寂しさの末路
※当方の「短編集」のリンクからいらっしゃった方へ。死を扱うので、「プラスの感情」とは言いがたいかもしれません。ご注意ください。
しらふで「寂しい」と口にするような男を、僕は大野しか知らない。もっとも、「あの時」に限っては酔っていたのかもしれないけど。
ともかく、そんな大野は号泣しながら僕を呼びつけた。簡単に言うけど、このとき大野は東京にいて、僕は金沢にいた。それでも、彼のために一目散に駆けつけてやることに迷いはなかった。
少なくとも、葵に動かされたわけではない。そう思う。
◆
巣鴨に着いたときには、もう午後十時を過ぎていた。
仕事帰りのサラリーマン風の人が空間を占めるなかで、身軽な出で立ちの僕はそれなりに際立つが、誰も気に掛ける人はいない。小川のような人の流れを妨げるときにだけ、彼らは他人に意識を向ける。彼らは決められた動きのように地下鉄や出口に向かって動いていく。懐かしかった。
改札を出てすぐに、大野の姿を認めた。案の定、彼は汚いながらも地面に尻を付けて膝を抱いていた。膝の上に顔を沈めていて、ここからでは、その豊かな黒髪しか見えない。相変わらずの華奢な体つきとその特徴的な服装ですぐに彼とわかった。
「久しぶり」
僕の声は小さくて掠れていた。ここにつくまでの長いあいだ、ともすれば鳴りそうになる歯を抑えるために必死で口を閉じていたからだろうか。寒いからじゃない。不安か、恐怖だ。
大野は弾けるように顔を上げた。その顔を見た途端、言葉に詰まる。それは彼の方も同じだったらしい。彼の目は赤く充血し、口は抵抗の徴が認められるが、泣き出しそうに「へ」の字に曲がっている。
「ごめん。待たせた」
彼は首を左右に振った。
「行こう。ほら、立って」
彼の二の腕を掴んで立ち上がらせた。一度、滑るようにバランスを崩したが、しっかりと立った。
大野はボタンダウンのシャツを着て、細身のVネックセーター、これまた細身の千鳥格子柄のパンツを合わせている。ブーツは黒のドクターマーチンだ。慣れるまでは、そういう格好の美学がさっぱりわからなかった。いや、僕の方はいまだに理解していない。
この手の服の美学と歴史を僕らに力説したのは他でもない、あおいだった。大野はあの当時から好みが変わっていないらしい。こんな時でも自身を飾るのを忘れない彼に安心し、その一方で寂しさを感じる。
彼はかつてのように僕の前に立ち、無言のまま歩いた。これが僕らの正しい位置関係だ。
久しぶりの再会であるのに、いかなる回復もなされなかった。ただ淡々と、彼の歩みに従っている。言うなれば、僕ら二人は映画のフィルムみたいなものだ。カットが移り変わろうと、結局一本のフィルムとして連続している。一時停止の後に、何もはさまれることなく再生するように、何のフォローも付け足しもいらない。僕ら二人は、あおいと出会う前からの友人同士だった。
東京は金沢よりも温かかった。ジャケットの前ボタンを全部閉める。肌寒い風を頬に感じながら、光の少なくなっていく道を辿る。
「いつ知った」
大野は前ぶれなく口を開いた。挨拶もなしに、一番話したいことだけを一方的に始める。大野はそういう奴だった。
「昼だよ」僕は短く答える。「電話があった」
今ここで話すべきことは一つしかない。あおいの死をいつ知ったのか? ということだ。
「……誰から」
ひどい鼻声で、やっとのことで、という感じの言い方だ。
「なっちゃんから電話があって」
「誰、『なっちゃん』って」
「あおいの義弟の、ナツミくんだよ」
「そういう名前なのか。女みたいだ」
「実際、女の子みたいに可愛いんだ」
「あいつの弟だ。納得だ」
彼の表情は暗くて解らなかったが、多分、一生懸命に笑った。細い肩が少し揺れた。だから、あおいとナツミは血がつながっていないという事実は言わないでおいた。
