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第三話「一度だけのはずだった選択」

「一度だけ」


その言葉を使った時点で、もう負けているのかもしれません。


やめておけばよかった。


——本当に。



そう思ったのは、ずっと後の話だ。



このときの私は、


まだ「戻れる」と思っていた。



ドアが閉まる。


その音だけで、逃げ場がなくなった気がした。



静かな部屋。


生活感はあるのに、どこか冷たい。



落ち着かない。


でも——


帰りたいとも思わなかった。



「そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ」


高瀬が、軽く笑う。



「ここまで来て、今さらですよね」



言葉が、逃げ道を塞ぐ。



何も言い返せなかった。



視線が、テーブルに吸い寄せられる。


小さな瓶。


透明な液体。



「それ、何ですか」



分かっているのに、聞いてしまう。



高瀬は、それを指で転がす。



「ただのきっかけですよ」



「きっかけ?」



「何かを言い訳にしたいときって、あるでしょ」



一瞬、意味が分からなかった。



「やりたいことを、やりたいって認めたくないとき」



言葉が、静かに刺さる。



「そのための“理由”」



目が逸らせなかった。



「怖いならやめましょうか」



すぐに言えるはずだった。



やめます、と。



なのに——



「……少しだけなら」



また、それを言っていた。



高瀬は、ほんの一瞬だけ笑う。



「好きですね、その言葉」



否定できなかった。



グラスが差し出される。



「選ぶのはあなたですよ」



もう一度、言われる。



逃げ道はある。


ちゃんと用意されている。



それでも私は、


それを受け取った。



口に含む。



何もない。


味も、匂いも。



「ほら、普通でしょ」



その通りだった。



——最初は。



少しして。



違和感が、ゆっくりと広がる。



近い。



全部が、近い。



音も、空気も、距離も。



そして——



自分の中だけが、やけにうるさい。



「……これ」



声が、少し震える。



「どうです?」



分からない。


でも——


何もないとは言えない。



「気のせいですよ」



高瀬が、あっさり言う。



「そう思うなら、それでいい」



その言い方が、逆に怖かった。



気のせい。


そう思えば、それで終わる。



でも——



終わらせたくない自分がいる。



「人って、面白いですよね」



静かな声。



「許可があると、どこまでも行く」



許可。



誰の?



「自分で出してるのに」



思考が、少しずつ鈍る。



考えるのが、面倒になる。



その代わりに——



変な安心感があった。



「ここでやめます?」



また、聞かれる。



試されている。



分かっているのに——



「……大丈夫です」



即答だった。



その瞬間。



理解してしまう。



これは、何かのせいじゃない。



私は、


自分でこれを選んでいる。



高瀬が、少しだけ近づく。



逃げられる距離。



でも——



動かない。



動きたくない。



その理由を、もう考えていなかった。


帰り道。



何も変わっていないはずなのに、


何かだけが違った。



思い出す。



あのときの感覚。



完全じゃない。


でも、少しだけ再現できる。



「また、試します?」



あの声が、頭から離れない。



断ればいい。



それだけなのに。



気づけば私は、



“次はいつにするか”を考えていた。



——この時点で、もう終わっていた。


正体は、最後まで分かりません。


でも——

変わったのは、確実に“自分”でした。


次回、戻れなくなっていきます。

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