第六話「壊れていく日常」
何かを失うときは、少しずつです。
気づいたときには、取り戻せない場所まで来ています。
ミスは、小さなものだった。
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数字の入力違い。
確認漏れ。
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今までなら、絶対に起こさなかったレベル。
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「佐伯さん、ここ違ってます」
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後輩に指摘される。
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「あ……ごめん、直すね」
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すぐに修正できる。
大した問題じゃない。
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——そのはずだった。
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でも。
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同じことが、続く。
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一度じゃない。
二度でもない。
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回数が、増えている。
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「最近、大丈夫ですか?」
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また言われる。
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「大丈夫」
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即答。
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反射みたいに。
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でも——
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自分でも分かっている。
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大丈夫じゃない。
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集中できていない。
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考えが、別のところにいく。
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気づけば、思い出している。
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関係ないはずのことを。
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■家庭の違和感
家に帰る。
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いつも通りの部屋。
いつも通りの空気。
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「最近、帰り遅くない?」
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夫の声。
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一瞬、間が空く。
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「仕事が立て込んでて」
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すぐに答える。
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嘘じゃない。
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でも——
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本当でもない。
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「無理しすぎじゃない?」
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心配している声。
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そのはずなのに。
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なぜか、少しだけ煩わしかった。
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「大丈夫だから」
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少し強めに言ってしまう。
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空気が、わずかに変わる。
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それ以上、会話は続かなかった。
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■違和感の正体
分かっている。
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私は、
優先順位を変えている。
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仕事でもない。
家庭でもない。
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もっと別のものを——
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選んでいる。
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■決定的なズレ
会社。
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会議中。
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話は聞こえている。
理解もできている。
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なのに——
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集中できていない。
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「この件、佐伯さんどう思います?」
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急に振られる。
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一瞬、思考が止まる。
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「……すみません、もう一度」
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ありえないミス。
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場の空気が、わずかに変わる。
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その瞬間。
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はっきり分かった。
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——崩れてきている。
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■それでも
帰り道。
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スマートフォンを開く。
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迷いはなかった。
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『今日、会えますか』
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送信。
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少しして、返信が来る。
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『今日は無理ですね』
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——初めてだった。
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断られたのは。
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一瞬、思考が止まる。
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『忙しいので、また今度』
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それだけ。
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いつもと同じ、短い文章。
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なのに。
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やけに遠く感じた。
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■依存の加速
その日は、眠れなかった。
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思い出す。
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あの感覚。
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完全じゃない。
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でも、近づける。
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何度も、試す。
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でも——
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足りない。
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決定的に。
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「……なんで」
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思わず声が出る。
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分かっている。
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足りないのは、
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“あの場所”と、“あの人”だ。
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■崩れ始める感情
翌日。
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仕事中も、頭から離れない。
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メッセージを開く。
閉じる。
また開く。
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何も来ていない。
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分かっているのに。
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確認してしまう。
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「それ、本当にやめたいと思ってます?」
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ふと、
高瀬の言葉を思い出す。
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やめたい。
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はずなのに。
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「……違う」
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小さく呟く。
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私は——
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やめたくない。
その日の夜。
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スマートフォンが震える。
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画面を見る。
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高瀬の名前。
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『明日なら空いてますよ』
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たった一行。
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それだけなのに。
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胸が、強く鳴る。
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安心している。
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明らかに。
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「……よかった」
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無意識に、そう呟いていた。
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——完全に、終わっていた。
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私はもう、
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“来るかどうか”じゃなくて
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“来てくれるかどうか”で
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動いている。
初めて“拒否された”ことで、依存は完成に近づきます。
欲しいときに手に入らない。
それが、一番強く人を縛ります。
次回、決定的に壊れます。




