其之五 「 一生懸命 」
眠っていた芳春<ヨシハル>の頭の中に流れてきた歌声は、夢の中のものではなかった。その出所を求めるように目が覚めると、しばらくぼうっとした頭は天井の薄暗いようすを浮かび上がらせることしかできなかった。やがてはっきりしてくると、その静かな歌声が窓の外から来ていることが解った。
子守歌のような、若い女の声。まだ少し眠い体をおこした芳春は、窓際まで歩いていき、網戸ごしに庭をながめると、いつものように欅の近くにすわる更紗<サラサ>と、それに向かいあうか細い少年の姿がみえた。
とても、とても細い少年で、どこかおぼろげに光っているようにも見えた。何となく気になって、芳春はその声につられるように、そっと庭に出てみることにした。
からん……と音をたてながら下駄をはくと、芳春は裏口から庭に出た。夜の庭は静かで、風が草をさらさらと撫でる音と、みぃーみぃーと小さく鳴く虫の声、そして、更紗の消え入りそうな歌声だけが、庭に満ちていた。
ちょっと欠けた月と外灯にてらされた緑の芝を、芳春はしゃらしゃらとかき分けて歩いていく。それにつれて、あの細い少年は立ち上がり、やがて、煙のように輪郭をなくしていくと、そのまま消えていってしまった。更紗の元についたときには、もう、その痕跡すらそこには無かった。
「起こしちゃった?」
更紗は虫を驚かさないように、静かな声で語りかけてきた。
長く、少しウェーブのかかった茶褐色の毛。そして、無邪気な笑顔。ちょっととぼけたようだが、長女でありこの家の当主でもある、いつもの更紗がそこにいた。
「やっぱり今の幽霊だったのですか」
「うん。つい最近、病気で死んじゃった男の子。たった今、成仏しちゃった」
そういえば、ちらっとだけ見えたその幽霊の横顔は、何となく嬉しそうだった。あれが、霊の成仏するときの様子だったのだ。芳春はぺたんとそのばに座り込むと、あたりを見回した。
さら、さら……さら
草がこすれあう。樹木が揺れて葉がかさなりあう。
空を見上げると、大きくて真っ白な月と、たくさんの星。
静かな、夜の庭。
「もしかして更紗さん。いつも、こんなことをしていたのですか?」
「芳春ぅ、もしかしたら、私がいつも遅くまでただ堕眠をむさぼっている思っていたのぉ?」
芳春はこっくりとうなずこうとして、あわてて首を横にふった。
「この野郎ぉ、いい度胸だ」
更紗はにじり寄ると、逃げだそうとする芳春を抱きかかえ、わき腹をくすぐった。
「あはは、更紗さん! ごめんなさいぃぃっ!」
「よろしい」
夜のせいか、更紗の攻撃はすぐにやんだが、静かなムードは吹き飛ばされ、いつものペースになっていた。
うぅ、わき腹がこそばゆい。
「どうも、勘違いしているみたいね。ちゃんと説明しておくけど、私の本業は小説家なのよ」
「え?」
「誰も認めてくれないけど、お祓い屋が副業、小説家が本業。別にぐうたらしたくって、副業の請求額をこんなに高くしたわけじゃないのよ。本業をしっかりやりたいから、依頼数を少なくしたかっただけ」
「そっ、そうなんですか」
「あ、疑っているな」
更紗がまたわき腹をくすぐる用意をしたので、芳春は思わず必死に首を横にふった。
「いいわよ、どうせ副業の方が収入が大きいから、そう思われるのよ」
「どんな本を書かれているのですか?」
最近、話を横にそらすのが上手くなってきたなぁ、と芳春は心のなかで呟いた。
「幽霊の人の話。こうして座っていると、成仏できない人がいろいろ話しかけてきてくれるのだけれど、それを小説化しているの」
「………」
「生きている人に聞いて欲しい、いろいろなことを私に訴えに来るの。全国から。それをまとめて小説にしているのだけど………あまり売れないのよぉ」
「どっ、どうして売れないのですか?」
「解っているんだけど、文才がないのよ、わたし。夢かなって、本は出しているけどね」
ちょっとだけ伸びをして、更紗は立ち上がり、ジーンズについた土や草を軽くはらう。
「芳春ちゃん、お腹すいちゃった。一緒に食べにいこ」
「こんな夜中にですか?」
「私にとってはこれからが夕食なの」
昼食が朝食になっているのだから、なるほど一食ずつずれているらしい。辞退するかを考える間もなく更紗にせかされ、芳春はけっきょく一緒について行くことになってしまった。
寝巻きを着替え、芳春は更紗の待つ車庫に向かった。車庫には大きな車とバイクがそれぞれ一台ずつ、置かれていた。エンジンがかかっているのはバイクの方だった。
「………まさか、バイクでいくのですか」
「もちろん、バイクでいくのよ。はい、ヘルメット」
一抹の不安。それでも、大きめのヘルメットをかぶると、更紗にひょいと持ち上げられて、タンデムシートに乗せられた。二人乗り用のステップはあるものの、ぎりぎり足がつく程度で心もとない。たんっと更紗が前に座ると、赤ちゃんをおぶうときのようなベルトがまわされ、いちおうは固定された。
