其之壱 「 孫 」
この街は二つほどの特色を持っている。
一つには、温泉が出るためにちょっとした観光設備が整っていること。そしてもう一つは、恐山のように霊的存在が強く、お祓いが非常に盛んであると言う……。
神無月更紗の名を持つ22才の娘は、そんな変わった街の中でも霊的な方面でちょっとした有名人であった。普段はちょっとおとぼけている感じのする娘だが、日本で最も高い請求額を提示し、しかも受けた依頼はすべて解決させていると言う実績がある。
こういったタイプの人物はおおかた高慢な態度と気性を持ち併せているが、彼女の場合はやや事情が異なっていた。
代々この家業を継いできた者への遺産と親からの仕送りで充分にやっていけるため、彼女は依頼の数を「少なく」しようとお金を釣り上げたのだが、思うとおりの件数にするためには日本最高額まで値を釣り上げねばならなかっただけであり、実際の彼女はむしろごく一般的な22才の娘であった。
こうして彼女の望み通り一月に一件という依頼の少なさになると、街の人達に公園のように扱われている庭の最も大きな欅の下で、読書をしたり訪れた人と会話を交わすのが、彼女の生活のほとんどとなった。同じ家に住む残りの二人の妹から、「養ってもらっているのか、養っているのか解らない」などと皮肉られるほど、彼女はのんびりと暮らしているのだった。
今日も夕暮れ近くなって蜩が、 かな かな かな…… と寂しい声で鳴くなか、更紗は史記をゆっくりと読んでいた。幸せそうなカップルが二組と家族が一組ほど通り過ぎただけの、今日は静かな夕暮れだった。
台所では末妹の舞姫が、足りない身長を補うために、脚立に乗りながら料理を作っていると、まん中のいちばん活発な萌荵が帰ってきたのも、だいたいその頃だった。
末妹の舞姫は、いまだ小学生ながら家事の全般を担っているしっかり者で、残り二人の姉もこの妹には頭が上がらないところがある。体つきこそまだ幼いが、「舞姫」の名の示すとおり非常に優雅な容姿を持っている。その反面、性格はややきついところもあった。
二人に挟まれた高校生の萌荵は、高い身長のわりにずいぶんと細身で、ちょっと見た目には非常にか弱く見えるのだが、意外なことに彼女は武道全般に秀でていて、特に長刀は全国クラスの腕前を持っている。まるで男の子みたいに短く切った髪と、それと対象的な女らしい細すぎる体と眩しいほどの笑顔が街でも人気で、買い物に行くとかなり安値で売ってくれる親父さんが多い。クラブの帰りに萌荵は夕食の買い物をしてきては、舞姫に手渡すのが毎日の日課となっていた。
「ただいま! ハイ、頼まれていた物」
「お帰りなさい……そこに置いといてくれる?」
お気に入りの黒い脚立の上にちょこんと座り、舞姫はジャガイモの皮をなれた手つきで剥いていたが、ふいにその手を止めると、庭を眺めることの出来る窓を一瞥した。
「更紗にお客様ね。萌荵、お茶を出してやって」
萌荵は持っていた荷物を放り出し、冷蔵庫の中の冷たい麦茶を飲んでいた。
「お客様……?」
「ええ、ずいぶん変わった方がいらしたわね」
舞姫は何かを考えるように、包丁を振り回していた。
土の感触、夕暮れ、涼しい風、力強い樹木。
そんな物を初めて見たかのようだった。
数歩進み、そして、更紗の横に立つ。
それでも、しばらく呆然としていた。
更紗はその様子を見て、この老人に好感を持った。
白髪だが、いまだ精力みなぎる風貌を持つこの老人は、この漁村を最近はやりの観光地に作り上げた第一人者で、この街一番の名士であった。市長でさえ頭の上がらない存在で、物心ついた年頃になれば彼の存在ぐらいは知っているのが普通であった。だが更紗はこの街の自然を構わずに破壊していく様子をあまり好んでいない者の一人だったので、この老人に対してはあまり好感を寄せる気持ちにはなれなかった。
だが会って話をするまでは……つまり噂だけで人を見るのは良くないことだと教えられていたので、その印象は控えていたのだが、会ってみればこんな単純な自然に感動してしまうたんなる一老人ではないか、と思ったのだった。
気づいてみると、こんど老人は更紗をじっと見つめていた。
更紗がにっこりと微笑むと、その老人はふと言葉をもらした。
「婆さんと初めて会った時みたいじゃ……」
「それはそれは……随分と綺麗な奥さんだったんだ」
更紗はまったく着飾るということをしないのだが、それでも確かに綺麗であった。