「……ナツミの電話の前に、あおい本人からも電話があったんだ」
それを僕は、受け取ることができなかった。
「……俺も」
大野もだった。
大野自身がいつでも身奇麗なように、部屋も手抜かりがない。漆黒で統一された寝具、真紅の二人掛けのソファ、薄型テレビ、街灯のようなフロアランプ。不吉なほど滑らかな黒の厚手カーテンの襞には、三つボタンのモッズスーツが掛かっている。それらは僕が以前訪れたときと変わりなかった。
目をひいたのは、机上の酒とグラスだ。きっと彼は、あおいの死の報せを受けてからずっと泣いたり飲んだりしていたはずだ。
「やっぱり、大野の部屋はいいね」
僕の好意的な感想を大野は無視する。彼が反応しようとしまいと、僕がそう言うのが当たり前なのだ。逆に言うと、褒めなければ彼は不機嫌になるというとでもあった。
「風呂入ってこいよ。俺、もう済ませたし」
僕が床に荷物を降ろすのを見ると、彼は酒を注いだ。もちろん、僕の分じゃなくて、自分の分。でも、グラスが二つあるのに気付いた。わざとらしいルージュの跡が残っている。僕と大野の電話を聞いて、二番手の女が来るとでも思ったのだろうか。
「……彼女が来てたのか。気をつかわせたな」
「彼女じゃねえよ。それに、俺が正一を呼んだんだ」
そうして僕をまっすぐに見る。それは、僕が苦手とするあおいの癖と同じだった。他の人間に対してもそうだったのかは知るところでないけど、少なくとも僕には頻繁に見せた眼差しだ。絶対に逸らさない強い瞳で語りかけてくる。言葉を濁したり、中途半端に回答から逃げると、彼らは「何で」と言って僕を追い詰める。
ただし、今は。責めるのではなく、なにかを懸命に伝えようとしている。
「本当に来てくれるとは思わなかった。やっぱり、俺は正一が一番大切だ」
僕もだよ。……と直ぐに返せないのは、照れからではない。裏返しの誠実さだ。僕は彼が大事じゃない。そもそも、もっともらしく言ってくる大野にとっても、僕はなんら特別な存在ではない。
ただし、今の言葉は彼の中の正しい実感であって、誇張でも嘘でもない。「一番」の概念が、僕と彼で違うだけだ。彼にはいくらでも一番がいる。今回は、あおいにまつわっているから僕が必要とされているだけのことだ。そうでなければ、例えば、彼がいま腰を下ろしている赤いソファと同程度の存在意義だと思ったほうがいい。
それなのに大野は、“ソファ”たちに惜しげもなくこころを預ける。自分のこころが分散するのを許すほどに、彼は自分のありように頓着しないのだ。そんな奴を誰がいちばん大切に思えるって言うんだ。
僕も、と答える代わりに、こんなに言葉を返した。
「酒はほどほどにな」
適当なことを言う自分に唾を吐きながら、バスルームの扉を閉めた。
風呂から上がっても、大野はまだ酒を飲んでいた。量としてはたいしたことはないようだったが、顔は赤い。大野がぐだをまく前に、僕は重要な話を持ちかけた。
「なぁ、数日間泊めさせてもらってもいいかな」
何で実家に帰らないのか、と聞かない彼がありがたかった。
「いいよ。いられるだけ居ろよ」
彼は頬杖をついていた。彼が快諾した理由はもちろん、ただ単に、一人が寂しいからだ。とくに今は。一人が寂しいだなんて、普通じゃない。
「じゃぁ、お言葉に甘えて」
構わねえよ、とこちらを見上げる目は、とても眠そうだった。
「告別式に行こうと思うんだ」
「お前、行くのかよ」
「なっちゃんに頼まれたんだ。……お前もじゃないのか?」
「俺も?」
彼は怪訝な顔をして、直後に曇らせた。
「なっちゃん、大野にも連絡したって言ってたぞ」
とたんに彼は決まり悪い顔になる。
「俺、たぶん、泣き喚いて話聞いてなかった」