グローブをはめ、ゴーグルをつけると、軽くアクセルを回す。ぶぉんと、軽快な音と振動が伝わる。
「じゃあ、いくよ」
ぎゅっと更紗の体をつかむと、それを合図にして黒い機体はゆっくりと動きだした。
芳春にとって、24時間レストランにつくまでは、必死に更紗に抱きつくことと、信号の度に深呼吸することぐらいしかできなかった。15分ほど走ったのか、気づいてみればバイクはレストランからの明かりに照らされた、思いのほかこみあった駐車場についていた。
ライトが消え、ふぉんと言う音のあとバイクはもとの静けさを取り戻した。ふたたび抱きかかえられてシートから降りると、やっとヘルメットを取ることができた。
「ぷはっ」
「ご苦労さま。ちょっと恐かった?」
優しい姉のように、笑いながら更紗が聞いてきた。どうもこの人は、からかうことで相手に愛情をあらわす人のようだ、と芳春はため息とともに考えた。だから、憎むことができない。
はたから見れば親子のような二人組は、明るい店内に入っていった。中はこんな時間だと言うのに賑わい、夜の喧噪を作り出していた。更紗と芳春は、ウェイトレスの後について、4人用の窓際の席についた。
芳春はジュースとケーキを、更紗はツナサラダとハンバーグのセットを頼むと、やっとひと心地ついて、二人はどちらからともなくため息をつく。
外を見ると、ときおり通る車のランプが広い国道に流れている。それでも動いているものはそれぐらいで、すべての店はきっちりと閉まりきり、闇の中にとけこんでいるようだった。そして少し遠くにある信号だけが、黄色い点滅を繰り返している。
店内は主はカップルや、何かのグループらしき青年集団だったが、なかには中年の二人組や勉強している若者もいた。広いレストランの席は6割がた埋まっており、前後の席もそれぞれカップルと女だけの4人組が座っていた。
「いつも、ここにいらっしゃるのですか?」
「私はそんな不良娘じゃないぞ。いつもはだいたいは、舞姫が作りおきしておいてくれたものを食べている。まぁ、ときおりはこうして外で食べているけど」
ふぅんとうなずいている間に、早くもジュースとケーキ、それにツナサラダが来たので、それぞれほうばり始めた。
「しっかり説明しておくけどね、だいたいいつもあんな感じで幽霊とお話しているの。朝の夜明けとともに眠って、昼頃起きる。だいたいいつもこのパターン。そして昼間は主に本を読んだり、小説を書いたりするのが毎日の日課」
そこに宴会やら、飲み会が入るわけですね、と言いかけてやめた。最近、舞姫に似てきたかも知れないと思う芳春であった。
「昔は、この幽霊とお話するのが嫌でね。私の方が悩みを誰かにぶつけたいのに、夜中になるといろんな幽霊が私のところに来て、訴えてくるの。それで、ちょっとぐれちゃった」
そう言って更紗は笑ったが、芳春は笑うことはできなかった。
更紗は、小さな時から跡継ぎとしての教育はされてはいた。それでも、普通の人間であることにかわりのない更紗は、恋や友情、学業などに悩んでいた。それなのに、夜になると容赦なく幽霊があらわれ、呪いの言葉、悲しみの言葉、後悔の言葉、辛い言葉をはきかけてくる。布団をかぶっても、枕で耳をおおっても聞こえてくる声から逃れることができない毎日がすぎれば、ちょっとぐらいぐれても誰も文句は言わないだろう。
辛かった、逃げたかった。すべての業から逃れたいと思ったが、やがてその苦しみを素直に受けとめられるようになった時、更紗は後をついだのだった。
言葉の裏に含まれたそんな一生懸命の奮闘は、雰囲気だけしか芳春には通じなかっただろうけど、そのうち解ってくれるかも知れないな……と、更紗は考えていた。
芳春は解ってかどうか、ふうん……と呟いてふと外を見た。
ぱらん、ぱっぱっぱっ
数台のバイクと単車が、窓の外を通り過ぎていく。暴走族とか、最近では「ローリング族」などと呼ばれる集団は、かなりけたたましい音をたてていた。
「やあねぇ」
「うるさいわよね」
その声は更紗の裏に座っていた、女4人組から聞こえてきていた。少々派手な女子大生か、OLと思わせる集団だった。その声を聞いて、ほんの少しだけ更紗の顔から笑いが消え、静かに水をこくりと飲むと外を見つめた。
「あの人達は確かに、他人に迷惑をかけているけど、その事実を知っている。他人に迷惑をかけていないと思って、人を傷つけていることに気づかない人と、それほどかわりはなんてないと思う」
後ろの人に聞こえているかどうか解らないが、明らかにその人達に対しての言葉のようだった。
「あの人達はああするのが普通だったり、楽しかったり、ほかのことから逃げたかったりしてやっているのだけれど、そういう風にはとれないものかなぁ」
更紗はかつて、暴走族との交流もあった。それで知ったのは、相手もやっぱりごく普通の少年少女達でしかないということだった。別にかわいそうでもなければ、恐そうでもない、いきがっているけど、ほとんどは優しい。
