ページ7 真実と35分の価値
「澪!」
その時、店のドアが勢いよく開き、陽菜が息を切らしながら入ってきた。
「もう! ここにいたの!? 探しちゃったじゃない!」
陽菜は、まるで親に叱られる子どものように、少しだけ不満げな顔で澪に言った。
そして、俺に気づくと、眉間に深い皺を寄せ、鋭い眼差しを向けてきた。
「澪。ここには来たらダメって言ったよね?」
「だって。」
「だって何?」
「食べたかったんだもん。美味しいケーキ。」
そのやりとりを聞いていて颯太は居ても立っても居られなくなってしまった。
「なんでダメなんですか?」
陽菜はさらに眼光を強めた。
颯太は何か罵詈雑言を浴びせられる覚悟をしていたが、陽菜はそれ以上何も言わなかった。
「あなた、この後時間ある?」
その言葉に今すぐ答えを出せずにカウンター近くを覗くと、マスターと大輔がどうぞと手を差し伸べていた。
「はい。大丈夫ですけど。」
「なら着いて来て。全部教えてあげる。」
陽菜は「その覚悟があるならだけど。」と付け加えてきた。
最後のひとことに颯太は男として引けないと思った。
――――――
颯太が連れて来られたのは病院だった。
そういえば澪の日記にも病院に行くと書いていた気がする。
陽菜はなぜ颯太を病院に連れてきたのか、話してはくれなかった。
受付をして呼び出しがあるまで三人は病院の待合スペースで静かに過ごした。
席順は澪、陽菜、颯太という並びだった。
澪は陽菜と先ほどのことで気まずそうにしていて、颯太はもちろん陽菜と話すことなんてない。
颯太はひとり、待合の天井をぼんやり見上げた。
消毒液の匂いと、遠くで鳴り続けるナースコールの音。来るたびに気が滅入る場所だなと思っていたが、澪はここに何度も通っているのだろうか。
席順ミスだろ。と気まずい時間を颯太は席順、いや陽菜のせいにした。
隣の澪はというと、膝の上に手をそっと重ねて、窓の外を眺めていた。
中庭に植えられた小さな木が風に揺れている。
退屈なのか、それとも何かを考えているのか。
颯太には判別がつかなかった。
「笹川澪さん。」
澪が呼ばれると澪だけが診察室に行く。
陽菜は「来い」と言わんばかりにある場所に向かう。
それはリハビリ室だった。
廊下を歩きながら颯太は横目で陽菜の横顔を盗み見た。険しかった眉が、澪の後ろ姿を見送ったあと、ほんの少しだけゆるんだように見えた。気のせいかもしれない。でも颯太はその一瞬が気になった。
しばらくすると、澪が先生と一緒にリハビリ室に来る。
リハビリ室では澪はカードのマークを記憶してそれを答えるという治療をしていた。
澪は問題なくカードの内容を当てられていた。
ハート、スペード、ダイヤ、クローバー。
先生がめくったカードを澪は少し考えてから答える。
正解するたびに先生は「よくできました」と短く言って、次のカードをめくる。
ゲームのように見えて、ゲームではない。
颯太はそれがなんとなく分かって、胸のあたりが重くなった。
これがなんだというのだ。
颯太はもうたまらなくなっていた。
「ここに来たら何が分かんの?」
「あんたってデリカシーないよね。」
颯太の疑問を陽菜は一蹴する。
「まずあのリハビリは日常。特に一日の中で記憶障害が起きていないかの検査でもあるの。」
「記憶障害?」
そうか、だから俺のことを覚えていなかったのか。
先日のショックから颯太は一気に立ち直ってきた。
「ってことはもう治りかけてるってこと?カードの中身覚えてるみたいだし。」
「いいや。あれは悪化してないかの検査。澪は。」
そこまで言うと陽菜は口をつぐんでしまった。
「彼女は35分しか前日の記憶を引き継げないんだよ。」
陽菜の代わりに真実を教えてくれた少し野太くだらけた声は聞き覚えがあった。
「一ノ瀬先生?」
一ノ瀬はこの病院でカウンセリングをしていた。
さらには澪はその患者だという。
一ノ瀬は澪の病気について説明してくれた。
彼女の記憶障害は中学時代の事故によって起こった。
事故以前の記憶はそのままあるが、事故以降は記憶が35分しか引き継げなくなっていた。
35分は続けた35分かもしれないし、途切れ途切れの35分かもしれない。
例えば続けた記憶の場合。
アニメが大体30分弱。
ドラマは1時間弱だから半分ほどしか覚えられない。
授業は専門学校で言うと一コマ90分だから一コマの三分の一。