「……わかるよ」
彼の隣に座らせてもらった。ソファは心地よかった。
「でも、俺、行かねえ」
「なんで」
「なんでって……。だって、あおいと俺の関係は、『友達の元彼女』でしかないだろ」
「何言ってるんだよ。友達だったじゃないか。しかも仲が良かった。……なあ、挨拶に行こう。ほんとうに、最後なんだ」
「解ってる。でも、」
彼にしては歯切れが悪かった。不意に、「それだけじゃないだろう」と肩を揺すりたくなる。不覚にも、言葉だけはするりと飛び出してしまった。
「枕友達だったからか」
大野は明らかに動揺した。知らなかったとでも思っていたのか。呆れる。
グラスを手から滑らせるなんて、定石もいいところ。そのくせに、余裕を装って偉そうにする。伸ばした足をテーブルの上に乗せた。それこそ、動揺しているからだし、酔っているからだ。普段なら、お気に入りの家具にこのような仕打ちをすることはない。
「責めてるわけじゃない。言葉が悪かった。あおいはさ、大野を必要としてたんだよ。だから、それが理由で行けないならそれは違うぞ、って言いたい」
「正一がそう言うなら、そう思うことにする。……でも、したことは謝らねえぞ。先に誘ってきたのは葵のほうだ」
彼はジャージの上から自分の二の腕を抱きしめた。自己愛の仕草。
「解ってるよ」
第一、お前はもう謝っている。忘れているだろうけど、ある日突然、お前は僕に「ごめん」と言った。
僕とあおいが付き合っているのを知りながら、大野はあおいと寝ていた。いや、むしろ、彼ら二人の関係が既にしてあるところに、僕とあおいの関係が実を結んだ、と表現した方がしっくりくる。僕の参入には正当性があった。僕は正しくあおいを好いていたし、また逆にあおいは僕のことが好きだった。(あおいの場合、正しいかどうかは、また別として。)
大野は再び口を開いた。
「でも、やっぱり行かねえ。理由は、それだけじゃねえよ。……なんか気味が悪いんだよ。葵のいる場所にいったら、あいつに会ったら、俺、なんだかここに帰ってこられなくなりそうな気がするんだよ。踏ん張って生きていたこと全部、見失っちまいそうなんだよ」
意味がわからないけど、でも、なんとなくわかる。それは実に正直な理由だった。何一つ反論する余地がない。僕も同じ理由で行きたくないからだ。しかし僕は彼とは違う。
大野よりも僕は強いし、大野はあおいと同じだけ弱い。ようするに、あおいと大野はそっくりだった。
僕らは同じベッドに横たわった。彼のベッドはクイーンサイズなので、男二人が並んでも何とか我慢できる。どちらかと言えば一人じゃないと眠れない性質なので、ソファで寝たかった。
そう大野に申し出ると、彼はまた「なんで」とまっすぐ見据えて聞いてくる。責められている気がして、正直に「一人で寝たい」と言えないのが僕だ。
「じゃぁ、ベッドで。隣で寝ていいかな」
「だから、そうしろって言ってるだろ。お前は遠慮しすぎ」
遠慮しているのではない。大野ほどパーソナルスペースが狭くはないんだ。思っていても言わない。
大野は小さな沈黙の後に、ゆっくりと言った。
「なんでお前は俺が近寄ると身を固くするんだ。高校のときから、ずっと気になってたんだよ。今も、俺が隣に居るのが厭なのか」
少しだけギクリとした。肩を叩かれる度に、背中にのしかかられるたびに、僕が困惑していたのに気付いていたのだろうか。そうだとしたら、今更だ。
「大野に限ったことじゃないよ。だめなんだ、体に触られるのって」
彼は僕の言葉の意味を考えるように黙り込んだ。そのままの意味しかないのだが。やがて、仰向けの姿勢から体を転がして僕を見る。
「俺は、意味なくスキンシップしてるんじゃない。ガキの頃に学んだことだ」