その軽快な返答を聞いて、老人は思わず「かっかっかっ」と闊達な笑いをした。
「愉快な娘っ子じゃのう」
更紗は隣に座ることを勧めると、老人はうなずいて腰を下ろした。
老人は、再び力に溢れる夏の木々に目を向けた。
本当にここの木は力強く、見ているだけで何かこちらまで元気になるようで心地がよかった。
「ここの木はどうやって育てているんじゃ? 随分と見事なんで驚いたわい」
「……おじいさんは自分の子供をどうやって育てた?」
更紗は、不思議な返答を返した。
老人は興味深げに娘の話の先を待つ。娘は楽しげに語りだした。
「私がしたのは、自分で成長するその手助けをしただけ」
大抵の人はこのことを勘違いしている。例えば、早く大きくなれと水をあげすぎたり、土をどんどんかぶせたり、狭い土地にたくさんの木と一緒に植えてしまう。過度の期待と相手を考えない一方的な愛情が、かえって苦しめてしまうことは世間でよくある出来事である。一生懸命に面倒をみたら木が死にかけ、もとあった所のような条件にして放っておくと元気になるという話はよく聞く。
老人はそれを聞いて、苦笑いをしてしまった。
この街を活気のあるものにしよう……それだけを考えて、今までの人生をすごしてきたのだが、出来上がったものは、この街とはまったく環境の異なる高級ホテルが一件と、整備された町並みと海岸である。果たして、この街を上手く育てることが出来たものだろうか、と考えていたところであり、老人はつい苦笑いをしてしまった。
まったく、この娘っ子は気が強い。本当に婆さんのようだ、と心の中でだけ呟いた。
老人は言葉遊びを楽しむように、こう続けた。
「すると、わしのやってきたことは間違いじゃったのかな?」
すると、更紗はにっこり笑ってこう続けた。
「そんなことないよ。私、元国道、好きだよ」
その一言を聞いて老人はしばらく考えていたが、やがて大きく笑いだした。
隣街とむすぶ道が街中にあるのだがそれが非常に狭く、この老人は思い切って街を囲むような国道を新たに作ろうとした。しかし、地元の許可をえずに強引に作っていく途中でどうしても立ち退いてくれない神社があり、老人はとうとう作りかけで断念してしまったのだ。そんな国道となるべきだった道があり、それを街の人は元国道と呼んでいる。
ここは最近縁日になると神社から続く出店で賑わい、街の人の憩いの場の1つとなり、また普段は子ども達の遊び場でもあり、夜は若者達のデートコースとなっていた。
老人のたったひとつの失敗が、この娘は一番の成功という。笑わずにはいられなかった。
頑固一徹な老人が、生意気な子娘に降参したとき、萌荵が軽快な足どりで何やら持ってきた。
受け取ると、それは一杯のお茶と、皿に置かれたひとつの梅干しだった。
「ごゆっくりしていって下さいね」
元気な微笑みを返し、萌荵は家に戻って行った。
その後ろ姿はまさに元気の塊という感じで、老人は思わず遥か昔の高校時代を思い出してしまった。
「話に聞いていたが、随分と細身だのぉ……あれで、全国的に武道で有名とは……」
特に、この老人はこの家を調べたわけではなく、この街に住む人だったらこの家の三人娘について、この程度の知識は持っている。
老人は梅干しを少しむしり、味わって食べた。そして、熱いお茶をひとすすりする。
梅干しの酸っぱさが爽快で、さらにその後の熱いお茶が汗を吹き飛ばしてくれた。
「これは、上手い……」
「うちには名コックがいるからね」
「さきほどの娘さんのことかい?」
「いーえ。末妹の舞姫です」
老人は驚き、そして何となく悲しくなった。小学生が作ったものが、そこいらの料理よりもずっと美味しいような気がしたからだ。良いものを、良い組み合わせで、適当な場に出すだけで、これほどまでに美味しいと感じるということを、老人は忘れていた。
そう考えると、今までやってきたことは何か物足りないような気がした。アプローチをかえれば、もっとずっとこの街に効果的なものが作り上げられたのではないか、そんな気がした。
「もう一度、人生を生きてみたいものだ……もう、こうなっては遅いがの」
老人がすっかり肩を落とすと、更紗は「すっぱぁ……」と目に涙をためながら言った。
「暗いなら、電気をつけてやればいいじゃん」
老人は更紗が何か聞き間違いをしたのだろうと思ったが、そうではなかった。
「人生なんて一日みたいなもんじゃない。朝が幼年時代なら、昼は壮年時代。夜は電気をつければ寝るまでに少しは何かできると思う」
