其之拾 「 深くなるもの 」
帰りの最終電車に飛び乗った更紗は、席に座るなり安心して眠りについてしまい、駅員に揺り動かされて目が覚めたそこは終点であった。
「やってもぉーた……」
まだ少し酒気の残るため息をつき、更紗は落ち込んだ。ここから家のある駅までは四つほど離れており、タクシーで二千円ほど、歩いて二時間ぐらいはかかろうか。両方とも以前ためす機会があったので、数字は確かである。
更紗はようやく二十三才という若さだが、それには似つかわしくない「御祓い」という職業を生業としていた。祖母からその地位をゆずられて早三年。実力はある方だと自他ともに認めている。
今回も比較的大きな仕事をこなしてきた帰り、関係者と「すこし」呑んできたのがいけなかった。ほんのビール二本に、日本酒三合、ブランデーをロックで瓶半分ですましてきたのだが、心地よい眠りにつくには十分な量だった。
「また舞姫に怒られる……」
何か失敗すると、末の妹の顔を思い出す。小学生ながら家事全般を引き受けてくれている頑張りやなのだが、その代わり母のように厳しい。
だいぶアルコールの抜けた頭をふり、まずは辺りを見渡した。起こしてくれた駅員さんの後ろ姿が見える。そして自分にもたれ掛かって眠る大学生らしき女の人。その他には蛍光灯の光があたりに満ちているだけだった。
そういえば、彼女とずっともたれあいながら眠っていたような気がする。黒色のワンピースを着ていて、どうやら更紗よりもずっと呑んできたらしく起きだす気配がなかった。
「ちょっと、ちょっと。終点だよ」
その子の頬をぺちぺちと叩きながら更紗は声をかけたが、まったく応答がみられない。急性アルコール中毒かも知れない、と心配になった更紗はもう一度頬を叩いた。
「うっ……ん」
かすかに眉をしかめたのを見届け、更紗は安心した。
「よかった」
彼女の肩をかつぎ更紗は電車を出た。酔った人間の体はなぜかとても重い。渾身の力を振り絞って彼女をどうにか近くのベンチに座らせ、自分もその横に座った。
ぷしゅーっと空気の抜ける音とともにドアがしまり、重そうな電車がゆっくりと動き出す。それにつられて夜風が、ベンチに座る二人の横を流れていった。電車が通り過ぎ辺りを見渡せば、電気がついているのはこのホームだけで、のぼりの向かいホームはすでに真っ暗になっていた。人もほとんど見あたらない。改札口近くに足下のおぼつかない人間が見えるぐらいで、広いホームにはただの二人っきりだった。
更紗はこうなりゃいつ帰っても同じだと腹を決め、隣の彼女の世話をすることにした。月のきれいな夜は、外にいた方が楽しいのだから。
横の彼女を振り返ってみると、いつのまにか目を開いていた。視点はまだ定まらず、遠くを見つめるように周りを確かめていた。
「目が覚めた?」
視線が更紗の方を向き目が合うと、彼女は首を傾げた。
「……どなた?」
「終点まで、お互いの肩を貸しあった仲」
「あぁ、横にいた人。ご免なさい、迷惑かけてしまって。放っておいて下さってもよかったのに」
「困っている人を放っておけない妹がいるもんで」
更紗は、心優しい次女の萌荵の顔を思い出した。けっして怒ったり指図したりはしないが、萌荵なら放っておかないと思うと、更紗もついそれに従ってしまう。
「でも、本当に。単なる酔っぱらいですから」
彼女はまた目を閉じた。
「それにしては、けっこう口調ははっきりしているわね」
彼女はそのまま動かなかった。顔を少し上げ、月明かりに照らされた唇が乾いているのが見える。もしかしたら、泣きたいのかも知れない。悲しさを紛らわせるために深酒をしたような、そんな表情をしていた。
「友達が……乳ガンで亡くなってしまったんです。つい最近」
それだけいって、口を閉じる。
しばらく沈黙したあと、小さな声で「こんなの酔っぱらいの戯言ですよね。ご免なさい」とつぶやく。
「よかったら続けて」
更紗の声は少しだけあたりに響いた。あたりにはもう誰もいなくとても静かになり、ただ闇夜の月だけが二人の話に耳を傾けていた。
更紗の言葉に戸惑う彼女は、喉元まででかかった言葉をなかなか吐き出せなかった。更紗が暇に任せて待っていると、彼女はようやく語りだしてくれた。
「彼女とは小学校からの幼なじみで、何度も喧嘩したけど誰よりも仲がよかったんです。お互いに好きな人ができても、彼よりもお互いをとっちゃうほど。葉子っていうんだけど、私は誰よりも彼女が大好きで……両親よりも彼よりも、誰よりも」
そこまで言って彼女はくすっと笑い、「へんな意味はなく」とつけ加えた。
背中の方の道路で車が一台、音を立ててすぎていく。それがなくなると、また静寂だけが残った。
「葉子が死んで悲しくて、泣いて、飲んで、泣いて。……何日かたって気づいた……私もいつかは彼女のことを、ほとんど思い出さなくなるのだろう、って」
更紗は穏やかに彼女の顔を見つめる。唇がわずかにふるえ、閉じた目から涙がひとすじこぼれた。
「好きでも、悲しくても、つらくても、いつか忘れてしまうかと思うと、彼女に悪くて辛いんです」
声がかすれ、ふるえている。
彼女はこうして、ずっと泣いていたのだろう。
友達が亡くなってから、ずっと。
顔を伏せ、すこししゃくりあげながら彼女は泣いた。
その柔らかな髪をなでながら、更紗はつぶやいた。
「その人のことは忘れる。だんだん思い出さなくなるし、もしかしたら、いたのかさえもはっきりしなくなる日が来るかも知れない」
人間の脳はそうできている。
「人が死ぬっていうのは、引っ越して音信不通になるのとあまり変わるもんじゃなくて、やっぱり忘れてしまうのだと、私は思うよ。だからそのことで悲しまなくていい」
なでていた頭が少し持ち上がって、赤く腫らした目が更紗を見つめる。
「ただある日、ふと思い出して気づくから。忘れてしまったはずのその人に対する思いだけは、今よりもずっと深くなっていることに」
真剣に見つめてくる瞳を、更紗は見つめ返した。
「……」
「愛はね、深くなる」
更紗はほほえみ、彼女の涙を少し拭う。
「一週間も泣き続けていたんだね。右肩にいる友達、もういかないといけないみたいよ」
「えっ?」
右を振り返る。
「……友達って」
彼女には見えなかった。
ホームの蛍光灯がすべて消えた。
あたり一面に暗闇が広がったその中で、彼女の右肩がほんのり光っていた。
「……ようこ?」
「もうこれ以上いると成仏できなくなっちゃう。彼女、親のところにも彼のところにも行かず、ぎりぎりまであなたと一緒にいたのね」
振り返り、穏やかな光を見つめる見開いた瞳に、涙がいっぱいに溢れこぼれた。
「……よっ……う……」
ふるえ、のどにつかえ、言葉にならない。
そして、光は揺らめいたかと思うと、ろうそくの火のようにかき消えた。
彼女は、それでもいつまでも涙のこぼれる瞳で、見つめ続けている。
更紗はそっと彼女を抱きしめると、うっうと声を出して泣き始めた。
ホームの暗闇のベンチでふたり、ずっと抱きしめあった。
月夜の晩の、そんなお話。