そうだった。大野は傍若無人そうに見えて、繊細に謀る人間だった。
「俺って寂しがりなんだよ。自覚してる。人の気を引くことが、幼い俺の課題だった。俺は努力したよ。可愛がってもらえるように」
「はぁ。その努力の結果が、」
「そうだよ。触れることだよ」
頷かずにはいられなかった。触れてくるという行為は、こちらに緊張を走らせながらも、無邪気という許せる要素を孕んでもいるのだ。例えその行為が意識的であるにしても。現に僕は彼の手を払いのけることができなかった。今もできていない。今後もきっと、振り払うことはないのだろう。
「そして、一度掴んだもんは離しちゃ駄目なんだ。掴んだものが逃げて行く時ほど淋しいものはねえよ。全部俺のものなんだよ」
それに加えるならば、「掴んだものが自分の知らないところで好き勝手するのは許さない」といったところだろう。
彼の理不尽なまでの所有欲や独占欲は、そこからきている。何しろ僕は、高校生活の殆どが彼に把握されていたといっても過言ではない。僕以外にもそんな人間が数名いたことだろう。
「それにしても、お前だけはいつまでも俺の癖に慣れないよな」
「だから、ニガテなんだよ。そういう性質の人間もいるってことだよ」
でも、お前の目的は達せられているからいいんじゃないのか。
「マジか」軽い口調で彼は言った。
「マジだよ」僕も同じように返した。
大野は僕が好きだ。
それこそ、そこのソファと同程度には。大野はソファを捨てることができるし、“尻に敷く”こともできた。ただ、人間という存在はソファと違って自分の意思で行動するし、ソファと違って彼の元から遠ざかる可能性もあった。つまり、逆に大野が僕に捨てられることも十分にありえたということだ。
だからこそ大野の気持ちは奇妙に捩れていて、鬱屈していて、不気味だった。絡め取るような粘着質と、まとわり付くような幼稚さが同居した。人間のすべてに少女期というものが存在するとしたら、大野はそれを失っていない男だった。
彼の干渉を逃れたのは、大学に進んでからだ。その動かざる地理的な別れに際して、彼はただ、別のソファを買いなおせばよかった。十分すぎるくらいに、すでに彼はそれを持ってはいたのだが。
執着しながら、あっさりと手放す。行動と心と言葉が連立していないところも、彼の不気味さと勘定していい。具合が悪いのは、そのどれにも悪意がないということだ。強烈な自己愛をして、脈絡のない人間たらしめる。
大野はまた体を仰向けに戻すと、大きなため息をついた。
「お前が金沢なんかに行っちまうから」
「なんだよ」
「こうして俺の話を聞いてくれるのは、お前しかいないのに、遠くに行っちまいやがって」
「ばか言うなよ。お前の友達は、みんな東京に残ってるだろ」
「だからお前もここにいればよかったんだ」
「僕はずっと東京を離れたかったんだよ」
何度この言葉を言ったか知れない。あおいにも、何度も言った。
「違うんだよ。そういうことじゃねえよ」
「じゃぁ、どういうこと」
「だから、どうして、俺の傍を、離れたんだよ」
彼の言葉は途切れ途切れだ。眠りに落ちていく様子をじっと見守った。彼は静かな寝息を立て始める。僕にも疲れが不意に襲ってきた。瞼を閉じる。体は限界を迎えているのに、こころと頭は妙に冴えた興奮状態だった。
◆
数日後、あおいの告別式へ向かった。その日は嫌味なほどに晴れ渡っていた。「秋空高く」その言葉が似合う日だった。
結局、大野は、あおいの話題に触れることは最初の晩以外はなかったし、今日の告別式にも顔を出さない。彼がこの話題を避けたがっているようにも見えたから、僕もそれ以上のことはしなかった。もう一度、「あおいに会いに行こう」と誘うことも説得することも諦めていた。大野の場合、それでいいのだ。