食事も35分くらいとるだろうし、お風呂も長ければそれくらい。これらを1日の中でやったとして、このどれかの記憶しかない。
さらには途切れている場合、1日で合計35分かお手洗いに行っているかもしれない。
昨日の記憶のすべてがお手洗いの時間なんてことも。
颯太は黙って聞いていた。
聞いているうちに、じわじわと現実の輪郭が迫ってきた。
自分がここ数日で澪と交わしてきた言葉の、どれかが彼女の中に残っていて、どれかが残っていない。
どの瞬間が消えて、どの瞬間が残っているのか、本人にも分からないということだ。
さらに陽菜も「想像してみろ」と続けた。
誰かに会っても覚えていない。
美味しいものを食べても覚えていない。
楽しいことも悲しいこともあった日にも、悲しいことしか覚えていない。
彼女はそんな日々を送っているのだ。
1日の睡眠時間を8時間だとすると、1日の活動時間は16時間。分に直すと960分。彼女の記憶に残るには960分の35に残らなければいけない。
颯太は計算した。960分の35分。
約3.6パーセント。
それだけが明日へ繋がる。
「全てを覚えらるわけがない。だからあの子は日記をつけてるのよ。」
陽菜の言葉に、あのこと細かく書かれていた日記の謎が解けた。
あの日記は補助記憶だった。
自分の脳が引き継げない分を、言葉と文字で補う。
どこへ行ったか、誰に会ったか、何を食べたか。
颯太には当たり前すぎて書こうとも思わないようなことが、あの日記には丁寧に、几帳面に書き連ねてあった。
でもまだ解けない謎がある。
「35分の価値って?」
陽菜は少し黙って、諦めたように答えた。
「35分に残るまで食べ続ける価値があるってことよ。」
なるほど。この言葉自体の理解より、陽菜の諦めた感じの原因が分かった。
俺のケーキが美味しかったと認めたくなかったのか。
と颯太はまず思った。
そして後からじわじわと嬉しさと何か分からないおぞましい感情が浮いてきた。
彼女にケーキを認めてもらえたのは嬉しい。
でもこのおぞましさの原因がすぐには分からなかった。
「分かったでしょ。中途半端な思い出はあの子を苦しめるだけなの。例えそれほど美味しいケーキに出会ってもあの子の記憶に残るまでは、何千回、何万回とケーキを食べて覚えてない絶望を味わうことになるのよ。」
陽菜の言葉はゆっくりと颯太の胸の中に落ちていった。
何千回、何万回。
澪は毎日ケーキを食べているのかもしれない。そのたびに「美味しい」と笑って、そのたびに忘れて、またゼロから「美味しい」と出会い直す。それは幸せなのか。それとも、知らないまま繰り返させられているという意味では、残酷なのか。
颯太には判断できなかった。
ただそのおぞましさの正体が、少しだけ分かった気がした。
自分は澪にとって何者でもない。
何度会っても、何度話しても。
毎朝リセットされる世界の中で、颯太という存在は彼女にとって見知らぬ人間に過ぎない。
嬉しかったはずの「35分の価値」が、今は刃のように颯太に刺さっていた。ケーキがそこまで美味しかったということ。それはつまり、颯太のことを覚えているのではなく、ケーキの味が35分に残り続けているということだ。
颯太は黙っていた。反論する言葉も、頷く言葉も、どちらも出てこなかった。
陽菜は、そのまま澪に構わないで欲しいということと、
ケーキを諦めるように説得して欲しいと頼んできた。
「あの子に関わって欲しくない、ってことじゃない。ただ、あなたが本気で向き合うつもりがないなら、早めに終わりにしてあげて。知らなかった、じゃ済まないから。」
陽菜の声は静かだった。
怒っているわけでも、責めているわけでもない。
ただ、言葉の一つひとつに、長い時間が詰まっているような重さがあった。
颯太はそれを聞きながら、この女がどれだけの年月を澪の隣で過ごしてきたのかを、ようやく想像し始めた。
話が一段落すると、一ノ瀬と陽菜は澪のカウンセリングに向かう。
残された颯太は、リハビリ室のガラス越しに澪をしばらく見ていた。
澪はすでにリハビリを終えて、先生と何か話している。
笑っていた。
さっきと変わらない、あの笑顔で。
何も知らないように見えて、全部知ったうえで笑っているのか。
颯太にはまだ分からなかった。
ただひとつだけ分かったのは、自分がまだここを立ち去れないということだった。