これは、いま読んでいる中国古代文学からの受け売りだが、そのことは伏せておいた。
一迅の風が吹き、二人の間に風と葉が吹き抜けた。
「梅は咲いているときは綺麗だし、酸素も作ってくれる。実がなったら梅酒も作れるけど、やっぱり梅干しが一番ね」
更紗は残りの梅干しを口に放りこみ、また涙を出しそうになっていた。
「それにおじいさんの作ったもの、きらいじゃないよ」
更紗はちゃんと、そうつけ加えた。
老人は苦笑いしたが、不思議な気持ちだった。
「何となく元気が出るのぉ……年甲斐もないが」
「ここはみんな、元気の塊だからね」
更紗は愉快そうに笑った。
二人はしばらく、取り留めもなく街のことについて話し、笑いあった。
考えてみれば、この二人ほど街のことを知っている者はいないのかも知れない。
老人はこの街を作った本人であるし、更紗はこの街の人達といちばん広く触れあっている。何かと街の悪口を言いながら、二人はとてもこの街を愛していることを確認した。
「あの市長、無類の女好きなんだが知っておったか?」
「知ってるわよ……秘書やらないかって声かけられたもん」
「大したもんだ、さすが県知事の娘に手を出しただけある」
二人は大笑いした。
夕暮れ時、夜の苦手な鳥が家路に急ぎ、鳴きながら飛び去っていく。
暑かった風が、いくぶん涼しさを帯びてきていた。
本当の公園のように所々に設置された電灯がつき、木々がぱぁっと光りだしていく。
リーバイスの短く切り上げたジーンズとヘインズのTシャツという、もっとも身軽な格好をして萌荵が家から出てきた。手には大きなトレイを持ち、上にはさまざまな土色の陶器がのっていた。
すぐ後から小柄な舞姫が、紫のドレスにリボンといういでたちで現れた。
「ずいぶん話が弾んでいるみたいね。夕食よ」
舞姫が落ちついた口調で言うと、更紗が舞い上がった。
「この匂いはもしかして肉ジャガ?!」
「………そうよ」
「飲も!!」
更紗はだいぶ酒好きだった。
舞姫はあきらめたように空を仰ぎ、萌荵はクスクス笑いながらお酒を取りに行った。
更紗がウキウキして喜んでいる中、舞姫は老人の前にすっと座った。
「佐久間翁ですね。今日はようこそおいで下さいました」
小学生とは思えぬ気品と、緊張に満ちた挨拶だった。
「あなたが舞姫さんか。梅干し、うまかったよ」
舞姫はにこりと笑ってその返答を受けた。
「おっ酒! おっ酒!」
「更紗! 少しは落ちつきなさいよ!」
老人は思わず吹き出してしまった。
「これではどちらが姉かわからんなぁ」
「よく言われます」
「本当に……」
舞姫はため息をついた。
今日の夕食は肉ジャガとほうれん草のおひたし、紫蘇ご飯と茄子の漬物だった。それぞれ、土をそのまま焼いたような自然な陶器類に盛られ、妙に食欲をそそられた。
お酒が来る前に更紗は肉ジャガに箸をつけ、「うーーんっ、うまい!」と感動していた。
「どうぞ、佐久間翁もお食べ下さい」
舞姫に勧められ、食べてみたがどれも素晴らしく美味しかった。
肉ジャガはコクがあるが甘ったるくなく、ほうれん草のおひたしは非常に新鮮でひねた味がまったくしなかった。ご飯の上の紫蘇が香ばしい匂いを放ち、茄子の漬物もそれだけを食べても充分に美味しいものだった。
もちろん毎日、普通の美味しい食事を取ってきたはずなのだが、なぜか久しぶりに食事をしたような気持ちがした。
やがて萌荵が一本の日本酒と、数個の小さなグラスを持ってきた。
「私、少し冷えたぐらいの日本酒がいちばん好きなの」
グラスにお酒をつがれながら更紗はそういった。
「わしはもっぱら燗だがな……」
舞姫につがれながら老人は呟いた。
三人の娘とひとりの老人が、和気あいあいと大きな木の下で食事をする。
蒼を通りこして闇になった空に、ひとつまたひとつと星がまたたき始めていた。
緑に輝く葉がひとひら落ちるなか、更紗がすいっとお酒が満たされたグラスを差し出した。
「乾杯」
「そうじゃな……」
萌荵も未成年ながらお酒をいただき、舞姫はオレンジジュースの入ったグラスを差し出した。
「かんぱぁーい!」
りん、とグラスの触れあう音が庭に響いた。
一組の幸せそうなカップルがくすくすと笑いながら通り過ぎたが、老人は不思議とあまり気にならなかった。笑いと、美味しい食事と、楽しい人と、自分の席 ――― 笑いなど大した問題ではなかった。
くいっと酒をあおる。
純粋に透明な、冷たい液体が喉を落ちていき、胸で熱くなる。
