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甲子の章 春の夜や 令嬢墜つる バルコニー


 夜風にも微かに花の香漂う四月の宵。


 ここオーエドゥ王国の宮殿では、春の訪れを祝って盛大な舞踏会が催されていた。


 冬の間の分厚く重い衣装に飽き飽きしていた貴族たちが足取りも軽く会場に詰めかけ、王宮は華やいだ空気に包まれている。

 メインホールでは、きらびやかに輝くシャンデリアの下、思い思いに春の装いを凝らした紳士淑女が談笑し、ダンスに興じていた。


 一方、そこから遠く離れた3階のバルコニーに一人の招待客の姿があった。


 テラスや庭園にはチラホラそぞろ歩きの人影も見えるが、王宮のこんなところまでのぼってくる客はまずいない。


 だがその人物は階下の喧騒を避けるように、人けのないバルコニーで手摺にもたれ、沈んだ表情で夜空を見つめていた。


 ベアトリス・ティヤンディ公爵令嬢。

 オーエドゥ王国筆頭公爵家の長子である。


 目立たないダークブロンドの髪に、大人しやかな顔立ち。

 十七歳の若さには似つかわしくない、重厚で古めかしいドレスに身を包んでいる。


 このバルコニーは、彼女の秘密の避難場所だった。


 階下からは優雅なダンス音楽に混じって貴族たちの笑いさざめく声が微かに聞こえてくる。


 本来であれば彼女もその場にいて、公爵家と近しい家門の挨拶を受けたり、同世代の令嬢令息と交流を深めたりすべきなのは分かっていた。


 まして、彼女はこの国の王太子、レオポルド・フォン・オーエドゥと婚約している身である。

 会を中座してこんなところにいることが知られたら、父である公爵に叱責されることだろう。


 それでも、ベアトリスは時折こうして抜け出さずにはいられなかった。

 彼女は昔から、表向きは華やかな貴族たちの裏に潜む悪意に人一倍敏感な性質だったから。



※※※※※※※



 ベアトリスは、陰で「気弱令嬢」と呼ばれている。


 八歳のときに母を亡くしたベアトリスは、厳格な父があてがった、彼に輪をかけて厳格で融通の利かない乳母兼家庭教師に育てられた。


 元々内気だったところへ、筆頭公爵家の長子という過度なプレッシャーと時代錯誤な価値観の押しつけを受け続けたことで、ベアトリスはオドオドと人の顔色を伺うような子どもになってしまった。


 着るものひとつ自由に選ばせてもらえない環境では無理もない。

 ベアトリスはいつも、彼女の祖母ほどの歳の乳母兼家庭教師が選んだ仰々しいドレスを着せられ、ろくに友達も作れぬまま俯きがちに過ごしていた。


 十三歳のとき、政略のために王太子レオポルドと婚約を結びはしたが、レオポルドからは「地味で面白みがない」「陰気臭い」とすっかり厭われてしまっている。


 事実二人が通う貴族学院では、生徒会の会長と副会長という立場にありながら、ベアトリスは毎日生徒会の雑務のほとんどを押しつけられ、まるで下働きのような扱いを受けていた。


 上がこれでは、下も皆これに倣う。


 ベアトリスの周りは、レオポルドの尻馬に乗って彼女を軽んじる者や、内心では彼女のことを馬鹿にしながらも筆頭公爵家の威光や将来の王太子妃という立場を利用してやろうとおもねる者ばかりだった。


 今日のような社交の場でも、レオポルドは他の生徒会メンバーや令嬢たちに囲まれ、ベアトリスは放ったらかしである。

 当然ダンスに誘われもしないが、仮にも王太子の婚約者なので、彼を差し置いてベアトリスと踊ろうとする者もなく、彼女はいつも壁の花だった。


 家ではその不甲斐なさを父に叱られ、最近は学院の中等部に通う弟からも下に見られる。


 唯一の例外は幼馴染のコーネリア・アタリキヨ侯爵令嬢だけだった。


 母親同士が親友だった縁で知り合ったコーネリアは、ベアトリスとは正反対の明るくハキハキした性格で、昔から何かと彼女を庇ってくれた。

 

 しかし、成長するに従って、明るいコーネリアには多くの友達ができ、一緒に入った生徒会でも彼女は表に立つ仕事、ベアトリスは裏方作業、と役割も分かれた。


 コーネリアは変わらずベアトリスのことを気にかけてくれているが、忙しい彼女をベアトリスが独占するのは気が引けるし、いつまでも彼女に甘えて後ろに隠れているわけにもいかない。


 最近のベアトリスは、学院でも社交の場でもコーネリアに遠慮して一人で過ごすことが多くなっていた。



※※※※※※※



「そろそろホールに戻らなくちゃ……」


 ベアトリスは自分に言い聞かせた。


 舞踏会はまだ続いている。

 いつまでも席を外していては、いかに影の薄い気弱令嬢でも、どこへ行ったのかと噂になってしまうだろう。


 ああ、気が重い。できることならこのまま一人、星を眺めていたいのに。


 後ろ髪を引かれる思いで夜空を見上げたベアトリスは、そこに奇妙なものを見つけてハッと目を凝らした。


 満天の星空を東から西へ横切るように、フラフラと光の玉が飛んでいる。

 

 それは、成績優秀で読書家と言われているベアトリスでも、これまで見たことも読んだこともない不思議な光だった。

 ホタルにしては大きすぎるし、流れ星にしては動きが遅すぎる。


「何かしら、あれ……」


 好奇心に駆られたベアトリスは、光の玉をもっとよく見ようと、バルコニーの手摺から身を乗り出した。


 ―――ドンッ


 その背中に、突然衝撃が走る。


 何かに押された、と思った次の瞬間にはベアトリスの身体は手摺を越え、春の宵闇に投げ出されていた。


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