバスに絵を描く子もいたり、いっぺんにいくつもの花火に火をつけてみせる子もいた。
健士は小学生たちにせかされて、花火の先に火をつけていた。
「ほら、いってらっしゃい」
萌荵に背をつつかれて、女の子はゆっくりと健士の近くによっていった。花火をとり、火をつけてもらい、二人でじっとその花火を見つめていた。
一人、二人と小学生が離れていき、そしていつのまにか健士と女の子は二人っきりになっていた。ずぅっと、ずぅっと二人きりで、じっと静かに花火を見つめていた。ときおり、本当にときおり言葉を交わして、また花火を見つめる。それだけなのに、二人はずっと離れずに、二人でいた。
一人で完全な人はいないのだから、二人で少しでも補いあってほしい。一人で完全ならば、一人で生きていけばいいのだから。健士は親の別居による気持ちを、相手に少し持ってもらえばいいし、女の子の重すぎる「好き」という気持ちを、相手に少しあずかってもらえばいい。そして、お互い気持ちを軽くして、一人でいるより二人であることが自然であればいい。
そうして二人は、ずっとずっと花火を見つめていた。そして、たくさんの、たくさんの煙が空に舞い上がり、雲にけぶる月が咳をしないかと、二人はちょっと心配をしたのだった。
次の日、朝の練習が終わると、短い合宿は終わりを告げた。
親が迎えにきて、誰もが懐かしさと寂しさのために、親に抱きついた。
翼はなかなか親がこないので、やきもきしていた。やっと現れた母親に抱きつくと、むしろ親の方がすっかり当惑している様子だった。そして、泣きださんばかりの息子の頭を優しく撫でてやっていた。ほんの少し、親の愛する気持ちが解ってくれたみたいで、親はホッとしているようだった。
康助は、やがてやってきた父母をみると、駆け寄っていったが抱きつきはしなかった。そして「すごく楽しかった」というのだった。父と母はお互いに顔を見合わせ、少し大人になった息子にちょっと嬉しさと、そして寂しさを味わっている様子だった。
寂しさを強く乗り越えてくれたことは、親にとって嬉しいことだった。でも、それはどんどん離れていく息子を見ることで、親の方が寂しくてなって息子の頭をそっと撫でた。
「寂しさ」と「愛する」気持ちを、どうしたらいいかを知ることによって、少しずつ大人になっていくような気がする。
あの時の気持ちはだんだんと別のものに変わっていくけれども、あの大きさと、純粋さを、今になっても忘れることができない。
寂しさに泣いた、あの夜のことを。
月夜の晩の、そんなお話。