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第二話「距離が縮まる理由」

人は、急には堕ちません。


気づかないくらいの違和感と、

言い訳できる距離から始まります。


店に入った瞬間、少しだけ後悔した。


照明は落ち着いていて、騒がしすぎない空間。

仕事帰りのスーツ姿でも浮かない、よくある店。


——それなのに、落ち着かなかった。



「何飲みます?」


高瀬がメニューを軽く見ながら言う。


「……お任せで」


そう答えると、少しだけ目を細めた。


「そういうの、危ないですよ」


冗談っぽい口調。


でも、どこか試されている気がした。



「じゃあ、軽いものにしておきます」


そう言って注文を済ませる。


無駄がない。

迷いもない。


そういうところが、仕事中と変わらなかった。



グラスが運ばれてくる。


一口飲んで、少しだけ息をつく。


緊張していたのかもしれない。



「こういう時間、久しぶりですか」


不意に聞かれる。


「……そうですね」


嘘ではなかった。


誰かとこうして、仕事以外の時間を過ごすこと自体が、久しぶりだった。



「旦那さんとは?」


その言葉に、少しだけ視線を落とす。


「普通です」


間違ってはいない。


でも——正確でもなかった。



「普通、ね」


繰り返すように言って、グラスに口をつける。


それ以上は聞いてこない。


踏み込みすぎない距離感。



そのはずなのに——


なぜか、話したくなる。



「忙しくて、すれ違いが多くて」


気づけば、自分から口を開いていた。


「タイミングが合わないだけだと思います」


言い訳みたいな言葉。



「なるほど」


高瀬は、それを否定もしなかった。


肯定もしない。


ただ、受け取るだけ。



「でも、それって」


少しだけ間を置いてから、続ける。


「慣れてるだけじゃないですか?」



言葉が、刺さる。



慣れている。


その通りだった。


違和感を感じなくなっているだけで、

何も問題がないわけじゃない。



「人って、楽な方に流れますから」


静かな声。


「気づかないうちに、選ばなくなる」



選ばなくなる。


その言葉が、妙に残った。



「佐伯さんは、ちゃんと選んでます?」



すぐには答えられなかった。



私は、自分で選んできたはずだ。


仕事も、結婚も、今の生活も。



でも——


今この瞬間は、どうだろう。



「……分かりません」


気づけば、そう答えていた。



高瀬は、少しだけ笑った。


「正直でいいですね」



その言葉に、少しだけ救われた気がした。



時間は、思ったより早く過ぎた。


気づけば、グラスは空になっている。



「そろそろ帰りますか」


高瀬が立ち上がる。


自然な流れ。


何も違和感のない終わり方。



——のはずだった。



店を出て、少し歩いたところで、


ふと足が止まる。



「どうしました?」


振り返った高瀬が聞く。



言葉が出ない。



帰るべきだと思っている。


でも——


どこかで、それを拒んでいる自分がいる。



「まだ、時間ありますか」


口に出した瞬間、自分で驚いた。



高瀬は、少しだけ間を置いた。



「ありますよ」


短い返事。



その声が、妙に近く感じた。



「じゃあ、少しだけ」



“少しだけ”


その言葉を、また使っている。



最初から、分かっていたはずなのに。



高瀬は歩き出す。


私は、それについていく。



どこに向かっているのかは、聞かなかった。



聞かなくても、分かってしまう気がしたから。


部屋に入ったとき、


わずかな違和感を覚えた。



見慣れたはずの空間。


整っているのに、どこか落ち着かない。



テーブルの上に、


小さな瓶が置かれていた。



透明な液体。


ラベルはない。



「それ、何ですか」


自然と視線が向く。



高瀬は、それを手に取った。



「こういうの、興味あります?」



軽い調子。


でも——


逃げ場のない問いかけ。



一瞬、沈黙が落ちる。



断るべきだと、分かっていた。



なのに、


視線が逸らせなかった。



「知らないままでいられるなら、それが一番ですよ」



静かな声。



それでも私は、


その場を離れなかった。



——このとき、まだ引き返せたのに。


この時点では、まだ“ただの飲み”のはずでした。


でも——

一歩踏み込んだ時点で、もう同じ場所には戻れません。


次回、選択のきっかけが現れます。

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