ひっそりした式が終わるまで残っていた。でも、終えればすぐさま帰る支度を始める。僕とあおいは高校が別だったので、共通の友人があまりいない。つまり、いることはいた。でも、あえて彼らの話の輪に入ろうとは思えなかった。
そんな、去りかけた僕を呼び止める者がいる。あおいの義弟のナツミだった。久しぶりに顔を合わせたナツミは、幼児から少年へと変貌していた。それこそが、復旧し得なかった僕とあおいとの間隙を意識させた。ナツミが僕のことを覚えていたというのも、驚きに加わった。
「葵さんは、最後になんと言っていたのですか」
そうなのだ。あおいは最後に、僕と大野に電話を寄越していた。そこでナツミは、僕と大野とあおいの、三角形に気付いた。僕をこの場に立たせたものは、電話越しの大野の号泣のほかに、このナツミの、「義姉に会いに来てくれ」という懇願だった。
「ほんとうに残念だけど、僕も大野も、あおいとは話せなかったんだ」
このしこりを、ナツミが知りたがるのは当然かもしれない。ハッキリと内容を聞いてきたのは、ようやく今になってからだ。たぶん、僕の顔をじかに見て聞きたかったのだろう。
しかし、彼は僕の顔を見ないでうつむいていた。話せなかった、と聞いて項垂れるのも道理だ。詰襟の学生服に包まれた体が震えているのが分かる。普段ならば調子よく整えているであろう今風のミディアムヘアーも、今日はしんなりとしている。
「でも、彼女の言いたかったことには心当りがはある」
彼は反射的に顔を上げた。
なぜ、あおいは、僕みたいな取るに足らない人間を最期の会話の相手に選んだのだろうか。大野は分かる。彼らの関係は最近までずっと、密やかに続いていたから。だからこその、大野のあの取り乱しようだ。僕にとって、あおいは忘れがたい人物ではあったが、彼女にとっての僕は、ただの昔の恋人――しかも、たった数ヶ月の付き合いだ――でしかない。
その理由を、僕はずっと考えていた。それはすなわち、あおいが僕と大野に伝えたかったことを考えるに等しかった。僕も大野も、彼女の電話を取り損ねたが、あおいは僕らに何かを言いたかった。でも、伝えずに去った。考えれば分かることだ、という暗示に違いない。
「彼女は、『もう君のことは好きじゃないよ』って、僕と大野に言いたかったんだよ」
口にしてから気付く。酷く無神経だった。彼は傷ついたように、もしくは、怪訝そうに眉根を寄せた。ナツミは、サスペンスドラマのような真相に迫る遺言や、「前向きな」あおいらしい謝罪を期待していたのかもしれない。あるいは、このナツミと、ナツミの母という二人の家族に宛てたメッセージか。
やっぱり、本心を言うべきじゃなかった。今の言葉は、完全に、男女の間で交わされる、陳腐な言葉だったのだから。なにも言い遺そうとするほどのことではないと、普通は思うだろう。あおいが普通の女じゃなかったとしても。(しかし須らく僕らの恋愛は赤面するほどに陳腐で普通だった。)
「……僕なりに、考えた結果なんだ。彼女は何時だって、平気で僕を突き放したり、抱きしめたり。今回の突き放しは、ちょっと長くなることを覚悟しなきゃいけないみたいだ」
ナツミは、「葵さんらしいです」、と言って笑った。笑うような気持ちじゃないだろうに。
僕は何をしているんだ。こんな時に限って・しかも、柄にもなく本心を語る必要なんてまったくなかった。そう反省しているのに、どうしても彼女の義弟を納得させるような文言を捏造する気になれなかった。全ては僕の想像だ。僕のなかに預けられた彼女のこころは、「私は君を忘れるよ」(でも君は私を忘れてはいけない)としか訴えないのだ。
「逆に聞いてもいいかな。どうしてあおいは、その時、僕を選んだのかな、」