美味しいお酒だった。
「ぷはぁー……あー、幸せ!」
更紗は本当に嬉しそうだった。
幸せという言葉はときおり陳腐に感じるが、噛みしめているときはたまらない言葉だった。三人の「孫娘」と久しぶりに会ったような気分がする。
軽い若者の話も快く、姉妹がじゃれあっている姿を見るとなんとも幸せだった。
ほどよく酔いがまわってくる。
何か大声をだすか、踊りたい気分にかられた老人はふと縁側に立てかけてあった木刀を見つけた。
「……大した踊りじゃないが、剣の舞を久しぶりに舞ってよろしいかな」
中国古代から行われている、剣を用いた兵士に好まれる舞いを、老人は少しかじったことがあった。
すぐに了解した萌荵が木刀を二本持ってきた。
「ご一緒してよろしいでしょうか?」
「もちろんいいとも……」
老人はついっと剣を水平に高く構え、何かの音楽を口ずさみながら踊りだした。
萌荵もそれに唱和し、剣の相手をした。
中国の剣の舞いはもともと、宴会の途中で演舞を装って人を殺してしまおうという要素がたぶんにあり、その相手を誰かが申し込み、陰謀を阻止するのがもっぱらであった。
そのためけっこう派手な舞の部分もあるのだが、二人の行った舞はどちらかというと日本風な静かな舞であった。
舞姫がすっくと立ち、音楽に合わせて不思議な踊りをおどり始めた。
大きな動き、小さな舞い。体全身を使った何か訴えるような舞だった。
見る者をくぎ付けにしてしまうような、不思議な魅力を持ったような舞 ――― 「舞姫」の名は伊達ではなかった。
それならばっと、更紗も加わった。
更紗は踊れないが、音楽に合わして元気に体を動かした。
酔ってじんっとする頭で老人は三人を見た。
真っ赤にした幸せそうな更紗の笑顔が、間近にせまる。
あくまで真剣に相手をしてくれる萌荵の顔。
幼いながら、気品と美しさに満ちた舞姫の踊り。
木々の葉が舞い降りてくる。
夢の中にいるような、浮遊感をかんじる。
「おじいさん、気に入った! こんど何か困ったことがあったら、百円でみてあげる」
日本最高額を掲げる更紗が、踊りながらそう言った。
「嬉しいのぉ……では、こんどホテルにいらっしゃい。貸し切ってやろう」
「わぁ! こんど絶対にいくよ。おじいちゃんも一緒にプールに入ろうね」
あはは、と老人は笑った。
ふと上を見上げると、天空にぽっかりと浮かぶ月は満月だった。
一週間後、更紗達は佐久間翁の訃報を聞いた。
突然の死だった。
「あの日、更紗がいつもと少し違ったのは、このためだったの?」
舞姫が更紗に聞くと、更紗は悲しげに笑った。
別に死を事前に察知できたわけではないのだが、この老人を楽しませてあげたいという気持ちから、彼の妻だった人が乗り移ってくるのをそのまま許し、ときおり彼女に体の権限を譲ったりしていたからなのだ。
舞姫はふだんの更紗と様子が違うことに気づいていたが、多分そんなことだろうと思って調子を合わせていた。
更紗と一緒に暮らしていれば、そんなことは良くあることだから。
そして、きっと、佐久間翁も懐かしかったと思うから。
三人は喪服に着替え、佐久間翁の邸宅に行った。
彼の息子が喪主であった。
三人を見かけると、彼は一通り挨拶をし、「父の遺言です。いつかホテルの方にいらして下さい」と告げた。
更紗は涙が出そうだった。
佐久間翁は約束を忘れていなかった。
「私は約束を果たせられないのにね」
ひとすじだけ、涙がこぼれた。
その数日後、更紗はまたぼぅっとして木の下に座っていた。
あの時と同じように、晴れ渡ったある夕暮れ近くだった。
そこにリュックを背負った少年が現れ、更紗の前に立った。
その少年をどこかで見たことがあったのだが思い出すことが出来ずにいると、その少年は百円を差し出してこう言った。
「……佐久間芳春といいます。どうか僕を引き取って下さい」
記憶が甦った。この少年は、あの老人の孫だった。
「何か困ったことがあったら、百円でみてあげる!」
「嬉しいのぉ……では、こんどホテルにいらっしゃい。貸し切ってやろう」
今度は涙は出なかった。
「どんな理由があるか解らないけど……」
百円を受け取る。
「約束したからね」
少年は少し安堵したようだった。
「更紗ぁー! 食事よぉ!」
舞姫の声が庭に届く。
「夕食だっ、一緒に行きましょ!」
そして、更紗は重そうなリュックを背負った少年の手を取り、大きな木の家に向かった。
月夜の晩の、そんな話。