確かに迷惑はかけている。でも、誰もが人に迷惑をかけている存在だということを知り、そして、遠くに存在するように見える彼らのことも、やはり同じなのだと思う人が一人でもいないものなのだろうか、と更紗は思うのである。
知性とはすなわち、相手のことを思う想像力と、先を読む思考力のことではないのだろうか。
「心との戦いにぬくぬく育った人達よりは、よっぽど一生懸命に生きているんだけどね」
暴走族は、しばらくしてふたたびガラスの前を通り過ぎていった。その時、更紗が大きく手を振ると、向こうからも手を振りかえしてきてくれた。店内はちょっとびっくりしたように、更紗のもとに視線が集中した。
「知り合いでもいらしたのですか?」
「いないよ」
「じゃあ何で」
更紗はにっこり笑った。
「やってもらうと、嬉しいのよ」
バイク乗りは、旅先でよく他のバイク乗りにピースサインをおくって、挨拶を交わす。それはけっして礼儀ではなく、お互い共感して交わしあうもので、その一瞬だけ孤独から解放され、すっかり嬉しくなる。
更紗の行動はそんなところらしいが、芳春にはまだ少し理解し難かった。
やがて外はもとの静けさを取り戻し、店内も喧噪を取り戻した。ただし、4人の女組の声だけは静かになっていた。
更紗に賛同して声をひそめた子。恐いと思った子。言い分に怒った子。
いろいろいるのだと思う。
でも、いろいろな人の気持ちを考えて欲しい。
いま人が増え、情報が増え、横にいる人のことを考える暇がなくなってきたから。
更紗はそのことが言いたくて、小説家になったのだから。
お腹も満足して、二人は帰路についた。
バイクが走り出してもさっきほどは恐くなく、芳春はあたりを見回すぐらいはできるようになった。そうなると、灰色のアスファルトがすごい勢いで流れていくのが見えた。そして、外灯がひとつ、またひとつと遥かうしろへと通り過ぎていく。
「更紗さぁーん!」
一回目は更紗にとどかなかったが、二回目の呼びかけには気づいてくれた。
「なに?」
速度が少し落ちて、風の音が優しくなった。
「今日の男の子はなにを、伝えに来たのですか!」
「えっ、なに? あの幽霊のこと?」
「そうです!」
「あの子はね、筋ジストロフィーで指一本動かすことのできない子だったんだって! それで両親に、看護婦さんに、医者に迷惑をかけるばかりの存在だから、早く死にたいってそればかり考えていたんだって!」
バイクは町並みを抜け、山あいのワインディングロードへと移っていた。他に車もなく、バイクもなく、優しくなった風の流れに身をまかせながら、カーブをゆるやかに抜けていく。
ぶろろ、と一定の振動も気にならず、いつしか空を飛んでいるような気持ちになってきた。林がすごいいきおいで抜けていくのに、星はいつまでも目の前に光っている。そして、ほんの少し、更紗から柔らかな石鹸のような匂いがした。
「だけれども、指一本動かせないから自殺することができない。それで考えたすえ、食べることを拒否したんだって。点滴とかで栄養は補給されるけど、体はみるみる衰弱していって、本当にそのまま死んでいくはずだったらしいの」
カーブを曲がると、そこからはずっと下りの道となった。そして、光の粒が眼下に広がった。自分の住んでいる街。自分の育った街の、あたたかい家の光。長くゆるやかになった下り道が、ずっとその街へ吸い込まれるように、長く、太く、続いていた。
「ある日、いつものように必死にスープをお母さんが飲ませようとしていたのを、ただ固く口も目も閉じて反抗していたんだって。でもとうとう、お母さんがこらえきれずに泣き出してしまったの」
静かに、子守歌のように更紗の声が流れゆく。ただもう眠たくて、意識だけはっきりしているのに、夢の中にいるようだった。
光が不思議なほど柔らかく、アスファルトを照らしている。きれいな、きれいな路面。
「その涙がぽたりと顔に落ちたときに、もうこれ以上お母さんを苦しめることはできない、そう思って、一口だけスープを飲んだんだって。そうしたら、お母さんが、そんな大声のあげたことのない人なのに『看護婦さぁーん! この子が、この子が飲んでくれたの!』って叫んで、みんなで喜んでくれたんだって。その時にね、何の役にもたたない自分でも、生きているだけで周りの人が喜んでくれるんだ、無駄な人間ではないんだって、気づいたんだって。それを他の人にも伝えたくて、私のところに来たの」
世の中に何の役にもたたず、むしろ迷惑ばかりかけている人間でさえ、無駄な人ではないのだと言うことを、伝えたい。
かかわっている人がいるのなら、生きて。
頑張って。その時がくるまで。
一生懸命生きていれば、きっといつか何かを得ることができるのだから。
家についたとき、芳春は眠りについていた。
夢を見るような、安らかな寝顔で。
すべてのことを、その小さな胸にひめながら。
更紗は微笑み、二人を縛っていたロープをほどくと、芳春を優しく抱きかかえた。
月夜の晩の、そんなお話。