第四話「戻れない理由」
やめようと思えば、やめられる。
そう思っているうちは、まだ引き返せるのかもしれません。
おかしいのは、分かっていた。
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たった一度。
それだけのはずだった。
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なのに。
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「今日、空いてますか」
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自分から、連絡していた。
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送ったあと、少しだけ後悔する。
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消そうか迷って——
やめた。
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数分後。
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『空いてますよ』
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それだけの返信。
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短いのに、妙に安心した。
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——終わってる。
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そう思った。
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それでも、やめなかった。
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理由はいくらでも作れる。
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仕事の相談。
近くにいるから。
たまたま時間が合ったから。
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全部、嘘だった。
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本当は分かっている。
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私は、“あれ”を思い出している。
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あのときの感覚。
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完全じゃなかった。
でも——
確実に、何かが変わっていた。
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それを、もう一度確かめたかった。
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それだけ。
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——そういうことにしていた。
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ドアの前で、少しだけ立ち止まる。
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ここで帰れば、まだ間に合う。
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そう思いながら、
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インターホンを押していた。
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「どうぞ」
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いつもと変わらない声。
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中に入る。
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前と同じ部屋。
同じ空気。
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そして——
同じ場所に、それはあった。
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小さな瓶。
透明な液体。
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視線が、自然とそこに向く。
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「分かりやすいですね」
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高瀬が笑う。
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「何がですか」
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分かっているくせに、聞く。
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「もう理由いらないでしょ」
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一瞬、言葉が止まる。
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否定できなかった。
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「……別に、それだけじゃ」
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言いかけて、やめる。
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言い訳が、薄い。
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自分でも分かるくらいに。
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「やめたいなら、やめられますよ」
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静かな声。
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試している。
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ここで「やめる」と言えば、
全部終わる。
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普通に戻れる。
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それなのに。
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「……使います」
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迷わなかった。
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その瞬間。
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何かが、はっきり壊れた気がした。
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高瀬は何も言わず、
グラスを用意する。
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慣れた動き。
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それを見ている自分がいる。
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止めようとも思わない。
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「怖くないですか」
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ふと、聞かれる。
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考える。
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怖い。
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はずなのに。
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「……大丈夫です」
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また、同じ答え。
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もう、“大丈夫”の意味も分からなかった。
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口にする。
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変わらない。
味も、匂いも。
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なのに——
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すぐに分かる。
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前より、早い。
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感覚が、近い。
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「早いですね」
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高瀬の声が、少しだけ楽しそうだった。
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「慣れてきました?」
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その言葉に、ぞくっとする。
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慣れている。
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それが、一番おかしい。
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でも——
否定できない。
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「……分かりません」
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そう言いながら、
もう分かっていた。
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体じゃない。
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頭が、覚えている。
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どうすれば、
あの状態に近づくか。
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「人って、一回知ると戻れないんですよ」
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静かな声。
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「知らなかった頃には」
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その言葉が、妙に現実的だった。
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戻れない。
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もう?
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たった二回で?
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ありえない。
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そう思うのに——
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否定できない自分がいる。
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「それ、本当にこれのせいですか?」
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視線が合う。
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逃げられない。
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「……違います」
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気づけば、答えていた。
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「ですよね」
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高瀬が、少しだけ笑う。
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「自分で選んでますよ」
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その言葉が、
決定的だった。
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逃げ道が、完全に消える。
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私は、
誰かに流されたわけじゃない。
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無理やりでもない。
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全部——
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自分で選んでいる。
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それを、認めてしまった。
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■ラスト(引き強化)
帰り道。
帰り道。
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足取りは、軽かった。
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おかしいくらいに。
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罪悪感はある。
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でも——
それ以上に、
別の感覚が残っている。
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足りない。
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そう思っている自分がいる。
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一度じゃない。
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二度でもない。
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「次はいつにします?」
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別れ際に聞かれた言葉。
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そのときは、曖昧に笑った。
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でも今は——
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はっきりしている。
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私はもう、
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“次がある前提”で考えている。
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——戻る気なんて、最初からなかった。
この時点で、もう“選ばされている”のではなく
“自分から選んでいる”状態になっています。




