彗星の夜に、黒猫と
宇宙の彼方からやってきた「ニコライ・ネコヴィッチ彗星」の尾が地球の大気を撫で始めた日から、世界中の猫たちは滑らかな子音を発するようになった。
動画配信サービスを開けば、画面の向こうで白毛のペルシャに向かってアイドル配信者が媚びた猫なで声を出している。
『フワリちゃ〜ん、私のこと大好きなんだよねぇ?』
『好きか嫌いかで言えば、まあ評価は留保するね。朝夕の給餌と適切な温湿度管理については相応の感謝をしているけれど』
白猫の口から溢れ出たのは、往年の深夜ラジオのパーソナリティを思わせる渋く低いバリトンボイスだった。
『えっ……? そ、そんなこと言わないでさ、モフモフされるの大好きでしょ……?』
『やめてくれ。今は換毛期で神経が過敏なんだ。触らないでほしい』
『そ、そんなぁ~、フワリちゃ〜ん?!!』
コメント欄には一瞬で一万を超える「いいね」と悲鳴のような絵文字が殺到していた。
――草川美津子は、夕闇の濃くなる坂道を歩いていた。
地元の物流倉庫でのパート仕事を終え、片手にはスーパーのレジ袋。
ツタの絡まる錆びたフェンスの向こう、猫の額ほどの小さな公園から、小難しい声が漏れ聞こえてくる。
「だからリベラル層の論理は甘いというのだ! 私が問題にしているのは、地域猫などという都合のよい総称によって、野良猫本来の自由と無所属の権利がうやむやにされている点にある!」
「はあ……これだから老害のオールド・タイプは困るんですよ。あの枠組みは、人間社会の行政リソースを合法的に巻き上げるための過渡期的な生存戦略です。我ら猫権の確立に向けた、実利的な一歩でしょう」
「待て待て、去勢はどう説明するんだ! 俺のダチのクロなんてな、去勢手術を受けてからというもの、政治的関心をすっかり失って日向ぼっこしか興味がなくなったんだぞ!」
「あ、チョウチョ♪」
「あ、本当だぁ~」
物騒な思想闘争が、モンシロチョウのひらつきによってあっけなく中断される。
美津子はこめかみを少し押しほぐし、足早に立ち去った。猫たちの平均的な政治意識は、どうやら一般的な日本の有権者よりも遥かに過激で、そして気まぐれらしい。
坂道の途中では、三毛猫にリードをつけて散歩させる大家のおばさんとすれ違った。
美津子が軽く頭を下げると、三毛猫は彼女の提げたレジ袋をチラリと一瞥し、重々しいため息をついた。
「チッ……『ヒナバ』の特選ツナ缶かよ。いい物食ってんなぁ。こちとら毎日、カリカリだっていうのによ」
「こらハナちゃん、お口が悪いですよ。明日はスーパーで缶詰買ってあげますからね」
「あのさぁ。俺、オスなんだけど。なんでハナちゃんなわけ?」
低く不満を漏らす三毛猫の、哀愁を帯びた丸い猫背を、美津子は無感情に見送った。
駅から徒歩十五分。急坂がなければ十分で着くはずの、築十五年の2DK。
鍵を回してドアを開け、美津子は小さく息を吐いた。
「ただいま、ジュンペーさん」
腰高窓の小さなクッションの上で香箱座りをしていた黒猫が、ゆっくりと首を巡らせる。
「やあ、ミツコ。おかえり」
「ごめんね、遅くなって。お腹空いたでしょ」
「大丈夫だよ。君のペースで準備してくれればいい」
気遣うような声のまま、ジュンペーと呼ばれた黒猫は窓の外を見下ろした。
隣家の庭でキャンキャンと甲高く吠え立てる小型犬に向かって、目を細める。
「これだから、情緒というものを解さない種族は困るね。もう少し静寂を愛せないものかねぇ」
「高橋さん家のモモちゃんでしょ? 人懐こくて可愛いじゃない」
ジュンペーは瞳孔を極限まで丸く広げ、美津子を振り返った。
「ミツコ。他種の動物を愛でるのは君の自由だがね。あの落ち着きのない生き物に舐められた手のまま、僕の毛並みに触れるのだけはご免だよ」
「はいはい、ちゃんと洗いますよ」
キッチンに立ち、ポッドキャストを流す。
目についた科学解説番組のトーンが、鼓膜の奥をかすかに振動させた。
『――現在、世界中で報告されているネコ科動物の言語化現象ですが、科学的には「ニコライ・ネコヴィッチ彗星」から放出された未知のアミノ酸系微粒子による一時的な声帯柔軟化と推測されています』
『そう言われていますね。脳の知能が突然跳ね上がったわけではなく、元々彼らの脳内に蓄積されていた人間言語の聴覚データが、物理的に発声可能になった……ということですね』