ナツミの心情を慮れと理性がわめいているが、でも、どうしても別の解答も欲しかった。自分で出した答えのほかに。今問わなければ、もう二度と彼女に近寄ることはできない。ある意味で、あおいと僕との別れは、ナツミのそれ以上に厳粛だった。この先、彼女に関する一切の寄る辺が、僕には無いのだから。
真顔で黙っているかと思ったら、ぱちりと大きな瞬きをしながら大粒の涙をこぼした。涙をこぼしながら、安らかな微笑を口に宿す。ほんとうに、ナツミとあおいは似ていなかった。
「あなただけなんです。葵さんが、この家に連れてきた男は。葵さんにとってここは、決して居心地のいい家ではありませんでした。でも、あなたのことは連れてきた」
瞬きのたびにきれいな雫は落ちて、学生服にしみていく。
「あなたの質問に対する答えは、簡単なことです。あなたが、誰よりも葵さんを愛したからです。彼女が死ぬまでに出会った、数え切れないほどの男を含めても、いちばんに」
「……あおいらしいや」
僕は苦笑した。まったくもって、その通りだった。
◆
その日のうちに金沢へ帰ることとした。大野への挨拶は無しだ。むしろ、しないほうがいい。
新幹線は比較的空いていた。行楽シーズンを目前に控えた季節の静けさだろうか。通路を挟んだ窓側の席にはくたびれたスーツの男がいて、ささやかな酒盛りの準備を始めていた。ぷしり、と物悲しい音を立てて、缶ビールのプルタブを倒した。彼がビールを喉に流し込む平和で能天気な音を想像しながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
ささやかな乗り換えを経て、特急列車は僕の仮住まいへと近づいていく。そこでも死んだように眠り続けた。夢は、見たのかもしれないがイメージは何も残っていなかった。
金沢駅に着いて改札を通り抜けると、見慣れた人影が手を振っていることに気付いた。恋人の、イズミだった。彼女には、高校時代の友人の告別式に出席してくるとは伝えてあった。
「驚いたよ。何でここに居るの」
傍に寄るなりそう言った僕に、彼女は顔を顰めた。
「来ちゃ悪い?」
「だって、帰る時間を言ってなかったし。一体何時間待ったの」
「正一がこの街に帰ってくるのは、いつだって夜だもの」
彼女は僕に気遣わせない言い方をする。そして、「この街に『帰って』くる」。彼女がそう表現したことに、少し癒された気分になる。
「それにしたって。迎えに来るなら正確な時間を教えたのに」
食い下がると、彼女は肩をすくめ、手に握っていた自分の携帯電話を示す。その仕草でハッとした。自身の携帯電話をポケットから引っ張り出しては着信履歴を確認する。画面を見てぎょっとする。
彼女からのメールが一件、届いていた。『何時に着くの?』と。
「ごめん。気がつかなかった」
「いいよ、べつに。寝てたんでしょう?」
彼女は突然、弟の失態を水に流す姉のような優しい目を見せた。交際を始めてからというもの、彼女がこんなに寛容な姿を見せたのは初めてだった。何時だって彼女は、自分がお姫様扱いされないと気がすまない人間だったから。今は、僕の傷を想像してくれている。
「今日は、全部、何でも許してあげる。さぁ、こんなところで何時までも突っ立っていないで、帰ろう」
そうだ、帰ろう。僕は、帰ってきたのだ。空港のような構内を、彼女はヒールの音を響かせて歩く。
僕らはタクシーに乗った。通常なら他の交通機関を選ぶところだが、彼女はタクシーがいいと言った。バスよりも地面に近いところを走るそれは、凄く親密で、他人の声が聞こえなくて、……温かかった。僕らは車内では一言も言葉を交わさず、お互いがてんでの方面を向いて物思いに沈んでいた。