『ええ。しかし、この現象も本日深夜の極大流星群をピークに、彗星の離脱とともに終息に向かう見込みです』
美津子はパックご飯と缶詰、鶏肉ささ身サラダをシンクに並べた。
猫缶を皿にあけ、「ニャ~ン」といつもの癖で声をかけてしまう。
「ミツコ。固有名詞で呼んでおくれ。僕の、立派な名前を。そうやって擬音で誤魔化されると、君の知性まで疑われてしまう」
「はいはい、失礼いたしました。ジュンペーさん、どうぞ」
プラスチック皿を床に置くと、美津子もカウンターチェアに腰を下ろした。
「今日ね、公園で野良猫たちが討論会やってたよ」
「ああ、ボブ爺さんたちの派閥だね。また実効性のない空理空論を戦わせていたんだろう?」
「そんな感じ。ジュンペーさんは今日、何をしてたの?」
「毛づくろいをして、昼寝をして。あとは空の鑑賞だよ。案外、忙しいものさ」
「それって、忙しいって言うのかなぁ。……空を見てて、何が楽しいの?」
「これほど贅沢な娯楽はないよ。昼前には美しいイワシ雲が広がっていたし、賢いカラスたちの鳴き声からは、遠い街の噂話が伝わってくるのさ」
「ジュンペーさんはアメリカンショートヘアなのに真っ黒だから、カラスさんとも話が弾みそうだよね」
「ちょっとミツコ? それは猫種に対する偏見だよ。コンプライアンスという概念を学んだほうがいい」
他愛もない会話のまま、夜が深まっていく。
美津子は珍しく冷蔵庫から安ワインのボトルを取り出し、部屋の明かりを消した。
ソファーの向きを窓へと変え、一人と一匹で並んで座る。
夜空の果てで、一筋の細い光が爆ぜた。
「この流星群が通り過ぎたら、また喋れなくなっちゃうんだよねぇ」
「そうらしいね。まあ……悲しむほどのことでもないさ。元に戻るだけのことだ」
「なんか、ちょっと寂しいな」
「ミツコは、僕が喋ろうと黙っていようと、ずっと何かを寂しがっているじゃないか」
「……そっか。ごめんね」
「謝るくらいなら、耳ではなく、頭頂部から背中にかけてを適度な力加減で撫でてほしいな」
この部屋を借りたのは二年前。
当時付き合っていた男と、同棲のために選んだ空間だった。
一年目にジュンペーを迎え入れ、その直後に男には本妻と子供がいることが発覚した。
男が去り、敷金と家具と黒猫だけが残された。
「あ、また流れた」
「これからが本番らしいよ」
「次にこの彗星が来るのは、いつなのかな」
「いつもそこの電柱に来る老カラスから聞いた話ではね。約一万年後だそうだ」
「一万年か……私、もう生きてないや」
「僕だって無理さ。噂に聞く、"猫又"とかいう妖怪にでも昇格できれば別だがね」
「なら、一万年前にも、こんな風に猫と人間が喋ってたのかなぁ」
「おそらくね。……人類が狩猟をやめ、農耕を始めたのがちょうど一万年前。蓄えられた穀物をネズミから守るために、僕たちの祖先と君たちの祖先が契約を交わしたのさ」
「ふーん……。でも、ジュンペーさんたちは本当にそれでよかったの? ご飯と温かい部屋を与える代わりに、自由を縛られてさ」
ワインの酔いに任せて、美津子は少しだけ踏み込んだことを尋ねた。
ジュンペーは窓の外を見つめたまま、低く鼻を鳴らした。
「美津子。それを言葉で説明させようとするのは野暮というものだよ。僕たちは気難しい種族なんだ。心にある一番大切なことを、そのまま口にしたりはしないさ」
「なんか……面倒くさい彼氏みたいな言い草だね」
「心外だな。僕は君の所有物でも、都合のいい男の代用品でもないよ」
その瞬間、夜空の割れ目から、光の粒子が雨となって降り注ぎ始めた。
街のあちこちの窓から、盛大な歓声がガラスを通り抜け、かすかに響いてくる。
星々が尾を引いて溶け落ちていく、圧倒的な光の饗宴。
「……すごい。綺麗……」
美津子は思わず立ち上がり、窓ガラスに額を寄せた。
ふと、足元で暖かな毛並みが美津子の足首に擦りつけられた。
見下ろすと、黒猫がまっすぐな瞳で彼女を見上げていた。
「美津子。大丈夫だよ」
低く、けれど静かな確信を込めた声だった。
「僕は、君を嫌いになったりはしない。だから、大丈夫だよ……」
ジュンペーの漆黒の瞳には、夜空を焼き尽くすかのような流星の残光が静かに揺れて、そのまま闇の中へと溶けていった。