イズミは、タクシーを彼女のマンションまで走らせた。それについて何も文句は挟まない。今日は彼女のマンションに泊まることになるのだろう。それで構わなかった。
彼女は僕を先に車から降ろして代金を支払っていた。半分払うと申し出ても、彼女は頑として受け取らなかった。それは、彼女が金銭的に恵まれた学生であることとは今は関係ない。一応、僕も彼女の気遣いを解ってはいる。だから、惨めな気持ちになることも無く彼女の好意に甘えた。
イズミは一人暮らしの学生にしては警備も掃除も行き届いた上等なマンションに住んでいた。さらに、いつ行っても彼女の部屋は綺麗に片付けてあり、空気も綺麗だった。その空気を色付けするように、インド香の切ない熱情的な香りが漂うのだ。
彼女は、黙って僕の前を進み、部屋の鍵を開けた。やっぱり、むせ返るような香の香りが流れ出てきた。
もう耐性がついて、自分の香りになっていたはずなのに。不意に、その香りが、あおいの部屋を思い出させた。寄る辺は、ここに残ってしまっていた。狭くて、汚くて、服とブラック・ミュージックとにまみれた彼女の部屋を。……どれほど昔のことだと思っているんだ。それなのに、突然、涙が溢れた。コンタクトレンズがぼろりと剥がれ落ちるように暴力的で、大きな涙だった。押し出されるような涙だった。
もう、淡々としたふりをすることは限界だった。ここには大野はいない。ナツミもいない。最初から――最初から僕は、泣きたくて仕方なかったんじゃないか。悲しくて、はち切れそうだったじゃないか。
「正一、」
玄関先で突っ立ったままの僕を振り向いた彼女が、愕然とした表情を見せた。自分の醜態を取り繕うことが出来なかった。むしろ、零れるような言葉の限りを吐き出したくて堪らなくなっていた。
「チャンダン香、」
それでいて、やっと出た言葉がこれだった。
「正一がこれ好きだって言うから、いつも焚いてるんじゃない。嫌なの?」
イズミは優しい声で、あやすように言う。僕の手を引いて室内へと導いた。ぼろぼろと涙を零していることには触れなかった。それがありがたかった。
「こんなもの……僕が好きだったんじゃない。あおいが、……葵が好きだったんだ。僕は、初めてこの香りを嗅いだときは、嫌いだと思ったんだ」
「うん」
「僕は、インド香は下品だって言ったんだ」
「うん」
「あおいの言うことを否定すると、あおいはいつも、文句を言う」
「そう」
「『正一はつまらない人間なんだ』って」
「そんなことない、」
「僕は、あおいとは、全然違う人間なんだよ。……あおいとは違うし、……大野とも、ぜんぜん、……全然違うんだよ」
イズミはきっと、僕が何を言っているかさっぱり解らなかったと思う。それでもただ頷いて僕の背中を擦ってくれた。イズミを抱きしめて泣き崩れるしかできない。息が止るほどの強烈な喪失感と憎しみが顔を歪ませた。
あおいが嫌いだった。僕の何をかもを否定して、自分の価値観で僕を染め上げようとするあおいが大嫌いだった。大野に平気で抱かれるあおいが憎らしかった。大野じゃなくて、あおいが憎らしかった。
でも、大好きだったのだ。どうにかして、僕に無いものを埋めたかった。僕に足りないものを全部持っているあおいを離したくなかった。僕に無いものをもっている大野が眩しかった。それもまた事実だ。
あおいはそんな僕をいつまでも求め続けた。別れても、僕が彼女を何とも思わなくなっても。彼女は、彼女を崇めていた僕を、いつまでも求めていた。そんな僕が、要らないものだと気付いたとたんに消えるなんて、冗談じゃない。電話なんか寄越さずに、勝手に死んでくれれば良かったんだ。
そんな彼女に、同じことを言い返してやりたくて、僕は泣いた。「僕だって、君のことなんか、もう何とも思っていない」。
大嫌いなのに、憎たらしいのに、どうしようもない悲しみが押し寄せてくるのだ。僕にとって、彼女が何故死んだかなんて、――みずから命を絶った理由なんて、そんなことは最初からどうだっていい。彼女が僕を理解できなかったように、僕だって彼女を理解できるわけがないのだ。
止らない涙に押し流されながら、ぼんやりと、彼女の最後のわがままに翻弄されたのだと気付く。あおいらしい出来心だ。こうして僕や大野をワンワン泣かせたかったのだろう。
あおいを憎いと思う心の端で、僕は、大野の為にも泣いた。
あおいと同じように脆くて弱い男の死を思って泣いた。不謹慎かもしれない、馬鹿げているかもしれない。しかし、あおいが自ら死を選んだように、大野もきっと同じように死を選ぶに違いないのだ。大野はきっと、僕の理解できなかったあおいを理解している。
そして僕は、大野を守る方法を知らない。その僕の無関心さが、彼を殺すのだろう。
◆
一体、どれほどの時間を寝たのだろう。
針の先ように凝集された陽の光が遮光カーテンの隙間から左目を突き刺した。それが痛みとなって僕を目覚めさせる。一糸纏わぬ姿のイズミを抱いていた。いつもだったら、どんなに疲れ果てていても下着だけはつけて寝る彼女が。かく言う僕も、同じようななりではあった。
彼女は規則正しい寝息で、穏やかな寝顔を見せている。それを起さないように、僕は静かに布団から抜け出した。台所へ向かい、ミネラルウォーターをコップ一杯分飲む。その冷たさは、体に沿うように鮮烈に臓腑へ流れていく。
数年ぶりの号泣から一晩を経過した僕の心は、嵐が去った後の海のように静かで凪いでいた。悲しみも、憎しみも、あおいの死にまつわる数日間の生々しい感情が驚くほど綺麗に流れ去っていった。涙の浄化作用に動揺する。あれほど僕を縛ると思っていた彼女の死は、結果的に何の爪痕も残さず消えたのだろうか。……まさか。僕は彼女のことは忘れもしないし、冥福も祈る。ずっと僕を苦しめている、ふとした瞬間に蘇るあおいの面影も、これからも変わらず付きまとうだろう。
しかし、今日もまた学校へ行って、ご飯を食べて、イズミを抱いて、そして寝る。一見すると薄情にも思えるこの回復は、多分、普通なのだろう。「たった数ヶ月の間だけ付き合った女の子が、この世から消えただけだ。ただそれだけだ。」そう言い聞かせる。僕はこれからも生きなければならないし、彼女の死について悲しむべき人間は他にいる。つまりそれは僕じゃない。そう思い込む。
こんなふうに、寂しいこころのメンテナンスを繰り返して、なんとか生きていくのだろう。
「もう朝だよ」
枕元に戻り、イズミの裸の肩を揺する。彼女は寝言を言って、うつ伏せに体をよじってしまった。彼女と一緒に部屋を出るのは諦めた。しかし僕は一旦自分のアパートに帰り、大学へ行く準備をしなければならない。
昨夜脱ぎ散らかした下着やら真新しいスーツやらを再び身に付け、放り投げた鞄を拾う。告別式でも履いた革靴は、奇妙な形に固まって素足には馴染まなかった。部屋を振り返り、一応の挨拶をする。
「イズミ、僕は帰るよ」
イズミからの返事は無い。
それどころか、誰からの返事も無い。
こんな、今生きている僕らの寂しさが、いつか温かい布団で慰められる日は来るのだろうか。あおいが今いるそこは、少なくとも、僕のいる場所よりは温かいのだろうか。僕があおいと大野を愛するのは、彼らに愛されないからだ。そんな僕の寂しさを、二人は知らない。
あおい。頼むから、大野は僕のそばから連れて行かないでくれ。
あおいからの返事は、無い。
最後までよんでいただいてありがとうございます。
このお話は、一年くらい前に書いた五万字のものを、むりやり一万字に再構成したものです。意味の分からない、変なところがありましたら、申し訳ありません。